見出し画像

舞台のオタクがバケミュを観て白鯨を読んだ(前編 白鯨感想)


ハーマン・メルヴィルの「白鯨」を読みました。

きっかけは劇団四季さんのミュージカル「バケモノの子」を観て白鯨のパペットに魅せられてしまったこと。
初見時の感想はこちらの記事からどうぞ↓

ここから想像以上にハマってしまい、今日までに何度観に行ったかは…ご想像にお任せします。
そんなわけで「白鯨読むか!」となり、早々に電子書籍を購入しました。

と言っても、ちょっと調べただけでも白鯨は長く難しく読破しづらいとの評判がわんさか出てきて、どうせ読むなら今回のためだけでなくしっかり読みきって自分の糧にしたいなと、まず「どの白鯨を読むか」を軽く調べました。
感想サイトやら色々覗いたのですが、分かりやすかったのでこちらのサイト様のリンクを貼っておきます。

私はとにかく最後まで読みきりたかったのと、挿絵が入っているものが良かった、更に新しいものの方が研究も進んでいるだろうと思い、一番新しくかつ註釈が多くて分かりやすいと評判の岩波文庫の八木敏雄氏の訳を選び、また持ち運びにかさばらなくて通勤中などでも読めることから電子書籍を選びました。
結論から述べると八木訳は大変読みやすく註釈も興味深く、電子書籍のため難しい言葉や専門用語もすぐに調べられるし、註釈にもタップ一つで飛んで戻って来られてマーカー引き放題。この作品の読み方としてとても合った媒体を選べたように思います。

ただこの訳は少し読みやすくなりすぎている?と感じる方もいるそうなので、もう少し作品理解を深められたら、岩波版よりも原文の凝った言い回しに近いという講談社文芸文庫のものも読んでみようかなと思っています。
こちらは電子書籍が出ていないので紙媒体になりますが既に内容は分かっているので問題ないだろうと思っています。

角川文庫のものは劇場の物販コーナーでも売っていて、訳は古いもののカバーが2015年の映画「バケモノの子」公開時に映画に出てくるものと合わせたデザインに新調されていて、舞台版の小道具とも同じデザインなのでそこが魅力ですね。
私はバケモノの子の理解のためだけでなく白鯨をちゃんと読みたかったので内容が自分の読み方に合っていそうな方で選びましたが…(あと角川のものには挿絵が入っていないらしく、Rockwell Kent氏の美しい挿絵が見たかったので選択肢から外しました)。

この先ちょっと長くなる予定なので簡単な目次を作りました。「舞台のオタク、白鯨を読む」までは大きな結末のネタバレなどはなし。白鯨を読んでみた所感です。
その先はネタバレありの感想となります。

あ、それと、この記事は本当に「白鯨の感想」なので、バケミュ関連の考察とかは後編の記事でしています!

舞台のオタク、白鯨を読む

さて読んでみた感想ですが、危惧していたほど読みづらいことも飽きることもなかったです!!!面白かった!!!
というかかなり好きです。

比較的読みやすいと評判の岩波版を選んだこともあるのでしょうが、他にもいくつか白鯨には読みやすかった、私に合っていた要素があると思いました。

・短い章に分かれているので「毎日少しずつ」に丁度良い区切りになって隙間時間に読みやすい
・演劇的な表現が見受けられる

この2つが私にとって読みやすかった要素の大きいところだと思います。
まず白鯨、長いのですが、これを一気に読もうとか力んで頑張ると多分心が折れます。

捕鯨船に乗って長い航海に出て、モービィ・ディックを見つけるまでの旅を、イシュメイルのお喋りを聞きながら過ごすイメージで気長に、時間をかけて少しずつ、その日の自分の集中力が望む分だけを読んでいくくらいが丁度いいのかなと思います。
章の数は多いですが1つ1つは短いので今日は1章分だけとか、次の章までにしようかなとか、そんな感じで移動時間や寝る前に少しずつ読み進めるのに向いていると思います。急がないことと力まないことが大事?

