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【子育て】「先生がお母さんだったらアタリ」の真意とは

生徒に言われた。

「まるさんかく先生がお母さんだったら、めちゃくちゃ当たりじゃん!」

アタリとかハズレとかという言葉を使って、生徒は平気で先生たちを評価する。
担任が誰だからアタリだとか、あの教科は誰だからハズレだとか。
私が居る前でも平気で話してくるのはいかがなものかと思うが、口を挟むと「先生はハズレだと思ってないから!」と褒められた。

ありがとう!!

じゃなくて。
そういうことじゃないから。

ただね、気になるコメントがそこに続く。
「先生がお母さんだったらめちゃくちゃアタリじゃない!?」の発言。

お母さんとは。
そうか、アラフォーだと生徒(17〜18歳)からしたら、私はお母さんという見方なのか。

どういう意味?と聞くと、
次の2点が返ってきた。

・面倒見がいい
・距離感

面倒見が良いという点で思い当たることは、私はとにかく声を掛けまくるタイプの教師であること。
各生徒の性格や特徴、部活動の取り組み、友人関係、恋愛事情など、ある程度の情報は入れている。
年度が変わり、授業担当じゃなくなってしまった生徒にも「久しぶり、元気?」と声を掛けるし、落ち込んでそうな子には「なんかあったの?」と顔を覗き込む。
これが私のデフォルトスタイルなため、たまたま忙しくて声が掛けられない場合は、生徒とすれ違いざま、「先生、声掛けてくれなかったね」とボソッと言っていたのを聞こえてしまったりもする。
ハードルが上がれば上がったなりに、一度の手抜きが致命的なようだ。
気をつけなければ。

ということを踏まえれば、ふたつ目の距離感も納得がいく。私は生徒との距離が割と近めである。
がしかし、ポリシーである絶対に譲れない点は、友だち先生にはならないということ。
若手教員に多い、仲良くなるということを勘違いして、先生と生徒の関係性が崩れてしまっている場合が起こり得る点。私も20代の頃は、こうならないように留意していた。
昔ほど先生の存在が厳格かつ絶対的ではなくなったとはいえ、こちらは指導する立場。
ある一定の距離感は保ちつつ、相談しやすい、頼られやすい雰囲気は持ち合わせていたい。

教師の良し悪しを測るバロメーターのひとつが、「生徒がしんどいときに、相談に来るかどうか」だと思っている。
わーきゃー一緒に盛り上がるとか、会話していて面白いとか、そのレベルを何ランクも上げた先にある信頼の証し。
経験値や年齢なども関係するのかもしれないけれど、私は、生徒がつらいときに顔が浮かぶ先生でありたいと思っている。

そしてこれらの要素は、生徒にとって、どうやら母親像と相似しているらしい。

面倒見がよくて、距離感が絶妙な母親。
日常を振り返ってみた。

「面倒見がよいのか」
息子のことは面倒をみている。
もちろん親だから。
でも、生徒と同等にできているかというと、実は自信がない。

保育園に持っていくべき着替えを忘れるとか、保護者面談の希望日程を提出しないとか、お弁当セットへランチョンマットを入れ忘れるとか、そんなんばっかり。

持ち帰り仕事の最中に、ダメだと分かっていても、ワンオペだから仕方なく隣でYouTubeを息子に見せながら…なんてことだってあった。
公園へ行けば、滑り台をかれこれ30回以上滑っている息子を、無の心理状態で見つめているときもある(無表情で手を振り返す、とか)。

「距離感に関して」
親子だから。
親子間の心地よい距離間を保てていると思う。
ただこれが他の親子との比較でいうと、もしかしたら距離が「遠め」なのかもしれないな、と思うこともあるのだ。

例えば保育園に迎えに行った際、ママたちが子どもを抱きしめて、ほっぺたを合わせたりするスキンシップを見るとなんだかもぞもぞしてしまう。
私はしないな、少なからず人前では。

例えば子どもを叱るとき、めちゃくちゃ顔を近づけて、言葉遣いも子どもに寄せた形態をとるシーンを目にすることがある。
私はしないな、寧ろ距離をとる。
「ダメです」とか息子に言ってる私は、どこか職業病なのかもしれない。

生徒たちよ、
これが現実なのだよ。
先生は母親だけど、アタリな母親かどうかは分からない。

以前にもこんな記事をあげていた。

生徒たちよ、
よく考えてみて欲しい。
親子関係が周囲に全て分かってしまうような状況ってどうなのかを。

仮に、親子関係が良好であることの定義を考えてみる。
たまにテレビで見かける、腕を組んで歩く母娘の姿。
インタビューを受ける娘は、「◯◯ちゃん」と名前にちゃん付けで母を呼ぶ。
ない、無い、ナイ。
それが良好かと聞かれれば、その親子の在り方に拠るのだろう。
だが私の子育て観においては、無い。

つまり、親子関係は、その関係を持つ当事者にしか分かり得ないこともたくさんあって、他人が見ているのはその一部だけであることが前提。
だから、私がたまたまひとりの母親であり、先生として学校へ勤め、その様子を勝手に「この人が母親だったら」というメガネをかけて私を視る生徒たちの物差しは、もしかしたら目盛りがズレまくってるかもよってこと。

そう、
私はいい先生かもしれないけれど、
いい母親ではないのかもしれないのだ。

でも、良いのだ。
50点の母親でも。
一応、息子は今のところ健康に育っている。

今日も出勤した。
土曜日も働くお母さんを見て、我が子はどう思うのだろう。
いい母親ではないのかもしれないな。

「お母さんがお母さんだったからアタリ」
なんて息子に言われる日は来るのだろうか。

少なからず、息子が息子に生まれてきてくれたことは、私にとって大当たりであるのだけれど。
それを言う日も、来るのだろうか。

では、また!

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