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小栗の椿 会津の雪㉔

 

最終章 足音

 明治五年春、さいは権田村の東善寺の庭に、椿の花を見に来ていた。
 駿河台の屋敷で愛でられていた椿の木は、権田村に送られる途中で西軍に奪われ売られたところを、心ある商人に買い受けられた。小栗上野介の眠るこの東善寺の庭に埋められた椿は、今年漸く一つ小さな紅の花を咲かせた。
 椿は気高く美しい。花のままぽとりと地に落ちる潔い花は、小栗上野介の最期と、会津の人々を思い出させる。
「かかしゃん」
 自分を呼ぶ愛らしい声に、さいは現実に引き戻された。
「三十郎、おいで」
 小さな葉を手に持ち、よちよちと歩いてきた我子を、さいは抱き上げる。

                  ◆

 奥方達の落ち着き先を整えた三左衛門やさいが、権田村に帰って来たのは明治二年の春のことだった。
 路銀は会津の冬を越すために底をついた。奥方様の着物も食べ物と交換し尽した。戦の後の会津の農村は貧しく、食料を得るためにも苦労した。二十両と、村を出る時に吉井藩士から貰った銭で江戸から静岡へ行き、結局再び江戸の小栗と懇意の商人を頼った。権田村に帰った時には、無一文に近かった。
 外から眺める家は、二年前慌てて飛び出した時と少しも変わっていなかった。背の伸びた妹弟に歓迎されながら中に入ると、屋敷の中も何も変わっていない。母の用意した着物に袖を通し、さいはこの二年間がなかった様な不思議な気持ちになった。
 部屋で一息吐くと、どたどたと廊下を走る足音か響いた。振り向くと、開けたままの襖の向こうに息を切らしている濤市の姿があった。
 面変わりした姿に、さいは一瞬目を疑う。
「……旦那様?」
 さいは弾ける様に立ち上がった。濤市が大股で近付き、さいの身体をきつく抱きしめた。
「よく無事で……、無事で帰って来てくれた」
 絞り出す様な声が耳元で響く。
「帰って来ました。ちゃんと、ここに……」
 夫の胸に顔を埋めながら、さいは頷いた。懐かしい匂いを嗅ぐ。この人はいつも不思議と柑橘の香りがする。
「佐藤銀十郎のこと……、残念だったな」
 ぽつりと濤市は言った。声に慰めの色が混ざる。
 先に村に帰った桂輔に聞いたのだろうか。夫の口からその名を聞いても、心は凪いでいた。
「すまぬ。すまなかった……」
「……旦那様、なぜ謝るのです?」
「さいに初めて会った時、どこかに想う男がおるのだろうと思っていた」
「初めて会った時?」
 名主の佐藤藤七の屋敷で地球儀を見ていた。海の向こうの国の名を教えてくれた男を、さいはまじまじと見つめた。あの時、ほんの少しの間で心の内が漏れるほど、わかりやすい顔をしていたのだろうか。
「ああ。一瞬、わしと結婚するのが信じられないという顔をしていた……」
 濤市は、さいを抱いたまま息を吐いた。苦笑していたのかもしれなかった。
「……それでも、わしは、一家の主になれるかもしれないという欲に抗うことができなかった」
 絞りだした様な懺悔の言葉を聞きながら、さいの心はやはり凪いでいた。
『これからのことは、その時に考えるとしよう』
 逃避行の前に、夫が言った言葉を思い出した。
『もう私のせいで、不幸になる女を作りたくはないと、ずっと思っていました』
 夫はいつも、さいの幸せを考えてくれていた。さいの幸せのためなら、身を引く覚悟をしながら、さいの家と家族を守ってくれていたのか。
 銀十郎が討死しなくても、さいはやはりこの家に、夫の胸の中に帰って来ただろう。
「旦那様……、ちゃんと食べていたんですか。こんなに痩せて……」
 骨ばった腕に強く抱きしめられて、その温もりを感じながら、さいは文句を言った。
「旦那様ばかり痩せられては、私が無理をさせて……いるのかと、みなに笑われます……」
「それは、沽券に関わるな……」
 濤市が息を吐いた振動が伝わった。きっと寂しげな表情で笑ったのだろう。
    さいは顔を見上げた。
「無理をなさったのですね……。私と、お父っつあんが、いない間に……」
 優しい眼差しで見つめる夫の削げた頬に、そっと指をあてた。
 小栗斬首の後に家探しが行われ、逃亡の主犯格で蛻の殻だったこの家は、家財道具まで持ち去られたと聞いた。
 しかし、さいが戻った屋敷は、以前と殆ど変わっていない。濤市が懸命に働き、買い戻したに違いない。三左衛門の代わりに家族を守り、村役人の仕事をこなす。小栗を裏切った名主藤七の弟である立場は、村人との板挟みにもなっただろう。
「ごめんなさい。苦労をかけて………」
 穏やかに微笑む懐かしい顔を見ていたら、涙がぽろりと頬を伝った。
「苦労など、おまえ達に比べれば何ともない。……よくやったな。辛かっただろう……」
 濤市が子供を撫でる様に、さいの頭に触れた。『辛かっただろう』と言われて初めて、辛かった日々がまざまざと思い出された。
 暗い闇夜を急いだ夜も、命を狙われて恐怖を感じた日も、頼りにしていた人を戦で失った時も、大切な人との別れも……、どんな時にも泣くのを堪えてきた。
「旦那様……」
 さいは夫の身体に縋り付いた。涙をおさえきれず、声が漏れる。
「おまえは、よくやった。……よくやった」
 何度も耳元で繰り返す熱い息が、泣いてもいいと告げている気がした。さいは、夫の胸の中で二年間堪えていた涙を流した。
 先に帰っていた仲間と再会する中で、無意識に銀十郎と富五郎の姿を探していた。いないのだと気付く度に、血の気の引く音を耳奥で聞く感覚に襲われる。
 戦で心を病んだのか、龍作は村に帰って来なかった。新潟で旅の一座と一緒いるという。
 もう一人、箱館に行った伝三郎の行方はわからないままだった。