次に「演劇的な表現が見られる」という点です。いくつか感想や紹介文を読むと、話がメインのストーリーから脱線するとか、語り手の人称や視点が変わるとか、学術的な章が長く挟まる部分があって混乱する、難解であると言った感想を見かけたのですが、私の感覚だと、「演劇や戯曲に触れた経験のある人は比較的読みやすい」んじゃないのかなと思います。

例えば第三六章「後甲板」は冒頭に''(エイハブ登場、続いて全員)''とまるで戯曲のト書きのように書かれていて、そこからシーンが始まります。

第三七章「落日」では''(船長室。船尾の窓辺。エイハブひとり坐して、窓外を眺める)''とあり、そのままカギカッコもなしに、いきなり ''海行かば、あとに残るは〜(中略)ままよ、わしは先をゆくだけだ。''と、それまで語り手イシュメイルの言葉を綴っていた地の文がいきなりエイハブの言葉で綴られていったりします。

続いて第三八章「たそがれ」 ''(主檣(メインマスト)のかたわら。スターバックはそれにもたれている)''というト書きに始まり、前章のエイハブよろしく突然 ''わたしの魂はあえなく敗北した。''と、スターバックの台詞がカッコなしで始まるのです。

その後第三九章「夜直はじめ」では場所が前檣楼(フォー・トップ)に移動してスタッブの独白。ここでスタッブが短い歌を歌うのですが、こんなところもシェイクスピアの戯曲の登場人物のよう。

更に第四十章に移ると「深夜の前甲板」。こちらでは国籍様々な銛打ちたちと水夫たちが陽気に合唱をしダンスを踊ったりと騒いでいるシーンになります。

もうこの一連の章、読んでいて楽しくって仕方がないです。基本的ににイシュメイル=メルヴィルが語って進む作品の中に、突然こういった書き方が挟まるのも多くの人が「読みづらい」と感じる部分なのかもしれませんが、普段シェイクスピアその他の戯曲を読んで芝居やミュージカルを観ている身からすると、最初は語り手が変わったことに少し驚くけれどすぐに受け入れられるのだと思います。

船の後方のキャビン(船長室)にいるエイハブの独白から、スターバック、スタッブ、そして前甲板の水夫たちへと船の上の位置を前へ移動しながらだんだんと賑やかで陽気なシーンになっていく盆使いの舞台で上演されているのが浮かぶような展開です。思い出しても構成が舞台向きな一連の部分でわくわくします。

また、第九九章「ダブロン金貨」では主檣(メイン・マスト)に打ち付けられたダブロン金貨の元へエイハブ、スターバック、スタッブ、フラスク、マン島の老水夫、クイークェグ、ピップ、フェダラーが順に現れ、それぞれが金貨を読み解いていきます。それをスタッブが製油かまどの裏に隠れて一部始終を眺めながらコメントをしていくのですが、これまたとても演劇的といいますか、舞台上で行われるのが見えるようなシーンだなあと楽しく読みました。
スタッブが狂言回し的に観客と一緒に一部始終を見ていて、他の登場人物たちの言動に感想やツッコミをしていく。舞台には入れ替わり立ち替わり様々な人がやってきてはいなくなる。
面白〜〜〜〜〜い!!!!!だいすき。

また「語り手の人称が一定じゃない」というのも、冒頭はイシュメイルが「私」として語ってゆくのに、だんだんと語り手の存在が消えていき、誰ともつかない誰か、神の目線とでも言うべき、物語の外から全てを見ている者のような語りになっていきます。

中にはイシュメイルがいないシーン、つまりイシュメイルには語り得ないシーンなどもあるので、そんな語り手の定まらなさが、読みづらいとされる要因の別の1つでもあるのですが、狂言回しが舞台を進めたり、狂言回し自身もドラマの中に没入することもしながら進む芝居を見慣れている身としては「正直気にならない」というのが本音です。

