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小栗の椿 会津の雪㉒


第六章 激戦② 
 
 慶応四年九月六日、この日元号が明治と変わったことなど、鶴ヶ城で籠城している会津の人々も、郭外で必死に敵と戦う銀十郎達も、南原にいるさいも、知る由もないことだった。
「そなたの旦那は、国にいるのだそうだな」
 昼過ぎに目を覚ました広田は、粥を掬って口元に運ぶさいの方を見ずにぽつりと言った。
「某をここまで連れて来てくれた男は、何と言う名だったかな。世話になったのに、礼も言わなかった」
「光五郎と言います」
「私など放って逃げてもいいと言ったんだが、幼なじみの旦那に似ているんで見捨てられねえと言ってな……」
 光五郎なら言いそうなことだと、さいは頬を緩めた。
「広瀬様は、旦那様にお顔が似ているかもしれないけど、全然違います。広瀬様はきっと、竹刀を持って鍛えられていたのでしょう。旦那様の身体はもっとしなやかで、……それに、もう少しいい男です」
 広田は一瞬目を見開いて、あはははと口を開いて笑った。気持ちよさそうに笑う姿に、遠い故郷にいるはずの夫が一緒に笑った様な気がした。
 笑いすぎて傷が痛んだのか、広田が眉をひそめた。
「馬鹿なことを言っていないで、食べたらまた寝て下さい」
 残りの粥を掬って食べさせると、広田の身体を横たわらせる。
「上州の女子は強いというのは本当だな」
 横になった広田は、まだ笑いを含んだ口調でしみじみと言った。
「……某は、だめだ。ここでじっとしていると、妻のことを思い出して……、辛い」
 仰向けに寝て、右手で目を覆ったまま、広瀬は弱音を吐いた。きっと妻のことを話したいのだろうと、さいは枕元に膝を着いた。
「みとさんと、おっしゃるのですか?」
 さいが言うと、右手の指の間から見開いた目が覗く。その目が涙に濡れている。
「うなされている間に何度も呼んでいました」
 観念した様に右手を下ろし、目を閉じた。
「嫁いで来たのは、もう六年も前だ。京都守護職を拝命し、旅立つ前に慌てて祝言をあげた。漸く会津に帰れたら、一月後には越後へ出陣だ。夫婦らしいことは、何もしていない」
 千人もの藩士が京都へ向かったと聞いた。父や夫や兄、頼りになる男手がいない屋敷で、女達は心細い思いをしていたのだろう。
「夫婦として過ごしたのは、ほんの一月足らずだというのに、別れる時に優しい言葉一つかけてやれなかった……。しかも、俺は……」
 自ら死を選べと言ったことを、後悔しているのだろう。広田は言葉を詰まらせた。
「私が好きになった方は、きちんと言葉にしてくれない方ばかりでした」
    再び右手で顔を覆った男に、さいは静かに語りかけた。
「旦那様も何を考えているのかさっぱりわからない方だったんですけど。でも、離れてみて、どんなに私のことを思っていたのか、わかる様な気がします」
 さいは左の袂に入れてある巾着にそっと触れた。夫の匂いのしみついた巾着を、さいは片時も離さず持ち歩いている。
「広田様のお気持ちは、きっとみとさんにも届いていますよ」
 堪えようとしている唇から、嗚咽が零れる。
 一人になりたいだろうと、さいはそっとその場を離れた。勝手口で洗い物をしようとすると、ごほごほと咳をする声が聞こえる。さいは水を甕から汲んで、納戸の戸を開けた。
 急な朝晩の冷え込みのせいか、母堂が体調を崩して臥せっていた。赤子に病気がうつってはいけないと、奥の間ではなく納戸に布団を敷くようになっていた。
