見出し画像

小栗の椿 会津の雪㉓


第六章 激戦③
 
 
 熊倉は、米沢街道の宿場町だ。敵兵の圧倒的な数に押され、街道沿いで戦う味方の兵は各方面からここ熊倉に集まっていた。
 町野隊長率いる朱雀隊士中四番隊および付属隊の誠志隊、修験隊、朱雀寄合二番隊、その中にあどけない少年達の姿があった。
「原隊長!」
 銀十郎が津川宿を敗走して以来の、懐かしい顔に声をかけた。
「銀十郎! 生きていたか」
 男の目尻が下がる。半月ぶりに見た男の頬はやつれていたが、その目は鋭く光っていた。
「銀十郎殿!」
 銀十郎に気付いた少年達が集まって来た。心なしか逞しくなっている様な気がした。もう二月もの間激戦を潜り抜けて来たのだ。それでも目を輝かせて銀十郎に集まる少年達に、込み上げてくるものがある。
「みんな、元気だったか?」
「はい!」
 一斉に胸を張って少年達が答えた。まるで訓練で褒められた時の様に。
「私は、銀十郎殿に教わった通り、敵兵を銃でしとめました」
 そう言ったのは、一番年下の嘉龍二だった。
「俺も、俺もです!」
 平太と小太郎が負けずに手をあげる。チビだった平太の背が少し伸びた気がする。戦の最中でも成長しているのかと、頼もしい様な切ない様な気持ちになる。
「わかった。武勇伝は後でゆっくり聞かせてもらおう。明日も早い。飯をもらって休め」
「はい」
 少年達が笑顔で返事をして、飯場へ向かう。
「ずい分人数が少ない様ですが……」
 白虎隊寄合一番隊だけとしても、半分もいなかった。一瞬、嫌な予感が過る。
「只見川を挟んで、対岸の敵と戦っていたのだが、既に城下にいた西軍が援軍に押し寄せた。挟み撃ちに合いそうになって、北と南の二手に別れて逃れたのだ。寄合二番隊と一番隊の半分が、南から城へ無事に入った。恐らく城内の守備についていることだろう」
「そうですか……」
 銀十郎はほっとした。
 城に入った少年達は、家族に会えただろうか。今でも敵の大砲が、城に向けて火を吹いている。
「それでも、多くの隊士を失った。新六郎、駒之助、八太郎、八弥、今日は彦三郎も……」
 苦い表情で原隊長が指を折った。失った少年を、一人として忘れていない。忘れてはならないという思いがその表情から伝わった。
「彦三郎も……」
 銀十郎は言葉に詰まった。
『実戦を経て、訓練の本当の意味を知りました』
 そう言った時の彦三郎の大人びた笑顔を思い出し、胸が痛んだ。
「原隊長。今からでも遅くはありません。一番隊を連れて、城に入ったらどうです。明日からは激戦です。町野隊長は、銃弾が尽きれば槍一本でも敵兵に向かっていく覚悟です」
「いや。それはできぬ」
「しかし、城に入れば、家族と会える者もいましょう。ここにいたら、もう二度と会えなくなるかもしれません」
「……ここにいる隊士は、覚悟を決めた者ばかりだ。彦三郎などは、家も家族もみな失ったと聞いた」
 原隊長は、そう言って目を伏せた。原隊長の屋敷も西郷頼母邸の近くだ。恐らく住みなれた屋敷は既にない。
「そうですか。それなら……」
 銀十郎は、背負っていた二つの銃のうちの一つを原隊長に差し出した。
「これをお使い下さい。七連射の最新式の銃です。元込め銃で、ゲベール銃の二十倍は弾を撃てます」
「しかし、これは銀十郎殿が使った方がいいだろう。某より余程腕が立つのだから」
 新しい銃を目の前にして、原隊長が戸惑った顔をした。
「いえ。俺には、これがあります。亡き殿からもらったこいつの方が使い慣れていて、いざっていう時の命中度がいい」
 銀十郎は、手にしっくりなじむミニエー銃を示した。
「これは原隊長に使ってもらいたいのです。あの子達の側で守ってやって下さい」