                 ◆

 墓参りをすませたさいは、眠った三十郎を背負って家に帰った。几帳面にそろえられた夫の草履を見て思わず頬が緩んだ。
「ただいま帰りました」
 声をかけると、書斎から濤市が出てくる。
「三十郎は寝たのか」
「はい。もう重くて……」
「大きくなっている証拠だ」
 さいの背中から三十郎を抱き上げた濤市が、蕩けそうな顔をして赤子の顔を見た。
 奥の間に連れていく夫の背中を見て、さいはほっとした。
「さいちゃん! いるかい?」
 玄関に慌てた様子で走って来たのは、光五郎だった。
「しー! 今三十郎が寝たところなの」
 さいは人差し指を立てて、小声で光五郎に注意した。
「あ、すまねえ。……でも、それどころじゃねえんだ。今藤七様の屋敷に伝三郎さんが来て、仇を討つって、藤七様を出せって、言って聞かねえんだ」「伝三郎さんが……? 仇討?」
 光五郎が肩で息をしながら言った言葉に、一瞬思考が固まる。
「三左衛門様を呼んできてくれって」
「大旦那なら、水路の様子を見に行っている。俺が呼んでくる」
 息子を布団に下ろして来たのだろう。濤市が急いで草履を履いた。さいの肩をポンと叩き、外に出て行く。落ち着け、大丈夫だと言われた気がした。