 会津盆地に敵が侵入し、百姓も山に逃げている状況では、食べる物にも苦労をしていた。下野街道も大内宿の辺りで戦になったとも、街道を西軍の兵が行くのを見たとも聞いた。
 もっと滋養のあるものを食べさせたい。さいは思いを巡らせながら、桶を持って井戸へと向かった。
「お主ら、ここで何をしておる! 怪しいヤツ、若い時には槍名人と呼ばれた拙者が相手をいたす!」
 表門の方からご隠居の虚勢を張った声が聞こえた。さいは桶を置き、慌てて駆け出した。中間風の男が二人いた。一人は笠を目深に被っている。
    何かを話しているが男の声は聞こえなかった。二、三やり取りをしたご隠居が振り返る。
「広田殿の意識は戻っておったかな。ご身内じゃそうだ」
 ご隠居の言葉に、さいは目を見張った。
 一人は年配の男、笠を被ったもう一人は男の形をしているが、見上げた顔は美しい女性だった。
「朱雀隊士中四番隊の広田の妻でございます。こちらに夫が運ばれたと聞いて……」
「みとさん、ですか?」
 さいが名を問うと、女が表情を変えて頷く。
「こちらです」
 さいは、手を掴んで庫裏に向かって走った。急き込んで庫裏に入ると、広田は泣き疲れたのか。眠った様だった。
「旦那様……」
 笠を取ったみとがつぶやく。久しぶりに会った夫の変わり果てた姿に、息を飲んではらはらと涙を流した。枕元に音を立てぬ様にそっと近付き、顔を覗きこむみとの後ろ姿を見て驚いた。髪を短く切り、一つに結んでいる。
 涙が頬を伝わり、広田の手の甲に落ちる。薄らと広田は目を開けた
「……みと? 俺は、死んだのか……?」
「旦那様。……申し訳ありません」
 みとが頭を板間について謝った。
「城下のみな様は、籠城したか、御自害されたというのに、私はおめおめと生き残り……」
「……顔を見せてくれ」
 広田は身体を起こし、低く囁いた。泣きじゃくった顔を上げたみとを見つめる。
「よかった……。生きていてくれてよかった」
 動く右手だけで、みとの身体を抱き寄せた。しばらく抱きしめていた広田が、何かに気付いて身体を放し、視線を下に移す。
「……やや子ができました。どうしても旦那様の子を産みたくて、親類の家に避難をしておりました」
「やや子が……? そうか。……でかした」
 搾り取る様に広田が咽び泣いた。
 赤子がヒンと声をあげた。抱きかかえてあやす奥方がよきと笑い合っている。お腹の命を守ろうと必死に逃げたのは、奥方も一緒だ。
「それにしても、よくここがわかったな。それに、その姿は……?」
 広田が痛々しい表情をして見つめる。
「虎七にたまたま会って、旦那様がこちらにいることを聞き、連れて来て貰いました」
「へえ。広田様を連れて来た方が、南原の野戦病医院へ行くっていうんで、柳橋から街道までご案内したんです。その後偶然みと様に会い、こちらを探し当てたというわけです」
 みとと一緒に来た虎七と呼ばれた男が腰を低くして言った。
「そうだったか。世話になったな……」
「いえ。ただ、街道沿いの宿場には、西軍の兵がうようよいて、女を見れば狼藉を働くという噂でした。それで、この様なお姿に……」
 髪を切り男の姿になっても、夫の無事を一目確認したかったのだろう。俯くみとの横顔は、乱れた短い髪であっても美しく見えた。
 枕元に正座をしたまま、みとは黙って広田を見つめていた。朱雀隊士中四番隊が越後へ出陣してから、約半年ぶりの再会を二人は噛み締めていた。
 
 
                 ◆
 
 
「銀さん、申し訳ねえ。迷惑をかけて」
