小栗の椿 会津の雪⑬
第四章 城下①
権田村を脱出してから一月弱。慶長四年閏四月二十八日、一行は会津城下紙問屋湊屋に宿泊し、翌朝横山の屋敷へと向かった。
会津は美しい町だった。四方を山に囲まれた盆地は、田植えを終えた稲が波の様にさざめく。街道沿いには宿場が栄えている。城下町には武家屋敷が整然と並び、その中心に鶴ヶ城の天守閣が白く大きくそびえていた。
横山の屋敷は、城の北西に位置していた。
「小栗様の話は聞いております。この度の御不運、お悔やみ申し上げます」
横山家の客間に通され、もてなしをしたのはきしと名乗る若い妻だった。
「我等には横山様しか頼るところもなく、恥を忍んで参りました」
母堂が言い、奥方とよきは並んで頭を下げた。後ろに三左衛門とさいが控える。他の男達は、別の控えの間に案内されていた。
「夫もみな様がいらしたと聞けば喜びましょう。どうぞゆっくり旅の疲れを癒して下さい」
きしの隣にちょこんと正座をしている男の子がいる。前髪を残してはいるが、頭のてっ辺を剃り、丁髷の様に髪を結っている。
「息子です」
「まあ、可愛らしいこと。おいくつですか?」
奥方は目尻を下げた。
「二つでございまする」
「ずい分利発なこと」
「ありがとうございまする」
一人前の武士の様に畳に指を突き答える姿に、自然に笑みが浮かぶ。
「幸い屋敷には部屋も多くございます。お仲間の方もご一緒に泊まって下さい」
「それは、有難いことで」
きしの申し出に、三左衛門が頭を下げる。
「実は、我々の仲間が、三国峠の戦に加わった後、行方がわかっておりません。こちらのお屋敷で落ち合うよう言っておるのですが」
「まあ、それは、御心配ですね」
きしは、整った眉尻を下げた。
「夫も白河で戦っておりますし、家来達もそちらにいます。屋敷は寂しいほどですので、多少人が増えてもかまいません。かえって力仕事など手伝ってもらえたら助かります」
まだ若い当主の妻女は、あどけない頬の膨らみに似合わず、落ち着いた表情で微笑んだ。
◆
翌日、越後からの兵が次々に帰還していると噂で聞き、さいは居ても立ってもいられず裏門の外に出た。塀の角を曲る者がいる度胸が逸る。
しかし、なかなか見知った顔を見ることができない。横山家を通り過ぎ、城へ向かう者ばかりだ。戦場から帰った兵は、一様に疲れた顔をしている。戸板に乗せられた負傷者が、病院になっている日新館に運ばれていく。
まさか怪我をしている者はいまいか。不安になり城の天守閣を見上げた。
「おっ! あれ、さいさんじゃねえか?」
遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ると、黒い軍服を来た一団が手を振っている。近付いてくるその顔が一瞬涙でくもる。さいは慌てて袖で拭い、手を振った。
「ここよ! おかえり!」
張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「でっけえ声だなあ。上州女はみんなそうなのかと呆れられるぜ」
仲間達の笑顔が見えた。先頭の富五郎が憎まれ口を叩く。
「ここが横山様のお屋敷よ。着替えを用意しておいたから。まずは、井戸端をお借りして身体を拭いて頂戴。そんなに汚れていちゃ、屋敷に上げてもらえないわ」
「ひでえ、言い草だなあ」
光五郎が拗ねた様に言って、男達の気持ちのいい笑い声が響く。
よかった。戦場を経験していない富五郎も光五郎も、他の仲間も元気そうに笑っている。
「お父っつあん、帰って来たわよ!」
さいは裏門から声を張り上げた。三左衛門も、仲間達の到着を今か今かと待っていたのだ。