全然気にならない。その章ごと、その時その時で、そういうものと認識して読み進められました。


エイハブのセリフ回し、言葉選びが大仰で慣れない、芝居がかっていて不自然に感じるという感想も見ますが「芝居がかった」台詞、当然ながら全然気にならないですね…。白鯨を書いた時期、メルヴィルはシェイクスピアに大きく影響を受けていたそうなのですが、確かにフェダラーの予言の「エイハブは麻縄以外によっては死なない」などはマクベスの魔女の予言にとても似ているし、エイハブの狂気と大仰な話し方はまるでリア王。シェイクスピアを愛読書にしている身からはあまりにも親しんだ話し方で、読みにくいどころか想像力を掻き立てられ、心を奮い立たされる要素になっているくらいです。

と、そんなこんなで白鯨の「読みにくさ」はあまり気になりませんでした!

メインのストーリーから脱線して鯨に対する熱い語りが沢山はさまるのも、クジラに惹かれてやまないイシュメイルが船の上で時間があるたびに語って聞かせてくれるようで、寝る前にちょっと読む時なんかも船員の寝室で、ハンモックに横になってイシュメイルのお喋りを聞いているような感覚で聞くと、ストーリーを中断されているのではなく、長いストーリーを追いながら旅の途中でイシュメイルと過ごす気持ちで無理なく読み進めることができます。

ので、私と同じように「バケモノの子」きっかけで白鯨読みたいけれど、読破が難しそうと迷っている方。身構えずに、イシュメイルと船旅に出る気持ちで読んでみませんか???

そうすればだんだんと、海の上のドラマにグイグイ引き込まれていけるのではないでしょうか。

では、

ここまでは「白鯨読みにくくなかったよ!」ということを書いたので、ここからはお話の感想を綴っていきます。

この先は結末含めてネタバレありですので嫌な方はご注意を!

登場人物紹介の「ネタバレ」

ネタバレあるよって書いた勢いで「そういえば」と思い出したので。

読書感想投稿サイトで白鯨の感想を読んでいた時、巻頭にある「登場人物紹介」で、その人物の辿る運命まで書かれてしまっていて盛大なネタバレになってしまう、という主旨のものがあったのですが、そもそもネタバレって、その作品を読み進めた先で出会う驚きや発見を先に知らされてしまって感動や楽しみが損なわれてしまうことを嫌がる、だからネタバレが嫌な人が多いと思うのです。

が、例えば「ロミオとジュリエット」では、冒頭プロローグで話の結末がもう示されていますよね。家同士の諍いによって若い2人が命を落とす悲劇であることを事前に知らされてから観客は芝居を観る、戯曲を読む。そうなるように構成されている。
劇作家、この場合はシェイクスピアによって、そうなるように演出されているのです。つまりロミオとジュリエットは、結末がどうなるのかハラハラドキドキして観る、読むことを想定されていない。行き着く先を先に教えられた状態で、どのようにしてその結末にたどり着くのかを見せる作りになっているのです。

ここで「白鯨」の主要登場人物紹介ですが、例えばイシュメールの紹介文の最後には「最後にただひとり生き残り、この物語を語る」とあります。
エイハブは「最終的には「白鯨」に対するみずからの偏執狂的復讐心の犠牲となって、海の藻屑と消える。」とあります。

このような調子で主要登場人物ほぼ全員の結末がもう巻頭で示されているのですよね。これはメルヴィルの初版からそうだったのだろうか…。
だとするとこれは「作者が意図して示している必要なネタバレ」ということになります。ので、読んでも問題ないってことですね!と、私はとります。
イシュメイル以外は全員死ぬよ!ってことを先に知らされてから読む。
なんなら、本文の語り手であるイシュメイルはこのモービィ・ディックを追い求めたピークォド号の航海を過去の体験を振り返る形で語っているので、過去にあった一隻の捕鯨船の運命の物語を、生き残りであるイシュメイルが私たちに語って聞かせているようなものです。

メルヴィルはこの物語を実在した捕鯨船エセックス号(モービィ・ディックのモデルである白鯨モカ・ディックに沈められた)の元船乗りから聞いた話をベースに書いたというので、そんな状況を想像すると分かりやすいかもしれません。