               ◆

「だから、つべこべ言ってねえで藤七を出せって言ってんだよ!」
 名主藤七宅の庭先では、警官姿の大柄の男が怒鳴り声をあげていた。
「当主は留守でがんす。どうかお引き取りを」
 佐藤家に仕える下男達がなだめようとするが、ますます火に油をそそぐ様なものだった。
「俺は、さっきその当主の顔を見てんだよ。出さねえなら容赦しねえぞ」
 伝三郎が手にしたサーベルを振り上げた。
「伝三郎! やめろ!」
 裏口の方からかよの兄民吉が走って来る。伝三郎は、一瞬動きを止めた。池田家へ養子に入った伝三郎にとって、民吉は一時でも義理の父だった。
「おめえは何やってんだ! 仇討よりも先にすることがあるだろう。おめえがいなくなって、俺達が心配しねえとでも思ってんのか!」
 民吉が語気を荒らげた。生きているかもわからない、心配した気持ちが怒りになった。
「俺は、須賀尾のおっ母さんに何て報告していいものやら、会わせる顔がなかったんだぜ」
 大事に育ててくれた養母を出され、伝三郎が力なくサーベルを下ろした。
「伝三郎さん!」
 光五郎が声をかけると、振り向いた伝三郎は一瞬懐かしそうな顔をした。
「光五郎、生きていたのか?」
「そりゃあ、こっちの台詞だよ。今までどこで何していたんだい?」
「会津が降伏した後も、蝦夷で戦ったさ。新選組の土方さんや、伝習隊の大鳥さんと一緒に。殿の仇を討つためにな」
 伝三郎が胸を張って言い放った。
 会津での戦いが終わっても、戦は終わらなかった。場所を蝦夷箱館に移し、最終的に旧幕府軍が降伏したのは、明治二年五月のことだった。
「それで、仇は討てたのかい?」
 民吉は同情めいた声色で尋ねた。討てるはずはない。討っても何も変わらないと、暗に言っている。
「だからこそ、ここに来たんだ。元はと言えば、藤七の野郎が殿を連れ帰ったのがいけねえんだ。『もう解決した』等と嘘を吐きやがって、殿を騙して敵に差し出し……」
「伝三郎! それは違うぞ!」
 三左衛門が息を切らして駆け付けた。
「あの晩、わしと殿と藤七殿の三人は、納得のいくまで話し合ったのだ。殿は引き返せば命のないことはわかっておられた。会津行きをお勧めした我らを諫めたのは殿の方だった。殿はお命じになった。わしには家族を守る様に、藤七殿にはこの村を守る様にと」
「この村を守る……?」
「ああ。殿は村での暮らしを楽しみにしていた。だから、これ以上村人の命や家を失うことが我慢ならなかった。殿を逃せば村中に火を点けるという脅しを聞いて、覚悟を決めたのだ」
「それだって、藤七のヤツが殿にそんなことを言って来なけりゃ、殿は俺達と一緒に逃げられたのに……」
 伝三郎が、悔しそうに拳を震わせる。
「小栗上野介が生き残った方が、この国のためだったかもしれない。けれど、その代償としてこの村が焼かれ、多くの村人が不幸になることを、あの方は望んではいなかった」
 三左衛門の厳しい声に、伝三郎の表情が微かに動いた。
「殿が決めたことだ。この村を愛しみ、村を救うために命を投げ出す覚悟をした。そんなお人だったから、我々は命をかけてご家族を守ろうとし、仇を討とうとしたのではないのか」
「……三左衛門様」
 伝三郎の長身の身体が崩れ落ちた。膝を着き、拳を土に叩きつけた。
「殿……」
 大柄な男の絞り出す様な声が震えていた。銀十郎達が三国峠へ仇討ちに行った時、伝三郎は奥方の逃避行を助けるために戦に参加しなかった。その時の悔しさをその後の会津や箱館での戦で晴らそうとしたのだろう。
 二度、三度と地面を殴りつける拳。やり切れなさに振り下ろす先を、やっと見つけたのかもしない。
 民吉が、そっと伝三郎の肩に手を置いた。