 下野街道を南に向かいながら、卯吉が何度目になるかわからない言葉を繰り返した。
「すまねえと思うなら、もっと早く言えよ」
「へえ」
 肩を貸しながら銀十郎が言うと、卯吉は俯いた。
 脛に銃弾がかすめたのは、もう三日も前のことらしい。掠り傷でそのうち治ると思って卯吉は、日に日にひりひりと痛みを増す傷を今日まで言い出せなかった。
「ちょうどよかったんだ。富五郎のことも、伝三郎のことも、俺の口から三左衛門様に報告をしなくちゃいけねえと思っていた」
 伝三郎がいなくなったことを騒ぐ者は一人もいなかった。
 町野隊長には報告した。伝習隊の会津離脱の話は、初耳だったのか一瞬驚いた顔をしたが、『大鳥殿に母成の責任を負わせようとする風潮は確かにある。上を説得できなくて悪かった』と、逆に謝られた。
 仲間の死と離脱を、南原に伝えに行きたいと願い出ると、一日の猶予をくれた。
「南原が敵に見つからねえ保証はねえ。おめえがいたら安心だ。傷を治して、いざという時には役に立てよ」
 落ち込む者には、慰めよりも期待を寄せる方がいい。実際卯吉がいてくれれば安心だった。
「へえ。必ず、お守りいたしやす」
 卯吉は、ついさっき茶屋で見た光景を思い出したように街道の先を睨みつけた。
 戸口の前で、店の主人らしき男が倒れていた。顔が腫れ上がって、腹からは腸がはみ出していた。大勢になぶり殺しにされた後、刀でとどめを刺されたのだろう。
 店の中を覗くと、若い娘の裸の死体が、腹を一文字に切られていた。
 会津に戻ってから、こんな風に何の罪のない人達の死を見ることがある。その度に南原を案じ、胸が掻きむしられる思いがした。
 南原の庫裏に着くと、よきが慌てて駆け寄って来た。
「卯吉さん! 怪我をしているの?」
「怪我って言ったって、大したことねえんですよ。二、三日休めば治るくれえです」
「ちゃんとしないと駄目よ。傷が膿んで身体に毒が回ったら、死んでしまう人もいるのよ」
 よきの声は真剣だった。すぐ近くで実際に死んでいく人を目にしている。手際よく卯吉の足にまいてある手拭いを外した。
「よ、よき様。お手が汚れます。自分でやりやすから……」
「うるさい! 怪我人は黙ってなさい!」
 遠慮しようとする卯吉を怒鳴りつけた口調が「さいにそっくり」と、奥方が笑った。
 白く滑らかだったよきの手が、あかぎれている。卯吉は悔しそうに唇を噛み締め、目を逸らした。
「銀十郎、何かあったのか?」
 突然の訪れに不穏なものを感じたのだろう。頭を下げると、三左衛門は奥の間を促した。
「富五郎が討死しました。俺がついていながら申し訳ありません」
 三左衛門と奥方の前で、銀十郎は畳に額をつけた。
「富五郎が……、そうか」
 三左衛門がそう言ったきり言葉を失う。沈黙の中、奥方の抱いている赤子がうまうまと言葉にならない声を出した。
「おまえのせいではない。あいつをここに連れて来たのは、わしだ」
 暴徒が権田村を襲撃した際、顔見知りを撃ち殺した富五郎は、村に居づらいだろうと仲間に加えた。三左衛門の優しさが仇になった。『判断を誤れぬ』と言ったこの人は、ずっと自責の念に囚われるのだろうか。
「それと、伝三郎が、伝習隊の大鳥様と一緒に仙台から蝦夷へ向かいました。伝三郎は殿の敵討のために、一人でも多くの敵を倒すところで戦うと言っていました」
「……」
 三左衛門が皺の寄った目を見開いた。
「みなが三国峠に行った時、伝三郎は私達を逃すために道筋を考えてくれました。誰よりも忠義に篤い一人です。本当は仇討に駆け付けたかったのでしょう」