というわけで結末のネタバレを巻頭で知らされても、それで良いのだということで気にせずいきましょう。

イシュメイルとの旅

少し上の方にも書きましたが、私は白鯨という長い小説を、イシュメイルの話を聞きながら長い旅をする気持ちで読んでいます。

船でイシュメイルの話を聞くイメージです

イシュメイルは鯨が大好きで詩的で博識で、図書館や学校にも詳しく、ピークォド号の冒険の前にも商船で世界を巡った経験があり、ピークォド号の冒険の後にも南の島や外国へ訪れていて、鯨に関する書籍を図書館で片っ端から読んだような、そんな人。作者メルヴィルの化身のような人です笑。

このイシュメイルが鯨についてそれはもう語る語る。捕鯨船の構造や作業の解説。豆知識、鯨の種類や生態について。
どこかの島の人食い人種の文化と歴史について、本当のことからそれっぽいことから、あることないこと語る語る
ので、実際にはそうでない知識も混ざっていますが、そこはイシュメイルの語りに合わせてそういうこととして読んでいます。

例えばイシュメイルは鯨を「魚」に分類しています。鯨は哺乳類です
本文中で説明されるので読んでいただければわかるのすが、イシュメイルの論理では、イシュメイルの理屈では鯨は「魚」なのです。ということで進んでいきます。

さて語り手のイシュメイルではない、語られている物語の中のイシュメイルつまり、語り手の彼よりも過去の、ピークォド号に乗った物語の時間に生きるイシュメイルは冒頭、陸での生活に興味を持てなくなり、そして自分の中に憂鬱や、暴力的な衝動や、漠然とした死への気持ちを感じた時の対処法として、海に出ることを選びます。

彼はそれまでにも何度か商船に乗って航海をしたことがあるものの、捕鯨船の航海と、巨大な鯨、神秘的で圧倒的なレヴィタヤンへの好奇心と畏怖と憧れとを持って、その神秘の怪物と相対することに胸を膨らませて、初めて捕鯨船に乗り込むことを決めるのです。

作中でエイハブが「白鯨」モービィ・ディックに対して抱く強烈な復讐心、憎悪。それと対照的に輝くのがイシュメイルの鯨への尽きない憧れと、信仰とも呼べるような畏怖と賛美

復讐に突き動かされる航海の物語をいく中で、イシュメイルの鯨への賛歌は作品全体を重く暗い空気から救い、実際にモービィ・ディックと出会う章までの間に鯨とそしてピークォド号の人々とを鮮やかにドラマチックに、最後の結末を迎える時のために用意していくのです。
どんな人がどんな鯨と、どのように戦って、あの結末に行き着くのかを。

私たちはイシュメイルが嬉々として鯨についての知識を披露するのを、聞き役に徹して航海を進める
そうするとそのうちに、モービィ・ディックだけでなく船乗りたち、エイハブ、スターバック、クイークェグ、スタッブ、フラスク、ダグー、そして不気味な拝火教徒のフェダラーと小さなピップの関係性と、それぞれの生き様というドラマも航海の中で目撃しながら、ついにはモービィ・ディックと出会うことができる。

この旅を急がずに、捕鯨の旅は長いものだと思って自分とイシュメイルのペースで海をゆくのが、私のオススメの白鯨の読み方です。

ピークォド号と乗組みたち

エイハブの船、イシュメイルの乗り込んだ捕鯨船「ピークォド号」は人種のるつぼです
ナンタケット出身のアメリカ人、オランダ人、フランス人、イギリス人、アイスランド人、マルタ島、シシリー島、ロング・アイランド、アゾレス、シナ、マン島、東インド、タヒチ、ポルトガル、デンマーク、サンチャゴ島、ベスファルト出身の水夫たちに、地図にもない島ココヴォコの王族だった人喰い人種のクイークェグ、黄色い肌のアジア人たち、不気味な拝火教徒。
とにかく色々な出身や信仰の者たちがこの船には乗り込んでいるのです。