「もういいだろう。奥方様を会津までお連れ出来たのは、おまえの先導のおかげだ。殿様もあの世で、きっと感謝しているぞ」
 伝三郎が涙をにじませたまま、義父だった男の顔を見上げる。
「家に寄って行け。かよも喜ぶ」
 伝三郎の視線が、しばし彷徨った。
「いや。それはできねえ」
 何かを断ち切るかの様に、伝三郎は立ち上がった。
「仇を討てねえなら、ここに用はねえ。帰る」
「帰るって、どこに?」
「京です。箱館戦争の後、一緒に戦った仲間に誘われて京へ。そこで警察官へ仕官しました。二度とこの村の土は踏むことはねえ。俺のことは、忘れてくだせえ」
 サーベルを腰に差し、帽子をかぶりなおした伝三郎は、そう言って民吉に背を向けた。そして、三左衛門に向き直った。
「京で警察官か。立派に暮す術はあるのだな」
「はい」
「だったらいい。蝦夷は、寒かっただろう」
 三左衛門が優しい声をかけると、伝三郎の口がへの字に曲がった。何かを隠す様に、帽子を目深に被り直す。
「それじゃ……」
 一礼し、伝三郎が裏門の側に立つ光五郎とさいの前まで大股で歩いた。そのまま二人の脇を通り抜けようとする。
「伝三郎さん!」
 さいは思わず呼び止めた。
「手から血がにじんでいる。家に少し寄って行って。洗って手当てをした方がいいから」
「こんなの、何ともねえよ。相変わらずお節介だなあ」
 伝三郎はぶっきら棒に言って、それでも、幾分口元を緩めた。
「なあ。銀十郎は、どこで死んだ?」
 突然、問われて頭は真っ白になった。伝三郎の太い声で銀十郎の名を聞くと、一瞬あの逃避行の最中にいる気がした。
「熊倉で、敵の銃弾にやられたんだ。熊倉での勝ち戦は、銀十郎のおかげだと、町野隊長からお言葉があったそうだ」
 代わりに光五郎が答えた。
「そうか。……あいつは自分の思う通りに戦ったんだ。それも、本望だろう」
 伝三郎が振り返り、さいの顔を見た。
「会津の戦の後、町野隊長が会津民生局で、戦死した亡骸を葬ることに尽力したそうだ。死体の数が多く、まとめて葬らざるを得ないところ、銀十郎の墓は単独で建ててくれたそうだ」
「そうか。町野様が……、銀十郎の墓を……」
 光五郎が声を詰まらせた。
「そう……」
 雪の融けた峠道に打ち捨てられたままの亡骸。春を待って会津を出たさいは、そこで見た光景に凍り付いた。
 こんな風に富五郎や銀十郎もどこかにいるのかと思うと胸が痛かった。
「伝三郎さん。その話を、どこで……」
「京都で聞いた。たまたま会津出身の女に会ってな。女ながらに城に籠って、スペンサー銃を手に戦ったって言っていたぞ」
「それは、まさか……。八重様では……?」
「ああ。銀十郎と、さいちゃんにも会ったことがあるって言っていたぜ」
 信じられない思いで尋ねると、伝三郎の口が緩んだ。
「八重様は、無事だったんですね」
「兄上と一緒に京で暮らしている。……会津の戦が懐かしくていろいろと話をしたよ。白虎隊士中二番隊は、戸ノ原口の戦いで敗れ、一部が飯盛山で集団自刃したそうだ」
「白虎隊士中二番隊が……、集団自刃……?」
 蝉の声が鳴りやまない夏の日に追いかけた少年の背中を思い出した。 
 もうひとつの白虎隊士中二番隊となった嘉龍二は、戦が終わった数日後息を引き取った。
『死んでいった仲間の分まで、生きます。これから先どんな過酷なことがあっても……』
 小太郎が、嘉平次を葬った後、目を赤くして決意を語った。
『俺も……。原隊長や銀十郎さんに守ってもらった命で、恥ずかしくないように生きます』
 平太もそう言って涙を拭った。
 少年達は、他の会津の兵と一緒に捕らえられ収容された。その後どうしたかはわからない。けれど、きっと夢を叶えるために懸命に生きていると信じている。
 突然、伝三郎が立ち止まった。広い背中にぶつかりそうになり、現実に戻される。