 奥方が伝三郎の気持ちを汲んでくれたことが救いだった。
「銀十郎。よく伝えてくれた。ご苦労だった」
 三左衛門の労いの言葉が胸に染みた。
「今日は、ゆっくり休んでいけるのですか?」
「いえ。卯吉はここへ置いて行きますが、俺は暗くなるまでに戻らねばなりません」
「まあ、さいも残念がりますね」
 奥方が細い眉尻を下げた。
「ところで、さいちゃんは?」
 境内にも庫裏にもさいの姿はなかった。
「柿を採りに行くと言っていたのですけど……、そう言えば帰りが遅いわね」
「柿を……?」
「ええ。母上様が伏せっているので、何か滋養のつくものをと言ってくれたのですが……」
 奥方が立ち上がって、板間の方に向かう。
「よき。さいはどこまで行ったの?」
「さいは、まだ戻らないの? だいぶ時間が経つけれど……」
 器用に卯吉の足に包帯を巻き終えたよきが、心配そうな顔をした。
「洗濯をする川の上流に、柿がなっていたのを見たのです。そこではないかと思うけど」
「川の、上流ですね?」
 銀十郎は弾ける様に庫裏を飛び出した。
 
 
                 ◆
 
 
 みとの縁者の家に広田は移って行った。広田とみとの再会を喜んだのは、本心だった。でも、同時にぽっかりと穴が開いた様な寂しさを感じていた。
    意識を失った広田の顔を見つめながら、さいは何度も夫のことを思い出した。
 初めて藤七の屋敷で出会った夫の顔。祝言をあげた日に、『疲れただろう』と労りの言葉をかけてくれたこと。緊張してガチガチだった初めての夜に、ただ優しく添い寝をしてくれたこと。身籠ったとわかった時に、蕩けるほど細くなった垂れた目も。
 別れ際、息が止まるほど強く抱きしめられたその温もりと、濤市の震えた声。
 赤蜻蛉が目の前を横切った。冷たい風がうなじを通り抜ける。
 川から見えた橙色の実を探して山に分け入ったが、見つからず思いがけず時間が過ぎてしまった。そろそろ戻らなければならない。
 さいが引き返そうとした時だった。がさがさと藪が動いた。びくっとして、思わず身体が竦んだ。
「おっと、こんなところに誰がいるのかと思ったら、女じゃねえか」
 藪を掻き分けて、出て来たのは黒い軍服に身を包んだ二人の兵だった。白い布を腰に巻き、刀を差している。背中には銃を背負っている。
 さいは、一歩後退さった。ぼうっとして、山の中にまで分け入ってしまった自分を詰る。
「本当だ。汚ねえ恰好をしているが、若い娘だぜ。この間は婆さんばかりだったもんなあ」
「やっぱり若い娘に限るなあ。しかも、なかなかの器量よしじゃねえか」
 下卑た笑いをした男が、さいの身体を下から上まで舐める様に眺めた。
 さいはどっと嫌な汗を掻いた。踵を返して無我夢中で逃げ出す。
「おい、待てよ」
「大人しくすりゃあ、悪いようにはしねえよ」
 男達が追いかけて来る。嫌らしい笑い声と奇声が聞こえる。
 山道を勢いよく下って行く。
 前もこんな風に身の危険を覚えながら逃げたことがあった。それでも、こんなにも心臓が縮こまる思いはしなかった。
「逃げても無駄だ。可愛がってやるからよ」
 笑い声が近くなった気がする。生きた心地がしなかった。
 このまま下り坂を走ると、道は二手に別れる。真っ直ぐ下れば病院になっている廃寺へ、左に折れれば街道の方へ続くはずだ。
 逃げ切ることができるだろうか。敵の兵を振り切ることが出来ずに逃げ帰ったとしたら。奥方が匿われている廃寺が見つかってしまう。
 悩んでいて判断が遅れた。咄嗟に左に曲ろうとして、足を滑らした。