「銀十郎殿……。あいわかった」
 原隊長が銃を手に取り、真っ直ぐに銀十郎を見据えた。
 銀十郎は、白虎隊の少年達に視線を移した。
 越後へ出陣して二月。夏の薄手の衣のまま、草鞋も擦りきれている。軒下に腰を下ろし、握り飯を頬張る少年達は、時折ふざけ合い笑顔が見える。
 この中の多くは、既に住みなれた屋敷も、家族も失った。戦が終わっても、会津は今までの様にはいられまい。それでも、この逞しさがあればこの子達は何にでもなれる。もしかすると、家禄の高い士中隊よりも、縛られるものが少なく自由に羽ばたけるかもしれない。
「あの子達には、一人でも多く生き抜いて、戦が終ったら将来何になるか、真剣に考えてもらいたいんです」
 俺の分まで……。最後の一言は意識的に飲みこんだ。
「……そうだな」
 原隊長の目尻の皺が深くなると、生真面目そうな男の顔が柔らかな表情になった。
『銀十郎。お前は何になりたい』
 小栗上野介にそう問われたのが、はるか昔の様な気がした。
 子供の頃、偉くなりたいと思っていた。いつも後ろをついてくるお転婆な女の子とつり合う身分になりたいと。その夢はついに叶わなかったけれど。
『殿。俺は、大切なものを守れる強い人間になりたいのです』
 銀十郎は、少年達一人ひとりの顔を見ながら、心の中でつぶやいた。
 
 
                 ◆
 
 
 夜が更け、月がぼんやりと刈り終わった田を照らした。熊倉街道と漆街道に交わる様に、北から南に伸びる用水の窪みに、朱雀隊士中四番隊と付属隊、朱雀隊寄合二番隊が待ち伏せている。後方には、白虎隊寄合一番隊が控える。
 ここからすぐ先に、敵の宿営がある。町野隊長は、ここで待ち伏せる作戦に打って出た。
 ぐっと気温が下がり、指先が悴むのを防ぐ様に掌を擦り合わせる。
「寒みいな」
 直ぐ後ろでつぶやいた声に、銀十郎は一瞬違和感を覚えた。人一倍寒がりな男の太い声じゃなかった。振り返って顔を確かめ、その時に初めて伝三郎がいないことを思い出した。
「ああ。指だけは温めておけよ。いざっていう時にすぐ銃が持てるようにな」
 戸惑う顔を見られない様に、銀十郎は目の前の暗がりをじっと睨んだ。後ろにいたのは、光五郎だった。
 深い漆黒の闇は、次第に東の空の白さにかき消されていく。用水の両岸に生えるススキの先に、朝露の雫が光る。
 街道の道筋がぼんやりと見えてくる。銀十郎は朝もやの向こうに目を凝らした。
 敵の隊列がゆっくりと姿を見せた。先頭を歩く兵が欠伸をする。夜遅くまで宴会でもしていたのだろうか。眠気眼の兵の顔を見ていたら、銀十郎の頭の芯が冷えた。冷静に銃の先を隊列に向ける。そろいの黒い軍服の隊列。後方に、人足が大八車を押している。伝令らしき男が走って来る。立ち止まって報告を受けた年配の男が、こくりと頷いた。
 離れた所で指揮をとる町野隊長に視線を送ると目が合った。銃の腕と目のよさは、いくつもの戦の経験で、絶大な信頼を得た。最初の一声は銀十郎に任せてもらっている。朱雀士中四番隊と誠志隊が、用水に隠れて銃を向けている。別の道で挟みこむ様に、朱雀寄合二番隊と修験隊が控えていた。
「今だ! 撃て!」 
 銀十郎は声を上げた。その声は方々から聞こえる銃声で、すぐにかき消された。銀十郎の狙った男が胸を押さえて後方に倒れる。
「いけ! 突撃!」
 町野隊長の号令が響く。刀を持って飛び出した朱雀士中四番隊の猛者達に、敵兵は慌てて逃げ出した。その背中を追いかけ白昼戦になる。次々に敵兵を切り殺していく。
 銀十郎は仲間と共に用水の陰から街道に飛び出した。死体と共に置き忘れられた大八車の木箱の中には、百挺はありそうな元込め銃が詰まっていた。