「白鯨」には捕鯨船ピークォド号にイシュメイルが乗り込む前の、陸地でのシーンから、様々な「人種」の人々が描かれます。
彼らを表現する言葉は今の私たちからすると差別的なものが多いのですが、それが当時の作者、メルヴィルの感覚だった、という印象とは違うのです。
作中の世界での言葉遣い、人々の価値観はそういった呼称の差別性に現れているのですが、読んでみればすぐに分かります。メルヴィルはむしろ、そういった人種やジェンダーなどの感覚が現代にかなり近い、当時のアメリカ人としてはかなり先進的な思想を持った人だということが。

呼称こそ作中および当時の社会の価値観を表していますが、メルヴィルの描く彼らの描写はむしろ有色人種や未開の島から来た人々や文化の方を理想的だと憧れていることが伺え、語り手のイシュメイルを通して自分たち白人の方が乱暴で頭でっかちで、自分たちこそが偉いと思っている者と捉えていることが節々から感じられます。

キリスト教徒であるイシュメイルが全身に刺青を施した黒人で異教徒、人食い人種のクイークェグと「心の友」となり1つベッドで毛布を分け合い、その「隣人」のために、彼が信仰する神ヨージョの人形への祈りの儀式を共に行うのは、当時の感覚からするとキリスト教者としてのあり方もかなり挑戦的ですが、クイークェグがこの関係を「夫婦」と呼ぶことからも分かる、どこかホモセクシュアル的な愛のある関係であることも、メルヴィルの感覚がかなり現代に近いことが伺えると思います。

彼は白人至上主義を強く批判し、キリスト教の神に対しても挑戦的な目を向けている。その姿勢はどこかエイハブのようで、巨大な白鯨を白人、そして神として考え、人種のるつぼのようなピークォド号はアメリカ合衆国であるという読み方がされることもあるのも頷けます。

ちなみに「ピークォド」とはピークォート(Pequot)族というアメリカのインディアン部族で、17世紀に入植者たちとの戦争で大多数が死亡、一時は完全に絶滅してしまったと考えられていた部族の名前から取られているそうです。

船長のエイハブ、善良で真面目な一等航海士のスターバック、ユーモアがありながら知的な面も見せる楽天家の二等航海士スタッブ、小柄で怖いもの知らずの三等航海士フラスク、モービィ・ディックとの最初と最後を印象つけるインディアンのタシュテーゴ、アフリカ人のダグーに、我らがクイークェグとイシュメイル。
そして小さなピップと、謎に満ち不可解な拝火教徒、東洋人のフェダラー。

彼らの乗るピークォド号は時に穏やかで美しい海を、時に荒れ狂う嵐の海を、白鯨モービィ・ディックを求めて進み、最後にはイシュメイルだけが生き残る。

こうまとめてみると、確かに最初に主要登場人物紹介で全員の出身や運命が分かっているのは、「ピークォド号で白鯨を探す航海をする」物語を読む印象がかなり違ってくるのかな。と思います。

個性豊かな仲間たちと、隙あらば鯨の知識を語ってくるイシュメイル。雑多に折り重なる、彼らの輪唱なんだか重唱なんだか分からないような歌を聞いたような感覚を、この本を思い返しながら覚えています。


エイハブの悪

エイハブ
ピークォド号の隻脚の初老の船長。自分の片足を食いちぎった「白鯨」モービィ・ディックに対する復讐の怨念に燃えて広大な海にこの鯨を追うが、その執念には鯨に対する憎悪ばかりか、世界の不条理に対する復讐の念もふくまれていて、そう単純ではない。
エイハブは「大学にいたこともあり、人食い人種のあいだにいたこともある」人物で、低い情念ばかりか高い知性にもめぐまれ、彼なりの「人情」にもこと欠かない複雑な人間である。しかし、最終的には「白鯨」に対するみずからの偏執狂的復讐心の犠牲となって、海の藻屑と消える。

岩波文庫「白鯨」八木敏雄訳 「主要登場人物」より

エイハブ(ahab)というのは悪王の名であるといいます。
それは旧約聖書に登場する紀元前9世紀の北イスラエルの王で、「北王国の歴代の王の中でも類を見ないほどの暴君」とされています。