「きゃっ!」
 よろけて体勢を立て直そうとしたところを、一人の兵に腕を掴まれた。
「いやっ! 放して!」
 振り払おうとした腕は、男の強い力に掴まれたままびくともしなかった。
「えれえ、威勢のいい娘じゃねえか」
「久しぶりに楽しめるってもんだぜ」
 逃れようとするが、後ろから羽交い絞めにされて身動きが取れなくなる。首筋に男の生温かい息がかかり、湿った唇が触れた。
「誰か、誰か助けて!」
「こんな山の中、誰も来ちゃくれねえよ。観念しな」
 もう一人の男が、ぎらぎらとした目をして舌舐めずりする。男の手が太腿から上にゆっくり動いていく。胸を弄った手を衿にかけた。
「いやっ! 誰か……」
 思わず叫んだ口を後ろの男が押えた。その指をさいは思い切り噛んだ。
「痛てえ!」
 後ろの男が声を上げ、押さえられている力が緩む。前の男を全身の力を込めて突き飛ばし、再び駆け出した。
 掴まれた腕がじりじりと痛む。首筋のぞっとする様な生温かさ、着物の上から弄られた這う様な感触が残っていて、粟肌が立つ。
「ふざけやがってこのアマ! ぶっ殺すぞ!」
 男が怒鳴りながら追いかけて来る。
「まあ、待て。それより俺達が楽しんだ後、連れ帰って仲間に売って一儲けしようぜ」
「そりゃいい。殺るのはいつでもできらあ」
 鼠をいたぶる猫の様だ。坂を駆け下りる足がもつれる。懸命に走っているのに、男二人を振り切ることができない。
 嫌だ。あんな男達に触れられるのは、嫌だ。
「助けて……!」
 さいは思い切り叫んで、名を呼ぼうとした。
「さいちゃん!」
 懐かしい声に呼ばれはっとした。坂の下に男が立っている。銃をこちらに構える。
「銀ちゃん?」
「伏せろ!」
 銀十郎が叫ぶのと、身体が前のめりに転んだのはほぼ同時だった。山の中に銃声が響く。ドサリと、何かが転がる音がした。振り向くと、男は額に銃弾を受け倒れていた。
「てめえ」
 もう一人の男が背負った銃を手にしようとする。間髪入れずに銀十郎の銃が火を吹いた。人が物になって転がる音に、さいはもう後ろを振り向くことができなかった。
「さいちゃん!」
 銀十郎の顔が目の前にあった。両手で、さいの腕を掴み身体を引き起こす。
「大丈夫か? 何もされてねえか?」
 何が起こったのか、どうしてここに銀十郎がいるのか。頭が上手く回らない中で、コクコクと頷く。身体がまだ、恐怖で震えている。
「他にも仲間がいるかもしれない。走るぞ」
 銀十郎が、さいの右手を掴み走り出した。
 心臓を鷲掴みにされる様な恐怖が拭い去れない。それでも、銀十郎の手が温かった。
 やっと見慣れた川原まで下り、銀十郎が足を止めた。手に持っていた銃を背中に担ぐ。みなのいる野戦病院は、直ぐそこだ。振り返っても、敵の仲間が追いかけてくる様子はない。
 助かった。実感すると、急に身体が震えた。
「馬鹿野郎! こんな時期に一人で山に入って行くなんて、何考えているんだ!」
 突然、銀十郎が怒鳴った。
「……ごめん」
 息が切れ、小さくつぶやくのが精一杯だった。
 村を出てから、何度も釘を刺された。時にはうるさいくらいに。銀十郎は、いつだって身を案じていてくれたのに。
「坂下の辺りじゃ、裸の女の死骸がごろごろ転がっていた。あいつら、村毎襲って無茶苦茶やりやがる。そんなのを見る度に俺は……」
 銀十郎の眉が下がり、唇が歪んだ。一瞬泣きそうな顔をして、肩に触れた。
「生きた心地がしなかった……」
 思いがけない力で抱き寄せされて、息が詰まる。
「よかった……。無事で……」