「光五郎、桂輔さん。これを頼みます」
 頷く二人に運搬を任せ、銀十郎は他の仲間と一緒に町野隊長の後を追った。
 引き上げた敵兵は、小田付村に敗走した。地形を熟知している会津軍は、勝鬨をあげながら小田付村を追い出す勢いで、敵軍と対戦した。
 一方の、朱雀寄合二番隊も北から迂回し敵の背後に回る。敵兵を挟み撃ちにし、敵味方が入り乱れる。
 気が付くと、白虎隊寄合一番隊も戦闘に加わっている。四人一組で敵にあたる銀十郎が教えた基本的な戦術で、大人相手にひけを取らなかった。
「深入りするな! 仲間と一緒に行け」
 原隊長が七連射の銃を持って激を飛ばす。
 押し倒された小柄な少年にも、敵が容赦なく刀を振りかざす。
「平太!」
 原隊長が銃を撃った。刀がぽろりと落ち、敵兵が膝をつく。
「彦三郎の仇!」
 嘉龍二が背中から刀を突き刺した。幼い少年の顔が、朱色に染まった。
 優勢に運んでいた戦況が変わったのは、昼前近くだった。塩川方面から城下へ向かっていた西軍の別働隊が、味方の劣勢の報に引き返し、会津軍の側面をついたのだ。
「敵の援軍だ!」
 突然現れた銃声に、少年達は浮足立った。
 嘉龍二が肩を撃ちぬかれ、前のめりに倒れた。逃げようとした平太が振り返ってかけ寄る。銀十郎は、咄嗟に銃を持って前に出た。止めを刺そうと、刀を振り上げた敵兵の心臓を狙って引鉄を引いた。
「大丈夫か!」
 倒れた敵兵を横目に、銀十郎は低い姿勢で二人にかけ寄った。嘉龍二は、顔を歪めながらも目を開けて頷いた。
「銀十郎! こっちだ!」
 木の陰から龍作が呼んだ。仲間が援護射撃をする。林に逃げ込んだ白虎隊士も銃を構えている。
「行くぞ!」
 嘉龍二の腕を首に回し、一気に駆け抜けた。
 林の茂みに嘉龍二を隠し、手拭で止血した。嘉龍二は一言も弱音を吐かず、歯を食いしばる。出血がひどく手拭から血がにじむ。
「嘉龍二!」
 原隊長が駆け寄り膝をついた。
「隊長。……すみません。足手まといになって……。か、介錯を……」
「馬鹿言うな! 死ぬような怪我じゃねえ。光五郎、南原へ連れてってくれるか?」
 銀十郎が近くにいた幼なじみに頼むと、光五郎は頷いた。
「銀十郎、どうする? 埒があかねえぞ」
 木の陰から銃を撃ち合っている龍作が弱音を吐いた。どうしても弾込めの時間がかかる味方の銃は、銃撃戦では分が悪かった。
 しばらくして援軍がやって来た。朱雀寄合二番隊だ。西軍が慌て、銃弾の勢いが止まる。
「今だ! 突撃!」
 一瞬の隙を町野隊長は見逃さなかった。唸り声をあげながら突進する猛者の勢いを銃声がさえる。ばたばたと倒れる中さらに前進を止めない朱雀士中四番隊が、敵兵と再び激しい白昼戦になる。
 前線で戦う町野隊長を援護するために銀十郎は前に走った。手頃な枝ぶりの木に登り、そこから町野隊長の戦いを目で追った。隊長の存在は、隊にとって重要だ。銀十郎がいつも敵の隊長を真っ先に狙うのはそのためだ。
    町野隊長は、最前線で戦いながら激を飛ばす。戦場では鬼の様に恐いが、戦場を一歩離れれば身分の低い者にも礼を尽くす。その人柄は隊士から慕われていた。
 町野隊長が刀で敵を突き刺す。血を掃う余裕もなく別の敵と刃を交えた。その後ろで刀を振り上げる大柄の男を狙って引鉄を引いた。ぐらりと傾く男の後ろ姿を見ながら、町野隊長がいつだか『おまえがいるから、某は思いっきり前線で戦えるのだ』と言って豪快に笑ったのを思い出した。
 次の瞬間、銃声が響いた。
「……!」
 脇腹に熱い鉄を当てられた様な感覚がはしる。