 街道に出る手前の屋敷の石垣に寄りかかる様にして立っていたのは、かよだった。
 「……息災だったか」
 体に似合わない小声で、伝三郎が尋ねた。
「お蔭様で。そっちこそ生きていたんですね」
「ああ。何とかな……。何度も死にそうになったが、悪運が強かったらしい」
「生きていたくせに、今まで何をしていたのよ」
 どうしてもっと早く無事を知らせてくれないのか、と詰る気持ちが混ざっていた。
 かよの剣幕に、一瞬伝三郎がたじろいだ。
「……すまなかったな。本当は、もうここには来るつもりはなかった……」
 言い訳の様につぶやく伝三郎の背中を見て、仇討は名目で、本当はかよに会うためにこの村に来たのではないかと、さいは思った。
「……もう誰かと一緒になったのか?」
 伝三郎が意を決した様に尋ねた言葉に、かよの目が吊り上る。年頃を過ぎたかよは、のらりくらりと、時には駄々をこねたりして、縁談を受け入れなかった。
「まだだけど、お相手は決まりましたから!」
「そうか……。俺の知っているヤツか?」
「み、光五郎さんです!」
 かよが裏返った声で叫んだ。光五郎の喉から、むせた様な音が出た。
 伝三郎が振り返り、舐める様に光五郎を上から下まで眺めた。
「伝三郎さん。こ、これには、訳が……」
 光五郎が額に汗をびっしょりかいている。伝三郎が、帽子のつばに手をかけた。 
 光五郎が咄嗟に顔を伏せた。恐る恐る目を開けた光五郎の前には、腰を直角に曲げて、深く頭を下げている伝三郎の姿があった。
 顔を上げて帽子をかぶり直した伝三郎は、大股で歩き出す。顔を逸らすかよの前まで来ると、足を止めた。
「光五郎は一見頼りないけど、骨のあるヤツだ。……いい男を見つけたな」
 かよが、顔を上げた。潤んだ瞳で伝三郎を睨みつける。
「達者でな……」
 伝三郎が速足で街道へ向かう。耳慣れない革靴の乾いた足音がツカツカと響き、大きな背中が次第に遠ざかって行く。
「かよちゃん。何であんな嘘吐いたんだよ」
 光五郎が、かよに駆け寄って続けた。
「伝三郎さん、本当はかよちゃんのこと、好きなんだよ。前に言ってた。『リスみたいに可愛い』って」
「……リス?」
 かよのつぶらな瞳が揺れた。次の瞬間、小動物の様に駆け出して街道に出た。
「伝三郎の馬鹿! アホ! 意気地なし!」
 街道を歩く旅人や、田んぼで野良仕事をしている男が、何事かと振り返る。伝三郎も気が付いて足を止めた。
「鬼! 鈍感男! 人の気も知らないで……」
 思いつく限りの悪態を叫んだかよの声が、涙で震える。ぽかりと口を開けて見入っていた伝三郎が、遠目でも笑顔に変わった。
「かよさん。幸せになれよ!」
 伝三郎が朗らかな表情で叫んだ。
 柔らかく笑う伝三郎をさいは初めて見た。逃避行の最中、伝三郎はいつだって、厳しく難しい表情をしていた。
 背を向けた伝三郎は、もう二度と振り返らなかった。曲がりくねった街道から、伝三郎の姿が見えなくなるまで、三人は黙ったまま見送った。
「ああ。すっきりした」
 涙を拭ったかよが、心から気が晴れた顔をして微笑んでみせた。
「全く、女っていうのは何考えているのかさっぱりわかんねえ」
 光五郎が呆れた顔で言った。
「せっかくだから、光ちゃんが幸せにしてあげれば? 伝三郎さんからお墨付きをもらったみたいだし……」
「うへえ」
 さいが半分本気で言うと、光五郎は蝦蟇蛙の鳴く様な声を出した。
「考えてあげてもいいわよ。幸せにしてくれなんて言わないわ。私は、勝手に幸せになるんだから」
 かよが強気な言葉を言った。
「本当に、女は強ええなあ。そんなの、尻に敷かれるのが決まった様なもんじゃねえか」
「あら、そうね」
 光五郎のぼやきを聞いて、さいとかよは同時に相槌を打ち、顔を見合わせて笑った。