ほっとした顔で裏門から屋敷に入る男達。足取りはしっかりしているが、顔は土埃で汚れている。軍服が破れている者も多く、戦の激しさが窺い知れる。
最後尾に銀十郎の姿があった。一団から少し離れたところで、足を引きずる龍作に肩を貸している。
「龍作さん! 怪我をしているの?」
さいは、二人に駆け寄った。晒の巻いた足が、血でにじんでいる。
「なあに、掠り傷だ。たいした事ねえよ」
「だったら、一人で歩けよ」
強がる龍作に、銀十郎は素っ気なく言った。
「みんな、無事でよかった。奥方様もとっても心配していたのよ」
銀十郎とは反対側に回り、龍作に肩を貸しながら、さいは二人の横顔を見上げた。汗と土埃の匂いに混ざり、微かに血の匂いがした。
銀十郎は、さいと目を合わせることなく、暗い瞳でまっすぐ前を見つめていた。
◆
「わあ、冷てえ。水かけんなよ」
仲間が、井戸端で褌一つになってはしゃいでいる。手拭で拭いている者、桶ごと頭から水をかける者。三国峠で敗れて以来の仲間達の笑顔。
縁側で、三左衛門が一人一人の無事な顔を確認して頷いていた。
「銀十郎。ご苦労であった。無事にみなを連れて帰ってくれたな」
三左衛門の労いの言葉が、銀十郎の胸に染みた。
無事に全員を連れ帰った。それだけだ。仇を討つこともできず、敵を追い払うこともできず、むざむざと逃げ帰った。
「これのおかげです」
銀十郎は上着のボタンを外し、腹に巻いた晒から金子を取り出した。
「こいつがなかったら、途中で全員飢え死にするところでした」
「そうか」
三左衛門が目を細めて、それを受け取った。
「路銀が足りねえっていう時に、わがままを言って……。申し訳ありやせん」
兼五郎達が路銀調達に帰ったと聞いた時には、銀十郎はいたたまれない気持ちになった。
「金は新潟で先代の供養費を返してもらったから大事ない。村の様子も気になったのでな」
「それで、兼五郎さん達は……」
「それが、何日経っても帰って来なくて、置いて来てしまった。路銀の調達が上手くいかなかったか、それとも……」
そう言う三左衛門の眉間に皺が寄った。肌艶もよく若々しい印象の三左衛門だったが、こういう表情をすると年相応に見える。
「とにかく、着替えて飯にしたらいいだろう」
三左衛門がそう言い残し、奥に向かった。
「それにしてもさ、見られている気がしねえかい?」
「おめえもかい? 何だか落ち着かねえよな」
仲間がひそひそと話をしている。そう言えば、複数の視線を感じる。塀の外に人の気配。障子の向こうにも人影が映る。敵意は感じられない。
「褌も取ってやったらいいんじゃねえかい」
日に焼けた上半身を露わにした龍作が、ニヤリと笑う。
「やめとけ。ここに置いて貰えなくなったらどうすんだ」
井戸水を汲んでやっていた桂輔が顔をひそめて忠告する。
「お嬢さん方、後でご挨拶に伺いますんで、めかし込む時間を頂戴しやすよ」
龍作が障子に顔を向けて手を振ると、「きゃっ」と小さな悲鳴をあげた影はどたどたと足音を立てていなくなった。
「何ですかね、あれ……」
早々に袖を通しながら、卯吉が不思議そうな顔をする。
「若い男が珍しいのだそうだ」
桂輔が、汚れた水を植木の根にかけながら言った。
「へっ? 会津には、男が生まれねえんで?」
「馬鹿か、卯吉。そんな訳あるめえ。もう何年も、京都守護職で若い男は京都に行っていねえんだと。帰って来たと思ったら戦が始まって、白河や日光や越後の国境に戦に行っている。若い男が珍しいんだよ」
「俺達は見せものか何かかねえ」
桂輔の説明に、龍作が鼻を鳴らした。
「まあ、そう言うな。薪を割ったら、有難がられたぞ。嫁御はいるのかとしつこく聞かれてな。おめえらも少しは役に立たねえと、ただ飯貰うばかりじゃ申し訳ねえからな」