 銃で撃たれるってのは、こんな風なのかもしれない。多くの人間を銃で殺してきたというのに、呑気な考えが頭をよぎった。
「銀十郎!」
 名を呼ばれて目を開けると、柔らかな草むらに仰向けで倒れていた。いつ木から落ちたのかわからなかった。脇腹が熱い。
 へたくそめ……。罵った言葉は、声にはならなかった。銀十郎が敵の心臓か頭を狙うのは、苦しむ時間が少なくてすむようにだ。
「銀十郎!」
 頬に温かい物が落ちる。銀十郎の顔を覗きこんでいるのは、大粒の涙を流す龍作だった。
 何泣いているんだよ。俺がこの銃で何人の敵を殺したと思っているんだ。
「何? 何て言ったんだ?」
 龍作が聞き返す。つぶやいたと思ったが言葉にはならなかったらしい。脇腹に痛みが走り、銀十郎は思わず顔を歪めた。
「少しの間辛抱しろ、銀十郎。俺が、南原まで連れて行ってやるからな」
 腹に手拭いを巻いて止血しようとしているのは桂輔だった。南原という言葉を聞いて、さいの温もりを思い出す。
 しかし、それは一瞬だった。想像以上の痛みに、何も考えられなくなる。死ぬっていうことは、こういうことなのか。何度も死と隣合わせでいたのに、何もわかっていなかった自分がおかしい。
「もういい、無駄だ……」
「何、言ってんだよ。俺は諦めねえからな!」
 今度は言葉になったのか、桂輔が怒鳴った。
「おめえに、今死なれたら俺は困るんだよ! 濤市さんに頼まれているんだからよ!」
 必死に血を止めようとする桂輔から、さいの夫の名が出てくる。この人は、何を言っているんだ。俺が死んだら、さいの旦那はほっとするんじゃねえのか。
「濤市さんはな、おめえがどんな男かよく見てくれって頼んで来たんだよ。おめえが俺の目に適うやつなら……、さいちゃんとおめえが本気なら……、身を引いてもいいって……」
「何だって……」
「俺は、まだ迷ってんだよ。今死なれちゃ困るんだ……。おい、聞いているか、銀十郎……」
 涙を流しながら怒鳴っている桂輔の声が次第に小さくなる。
『随分濤市さんも見縊られたもんだなあ。それこそ、濤市さんは、そんな人じゃねえんだよ』
 いつだったか、桂輔にそう呆れられたことがあった。
「ふ、ふふ……」
 思わず笑みが零れた。
「どうした、銀十郎! 辛いのか?」
 この声は龍作だろうか。目を開けているはずなのに、ぼんやりとして覚束ない。顔にポツリと何かが触れた。龍作の涙だろうか。
 いやこれはきっと雪だ。それが証拠に、目の前が真っ白になって行く。町野隊長が待ち焦がれた雪が、この世界を包み込んで行く。
「雪が……。俺達は……会津を、守ったんだな」
「何言ってんだ。銀十郎、しっかりしろ……」
 仲間の声が、雪にかき消されていく。
『私、銀ちゃんのことが好きだった!』
 さいが最後に言った言葉は、恐らく嘘じゃない。
 けれど、あれは告白なんかじゃない。別れの言葉だ。二年前、江戸へ発つ前にさいが涙をいっぱいに溜めて、それでも泣くのをこらえるために、唇をかみ締め銀十郎を睨みつけた。
 あれはもう過去のことだと告げたのだ。
 それでもいいじゃないか。俺は、会津とさいを守った。それで十分だ。真っ白な世界に包まれながら、銀十郎は満ち足りていた。
 会津が雪に包まれる。雪が降った朝は、静かで何も聞こえない。誰にも踏み荒らされていない清らかな白銀の上を、さいが恐る恐る踏み出していく。新しい足跡をつけたさいが振り返って微笑んだ。
 最期に銀十郎の脳裏に浮かんだのは、幸せそうなさいの笑顔だった。
 
 
                 ◆
 
 
「さいさん。嘉龍二の具合はどうだい?」
 裏口から井戸水を桶一杯に汲んで来た卯吉が、心配そうに声をかけた。