 銀十郎の熱っぽい息が耳にかかった。小さな頃からあこがれた幼なじみの胸からは、埃と汗と血の匂いがした。
「ごめん。銀ちゃん、ごめん……」
 あまりの腕の強さと熱っぽさに戸惑い、身じろぎする。
「悪い……」
 銀十郎が掠れた声で言って、腕を離した。さいは俯いたまま、首を横に振った。
「ありがとう。助けてくれて。……でも、どうして銀ちゃんがここに? みんなも一緒?」
「いや。卯吉が怪我をしたんで、連れて来た」
「卯吉さんが?」
「大した怪我じゃねえ。よき様が、手当てをしてくれた。二、三日ゆっくり休めれば歩けるようになるだろう」
「卯吉さんがいてくれたら、よき様も喜ぶわ」
 どうしても暗くなりがちな日々は、赤子の無邪気な笑顔と、よきの明るさだけが救いだ。
「それと、三左衛門様に報告に来たんだ。……富五郎が死んだ」
「富五郎さんが……?」
「見事な討死だった……」
 侍の様な銀十郎の物言いだった。富五郎の死を尊ぶ様でもあり、冷たい印象でもあった。
「見事じゃなくていいのに、生きていてさえくれたら……」
 村で富五郎の年老いた両親が待っているだろう。ほとぼりが冷めて、再び平穏に暮らせる日々がくると。
「そんな顔すんな。ヤツは決して不幸じゃない。守りたい人のために戦って死んだんだ」
 慰める様に銀十郎は言った。
「守りたい人がいなきゃ、正気で戦えねえよ。あいつも、……俺も」
 銀十郎の指先が、さいの頬に触れた。手や腕は、あんなにも温かく熱っぽかったのに、触れた指の冷たさに、驚いて銀十郎の顔を見つめた。
「……じゃあな」
 銀十郎は目だけで微笑むと、背を向け歩き出した。その背中は戦いに行く侍そのものだった。銀十郎は侍になったのだ。二年前になりたいと言っていた侍に……。
 そう納得しようとする一方で、どこか取り残された気持ちになる。
「もう行くの? みんなに会わずに?」
 庫裏はすぐそこなのに、銀十郎は街道の方向に歩いて行こうとしていた。
「ああ。三左衛門様とは話はすんでいる。隊長に今日だけお許しを貰った。今晩中に戻らねえといけねえんだ。明日からは激戦になる」
 激戦という言葉が耳に残り、胸の中でざわざわと不安が音を立てた。
 子供の頃何度も追いかけた背中は、どこか知らない人の様に素っ気なかった。腹の底から得体の知れないものがせり上がってくる。
 銀十郎が行ってしまう。何度も見送ったのに、二度と会えない様な不安が押し寄せた。
「銀ちゃん!」
 さいは思わず追いかけた。今、伝えなければ、言葉にしなければ、後悔する様な気がした。
「私、銀ちゃんのことが好きだった!」
 振り返った銀十郎は、一瞬目を大きく見開き、それから、その目を細めて優しく笑った。
「知ってたよ」
 その声は、さいのよく知っている銀十郎の声だった。腕白で、ちょっと意地悪で、年上ぶって、それでいて、いつもさいのことを心配してくれる頼りになる幼なじみ。
「……馬鹿」
 つぶやいたら涙が一粒頬を伝った。泣き顔を見せたくない。無理に笑おうとする唇が震えた。
「じゃあな」
 再び銀十郎が短い別れの言葉を告げた。
 こくりと頷くのが精一杯だった。今何か言ったら、思いっきり詰ってしまう。
 知っていたなら、どうして二年前きちんと言葉をくれなかったのか。それを言ってもお互いに辛くなるだけだ。
 銀十郎が背を向ける。振り向くこともなく、真っ直ぐに戦場に向かって歩く男の背中を、さいは見えなくなるまで見送った。


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