桂輔が立ち上がった。手拭いを渡された龍作が「うへえ」と声を出した。
「桂輔さん。こっちで嫁御を貰うんかい?」
「馬鹿言うな。俺には村でかかあが待っているからな。勿論、断ったよ」
「ええ、もったいねえ。別嬪さんを選びたい放題ってことだろう」
「ふざけんな。俺は一刻も早く村に帰って、かかあに会いてえよ。ほら、いい加減なこと言ってねえで、着替え終わったヤツは、さっさと上がって飯を食え」
着替えの終わった男達が、促されてぞろぞろと縁側から屋敷の中に入って行く。
残された銀十郎が顔を洗い体中の汗と土埃を拭うと、腐った気持ちも多少ほどけてくる。用意された着物を羽織ると、乾いた布の香りがした。
◆
その晩は、細やかな宴が催された。奥方、母堂を上座に、二列に膳が並ぶ。さいが、奥方とよきの間で何か話している。隣で笑みの浮かぶ奥方を見て、銀十郎はほっとした。
「新潟で秋月様に出会えて、運がよかったぜ」
隣で酒を呑みながら、伝三郎が言った。
「そうか」
伝三郎からここに至るまでの話を聞く。
「無事、横山様のお屋敷に辿り着けて、奥方様も安心されているだろう」
奥方の護衛という役目も終わりを迎えた。寂しい様な、気の抜けた様な心持ちで、会津の料理に箸をつけた。お互いの苦労話に花をさかせ、仲間達は陽気に笑い合っている。
「でもな。そう安心も出来ねえみてえだぜ」
身体の割に酒に弱い伝三郎は、目の周りを赤くして声を潜めた。
「白河城にいる筆頭御家老の西郷頼母様は苦戦しているらしい」
「白河は、東北の玄関口だろう。確か横山様も……」
「ああ、副総督だそうだ」
しばしば小栗屋敷を訪れた女人の様な顔立ちの若者を思い出す。フランス行きが決まった頃は、毎晩の様に仏語を習いに来ていた。会津の家老という身分でありながら、闊達で偉ぶらない人柄は、歩兵の間でも好かれていた。
「日光口には山川様。それに、大鳥圭介様が伝習隊を率いている」
「大鳥様が?」
「ああ。懐かしい名だろう」
伝三郎が猪口を呑み干し、ニヤリと笑う。
大鳥圭介も、屋敷に時折訪れていた。フランス流の歩兵術を学び、軍事改革を進めた一人だ。伝習隊の中には、一緒に歩兵の訓練をした仲間もいるかもしれない。
「越後では、長岡藩の河井継之助様がどう動くかだな」
「一日でよく調べたな」
銀十郎は感心した。どおりで昼間伝三郎の姿を見かけなかったわけだ。
「それだけ味方がいれば、会津も安心だろう」
「そうかな」
伝三郎が手酌をしながら唇を舐める。
「会津は山に囲まれた盆地だ。天然の要塞と言えば聞こえはいいが、広すぎる」
「男手が足りねえってのか」
横山家の嫡男はまだ幼く、三世代の女達のみ。女中の姿は見かけるが、男は年老いた家来がいるだけだ。それはこの家だけのことでもないらしい。
「ああ、どこか一つでも崩れれば、ここには老人子供と女だけだ。城を守る兵がいねえ」
どこか一つでも……。そうなった時のことを想像してぞっとした。
「なあ、三国峠はなんで負けた」
低い声で伝三郎が言った。こっちを睨む目が座っている。
「……すまねえ」
「謝れってんじゃねえ。どうしてだか理由を考えろって言ってんだよ。兵の数か、銃の性能か、作戦のせいか……。伊達に陸軍所に通ったわけじゃねえだろう」
顔を近付け、耳元で伝三郎がつぶやく。
俺達の役目はここで終わりじゃねえのか。銀十郎は言葉にならない視線で問いかけた。
「冗談じゃねえ。俺はまだ一度も戦ってねえ」
すっかり目の座った伝三郎は、銀十郎の肩にもたれる様に眠りについた。
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