「ありがとう。……変わりはないわね」
 冷たい井戸水を盥に移し、温んだ手拭いを絞って少年の額にのせた。
    数日前、光五郎が運んで来た少年を、庫裏の板間に寝かせて面倒を見ているが、熱にうなされ目を覚まさない。
 二日前、南原から一里ほど北の一ノ堰で激しい戦いがあった。郭外で戦っている隊が一丸となって西軍と戦い、その一部が南原に近い雨屋でも戦闘になったと聞いた。
 戦が足音を立てて、近付いてきている。そんな気がしていた。
 夜、閉めきった雨戸を叩く音が聞こえた。囲炉裏端で、火の番をしていた三左衛門が鋭い表情で顔を上げた。卯吉が銃を手にするのと、さいが奥の間に駆け込むのはほぼ同時だった。休もうとしていた奥方達を納戸に隠す。
 房吉が戸口のつっかえ棒の前に立ち振り返る。さいは奥の間から顔を出し、目配せした。敵兵が来て騒ぎになるなら、三左衛門が裏口から奥方達を連れて逃げる手筈だ。
 その間もひっきりなしに戸を叩く音が響く。
「へい。こんな夜更けに何の用でしょう」
 房吉は呑気そうな声を出して、つっかえ棒を外し、戸を開いた。
「あれ、桂輔さん! どうしたんだい?」
「至急知らせたいことがありやして……」
 開いた隙間から土埃で汚れた顔を見せたのは桂輔だった。その後ろに、小柄な少年二人が恐る恐るという顔で立っている。
「平太と小太郎じゃねえか?」
 卯吉が銃を下ろし、駆け寄った。
「嘉龍二に教えてやりてえことがあって来たんだ」
「それなら……」
 卯吉が眉をひそめながら振り返る。
 視線の向こうに横たわった嘉龍二の痛々しい姿があった。
「嘉龍二! 俺達出世したんだ」
「白虎隊士中二番隊だぞ!」
 平太と小太郎が興奮した様に声をかけた。
「白虎隊士中二番隊?」
 聞き覚えのある言葉に、さいは思わず聞き返した。八重の屋敷で出会った悌次郎がいたのが白虎隊士中二番隊ではなかったか。
「二月もの間越後から転戦した白虎隊寄合一番隊が、戦の功績を認められたんだ。戸ノ原口で戦った白虎隊士中二番隊の生き残りは、士中一番隊と一緒に籠城している。代わりに、寄合一番隊が士中二番隊に昇格したんだ」
 桂輔がそう説明した。頬にも、手の甲にも血がにじんでいる。
「桂輔さん、怪我をしているの?」
 さいは、桂輔に駆け寄った。触れるほど近くで目の合った桂輔が、なぜか目を背けた。
「いや。俺は掠り傷だ。それよりも、あの子を先に……」
 平太の足には、擦り切れてぼろぼろになった草鞋がかろうじて結えてあった。いつ出来た傷なのか、親指が腫れ上がっている。
「昇格のこと、仲間にも伝えてやりたいって言うんで連れて来たけど、隊長が早く手当をさせてやりたかったんだろ」
「隊長って、原隊長かい?」
 卯吉が懐かしそうに口にした名に、桂輔は一瞬言葉を詰まらせた。
「……いや。望月隊長だ。……原隊長は、一ノ堰で討死した」
「何だって……」
「一ノ堰は、激しい戦いだった。寄合一番隊からも、何人も討死した。そんな中、原隊長は鬼の様な形相で、七連射の元込め銃で敵を撃ちまくった」
「七連射の銃って、銀さんが使っていた?」
「ああ。銀十郎があいつらを守ってくれって、原隊長に手渡したんだ。その銃ですげえ勢いで敵を倒した。その活躍もあっての昇格だ」
 心なしか桂輔の表情が硬い。さいの方を見ようとしないことが気になった。
「嘉龍二! おい、わかるか!」 
 少年達の声が震えた。今まで意識を失っていた嘉龍二が、薄らと目を開けている。
「小太郎、……平太か? お前らも、やられたの……か」
「違うよ。おまえに教えたくて来たんだ。今日福永村の本営で、陣将の上田学太輔様から、全員お褒めの言葉をいただいたんだ。俺達は昇進して、白虎隊士中二番隊と改称したんだ」