                  ◆

 さいが屋敷帰ると、表玄関に見慣れぬ女物の草履が揃えられていた。
「さい、ちょっと……」
 母が、さいの帰りを待ちかねた様に小声で耳打ちした。
「どうしたの? 誰かお客様?」
「ええ。よき様が……。おまえ何か聞いているかい? 大旦那も用水の見回りに行って帰って来ないし」
 思いがけない名前に、さいは廊下を速足でかけた。今日は、なんて珍客の多い日なんだろう。
「よき様!」
 襖を勢いよく開けると、そこにいたのは、まぎれもなく一緒に旅をしたよきだった。しかし、五年の歳月は、幼い面影の残る少女から、年頃の美しい女性へと変化させていた。
「まあ、お久しぶりでございます……」
「さい、全然変わっていないわ」
 懐かしそうに言って、よきの目尻が下がる。
「それにしても、急にどうしたんですか? 供の方は……?」
 荷物は、小さな風呂敷包みだけだった。地味な着物に、飾り気のない簪一つを挿したよきは、静かに口を開いた。
「家出をして、一人で来たのです」
「お一人で、ここまで?」
 よきは首を縦に振った。
「縁談の話があったのです。私にはもったいない程の家柄で、よい人でした」
「それなら……」
 なぜ家出など、と続けようとしたさいは、よきの愁いを含んだ瞳にはっとした。
「自分の気持ちをきちんとせねばと思ったのです。だから、迷惑とは思いましたが、ここに……。縁談を受ける前に、どうしても卯吉さんに一目会いたくて……」
 辛い逃避行の最中に、二人は心を通わせた。年が近いからと誰も気にも留めていなかったが、幼い頃の淡い恋だと笑って一蹴することなど出来そうにない。
 帰って来た濤市に事情を話し、内密に卯吉を呼び寄せた。理由もわからぬまま座敷に上がらされた卯吉は、そこによきの姿があると信じられないという顔をして身体を固くした。
「まあ、座れ」
 濤市に促され、よきの正面に座った卯吉は、まじまじと目の前の娘の顔を見つめる。
「いやあ、たまげた。えれえ、別嬪さんになっちまって……。驚いたなあ」
 しどろもどろに頭をかきながら卯吉が言うと、よきは伏目がちなまま、顔を赤らめた。
「それで、今日は奥方様やおクニ様は? おクニ様は大きくなったんべ?」
「今日は、お一人でここまで来たのだそうよ」
 せっかく会えたというのに、固く口を閉ざしてしまったよきの代わりに、さいは言った。
「お一人で? まさか、東京からずっと?」
 卯吉の問いに、よきは黙ったまま頷く。
「よき様。何て危ねえことを。途中で何かあったらどうすんでい。来てえって知らせてくれりゃ、誰か迎えに行ったものを……」
「……卯吉さん」
 怒鳴り口調になった卯吉に、よきは目を潤ませて視線をあげた。
「あ、いや。すまねえ。俺、口が悪くて……。泣かそうとしたわけじゃ……」
「ううん。嬉しいんです」
「嬉しい?」
「前も、卯吉さんが本気で叱ってくれたことがあったでしょ。本当に心配してくれているってわかって、嬉しかった」
 涙目で懐かしそうに微笑むよきの横顔は、はっとするほど美しかった。
「私、卯吉さんに会いたくて、家を出たんです。どうか、卯吉さんのお側に置いて下さい」
 よきが、真っ直ぐに卯吉を見つめる。
「だ、だけど、俺とよき様じゃ、身分が……」
 一瞬ぽかりと口を開けた卯吉が、視線を逸らした。
 銀十郎の弟分だった卯吉も、今は背も伸び逞しい体になった。膝の上で握られている拳が震えている。
「俺はもう小栗様の家来でも何でもねえ。次男坊で継ぐ家もねえ。よき様に相応しい身分じゃねえから……」
 決して裕福とは言えない卯吉は、長井の酒蔵に住み込みで働いていた。
 農村の中にも身分差がある。村役人の家、本百姓の家、小作の家、もしかしたら、武士よりもはっきりとした壁があった。銀十郎が『偉くなりたい』と江戸へ旅立った理由が、大人になった今ならわかるような気もする。
「身分って何? もう武士は必要ない世の中になったのではないの? 私は旗本の娘でも何でもない。今は単なる居候の身です」
「でも、俺とじゃ苦労することになるし……」
「苦労なんて……。命を狙われて山の中を逃げたことも、会津で隠れる様に暮らしたことも、苦労だなんて思わなかった。さいさんや、それに、卯吉さんがいてくれたから……」
「……」
「それとも、私がお嫌いですか? そうはっきり言ってくれれば、諦めがつきます」