 平太が喜びを伝えた。
「士中二番隊? 俺は、夢を、見ているのか?」
「夢なんかじゃないよ。お目見えだぜ。俺達、殿に直接お会いすることも、お側でお守りすることもできるんだ」
「へえ、……すげえな」
 嘉龍二の瞳から涙が一筋零れ落ちる。痛みのせいか、喜びの涙なのか。それとも、こんな時に動けない身体がもどかしいのか。
「よかったな。でも、それくらいにしておけ。あまり疲れさせたらなんねえ」
 卯吉がそう宥めて、興奮した二人をひき放す。光五郎が湯を張った盥を用意して、平太の足元に置いた。
「手と顔も洗えよ。二人ともすげえ顔しているぞ」
 手拭いを用意しながら、光五郎が言った。
「洗って手当てをしましょう。この草鞋は、ずい分大きいみたいね。歩きづらいでしょう」
 平太の足に結ってある草鞋は、二回りくらい大きな物だった。
「母が作ってくれた草鞋は、とうに破れてしまい、戦の途中で失くしてしまいました。これは、敵の死体から拝借した物です」
 悪びれる風もなく、平太が言った。
 膿んで腫れている親指。裸足でどれだけ戦い、走って逃げたのか。死体から草履を剥ぎ取ることに罪悪感も沸かないほど、戦は激しく過酷だったのだろう。
 湯に足を付けると、平太はうっと小さな呻き声を上げた。
「少し沁みるだろうけど、我慢してね」
 さいは、子供の様な足を優しく洗った。
「……温かい。母上……」
 平太は首を横に振り、つぶやいた後、目をきつく閉じた。鼻を啜り、涙を耐えている。
 ここ数日、木枯らしは本格的な冬の訪れの様な冷たさだった。時折風花が舞う厳しい寒さの中、彼らは大人にひけをとらない厳しい戦いを繰り広げてきたのだろう。
「傷をよく洗って、二、三日は安静にしておいた方がいいわ。膿んで熱が出たら大変よ」
 足に布を巻いて、さいは言った。平太は、幼い頬を綻ばせて頷いた。
「さあ、桂輔さんも早く手足を洗って」
 さいは、未だに戸口の前に突っ立っている桂輔に声をかけた。いつも陽気な顔が強張っている。視線が合うとじっとさいを見つめる。
「三左衛門様、……さいちゃん」
 桂輔が、掠れた声で名を呼んだ。
「銀十郎が、死んだ」
「何だって、銀さんが?」
 ガシャッと何かが落ちて割れる音がしたのと同時に卯吉が、裸足のまま土間に下りた。
「冗談だろう。そんな見えすぎた嘘言うなんて、桂輔さんでも許さねえぞ」
 胸ぐらを掴もうとする卯吉を、房吉が間に入って止めた。桂輔は、青い顔をしたまま立ち尽くしている。
「銀ちゃんが、死んだ?」
 つぶやいたら急に現実のものになった様な気がして、身体が震えた。心臓の芯が冷えて、震えが止まらない。
「銀ちゃんが……」
「さいちゃん!」
 膝の力が抜け、崩れ落ちそうになるのを、光五郎が支えた。
「しっかりしろ!」
 肩を両手で支えられ、耳元で声がする。見上げると、光五郎の顔がすぐ近くにあった。こんな時、自分を支え叱咤するのが銀十郎でない事実に、眩暈がしそうになる。
『そんな顔すんな』
 ふと、銀十郎の声が聞こえた気がした。
『ヤツは決して不幸じゃない。守りたい人のために戦って死んだんだ』
 富五郎の死を、銀十郎はそう言って慰めた。銀十郎も不幸じゃなかったと言い切れるだろうか。確かめる術は、もうない。
「銀ちゃん、いっちゃったのね……」
「ああ」
 さいがそうつぶやくと、光五郎が泣きそうな顔をして頷いた。
 白虎隊寄合一番隊が、士中二番隊と改称した翌日、明治元年九月十九日、会津は降伏を決めた。
 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?