 よきが真っ直ぐに卯吉の顔を見据えた。
 卯吉が唇をかみ締め、拳を握りしめる。
「……嫌いなわけねえ。よき様を守るためなら、命をかけても惜しくねえと思っていた。それくらい、大切なお方だ。……でも、俺にはつり合う人ではないと諦めていた」
 気持ちを絞り出す様に告白した卯吉の言葉を聞き、よきの目から涙が一粒こぼれ落ちた。
「それでも、縁談話を断ったのは、どこか吹っ切れていなかったのではいか。しかも、婿養子になれるいい話だったではないか」
 助け舟を出したのは濤市だった。
「縁談話があったのですか?」
「ああ。萩生村で田畑もある家だ。娘しかいねえから、婿養子を探していた。卯吉に勧めたんだが、いつまでも煮え切らねえ。だから、どこかに想う女でもいるのかと思っていたのだ」
 卯吉が目をぎゅっと瞑って頭を垂れた。認めている様でもあり、認めまいと抗っている様にも見える。
「徳川様の世も、武士の時代も終わったのです。維新だなんて威張っているけど、この村でも、会津でもたくさんの血が流された。その上に今の世の中があるのです。少しくらい好きに生きたって、罰はあらたないでしょう」
 さいは、若い二人の顔を見ながら言った。
 藩が廃止され、新しく県を置く取り決めが行われたのは、昨年のことだ。だからといって、小さな農村に劇的に変化があったわけではない。村役人の三左衛門や濤市が、多少忙しく飛び回っただけだ。
「もちろん、二人が一緒になることを快く思わない人もいるでしょう。でも、それは二人の気持ち次第でしょう。よき様……いいえ、よきさん。贅沢はできないし、ひもじい思いもするかもしれないけど、堪えられる?」
「ええ。ひもじい思いなら、会津の冬で嫌という程味わいましたから」
「まあ、そうね」
 戦の後のひもじさと、それでも、笑顔を絶やさなかったよきを思い出した。あの頃、炊事も針仕事も熱心に覚えようとしたよきなら、やっていけるのではないか。
「あとは、卯吉次第だな」
 濤市が静かな声で言った。背中を押される様に、卯吉が顔を上げた。
「よき様。楽な暮らしはさせられねえ。でも、俺は命をかけて、よき様のおことをお守りします。いや、お守りさせて下せえ」
「卯吉さん……。命などかけなくていいから、ずっと一緒にいさせて下さい」
 二人は頭を下げた。顔を上げて直ぐ目の前にお互いの顔があり、照れた様に微笑んだ。
「まずは奥方様に文を書きましょう。お許しをもらえたら、……全てはそれからです」
 さいがそう言うと、よきは嬉しそうな顔を隠そうともせず、満面の笑みで頷いた。
「卯吉がうちの酒蔵を手伝ってもいいが、村ではよき様の顔を知っている者も多かろう。大柏木村に継ぐ者のない家と田畑がある。誰も知らない土地で、二人で一から始めたいのであれば、そこで暮らす手もあるぞ」
「まあ、そんなお話が?」
 夫の提案に、さいは顔が綻んだ。
「ああ。桂輔の親類で子が出来ずに亡くなったのだそうだ。誰か入り手がいれば、譲りたいと言っていた」
「そのお話、奥方様のお許しが出たら、是非進めて下せえ」
 卯吉が急き込んで手を畳に突く。
「今度の話は、のり気になった様だな」
 濤市が目を細めた。小栗の家来になって村に帰って来た若者のことを日頃から気にかけてくれていたのがわかる。
「それでは、進めるとしよう」
 濤市がそう言って立ち上がった。さいも硯を取りに行くために一緒に客間を後にした。
 若い二人が、今さらながら久しぶりの再会を喜び、照れた様に見つめ合っている。
 二人が出会った頃は、身分という壁に隔てれ触れ合うことも許されなかった。新しい時代に、しがらみを断ち切り新しい一歩を踏み出そうとしている。その一歩はたくさんの流された血の上に築かれようとしている。幸せにならなければ、犠牲になった人達に申し訳ない。
「かかしゃん」
 昼寝から目を覚ましたのか、つたない言葉で母を呼ぶ声と、とっとっとっと、廊下から小さな足音が聞こえた。
「三十郎」
 小さな一歩ながら、しっかりとした足取りで歩く幼子を頼もしく思いながら抱きしめた。確かな幸せをかみ締めながら、さいは新しい時代の足音を聞いた気がした。 


「小栗の椿会津の雪」終
~最後までお読みいただきありがとうございました。


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