このアハブという王が何をした人かというと、異教徒の妻を娶り、彼女の信仰する異教の預言者たちを呼び、異教の神殿を建て主なる神への信仰と混ざったものが広まってしまい、更にその悪妻にそそのかされて民を陥れて土地や財産を搾取したということだそう。
この内容だけで考えると、エイハブとの繋がりは薄いようにも感じますが、彼が「聖書における悪王」であることが1つ大きなポイントなのかなと思いました。

まず第一に、神に逆らう者として。

そして、「」であること。

エイハブの悪は何だったかと言えば、まず何よりも、モービィ・ディックへの自らの復讐に30人以上もの船員たちを道連れにしたことでしょう。
これがもしエイハブ1人で怪物に挑んでいたら、エイハブは悪人とされたかどうかと考えます。もし山に棲む怪物や砂漠の向こうに棲む怪物を復讐のため倒しに、1人の男が挑んでいく物語だったらどうだろうかと。

エイハブは何と言っても「船長」だった。広大な海の上で、1頭のマッコウクジラを探して航海をし、そしてその怪物と戦うためには、捕鯨船の船長であるエイハブにはこの方法しかなかった。そして彼の狂気がそれを後押ししたのでしょう。
だからこそエイハブはピークォド号の専制君主、独裁者であり、悪王の名がついているのだと思いました。


エイハブの客観性 エイハブはエイハブであるか

エイハブという人は確かに狂気をはらんでいます。でありながら、彼は自分の狂気に対してどこか冷静な、俯瞰的な視点もまた持っていて、それでいて尚、彼は狂っているのです。狂うことを選び続けている。

第一二九章「船長室(キャビン)」で、海上に取り残されたショックから正気を失い白痴のようになってしまった少年ピップの優しい言葉が狂ったエイハブに突き刺さります。
しかしエイハブはピップの言葉の通りにすることはできない。
一等航海士スターバックも何度もエイハブを引き留めますが、やはりエイハブを止めることはできない。
エイハブはピップを船長室に残して立ち去り、スターバックに船に残れと言い残し、そして2人を救い家に返せと祈り背を向けます。

それはエイハブの狂気がピップの狂気とは全く違う性質のものであるからで、狂気により自我を失って世界と一体になったかのような穏やかなピップの言葉に答えてしまえば、エイハブはもうエイハブではいられないから。
エイハブは狂気を、自我と信念を、執念を捨てるわけにはいかなかったから。
エイハブは狂い続けることでエイハブという役を生きている。狂うことから降りてしまえばエイハブは生きられないのでしょう。そういう人が、エイハブという老人であったから。

「(略)よいか、エイハブはあくまでもエイハブなのだ。この劇は脚本どおりにやることになっていて、変更不能なのだ。おぬしとわしはこの海が波打つよりも一〇億年もまえに、もうこの芝居の下稽古をやっておるのだ。道化め!よいか、わしは運命の手下だ。その命じるがままにうごく。いいな、おぬしはわしの部下だ! わしの命じるがままにうごくのだ。(略)」

岩波文庫「白鯨」八木敏雄訳 「第一三四章 追跡-第二日」より

運命の劇の中で狂い続けて「エイハブ」を演じる老人の姿は狂気そのものであり、船員たちを道連れにしている点で悪王のそれであるにも関わらず、悲痛なものを感じずにはいられません。
白鯨という巨大なボール紙の仮面の向こうに何もないかもしれないと考えながら、自分が狂っていると自覚しながら、それでも狂い続けるしかできなかったエイハブ。
しかし彼は自分の意思が本当に自分のものなのかと疑うこともあります。
第一三二章「交響楽」はエイハブが作中で一番その胸の内を繊細に吐露するシーンでもあり、穏やかな海に一粒の涙を落とす彼はスターバックにお前は船に残り生きて帰れと伝え、そして共に帰りましょうと言うスターバックに自分はそうはあれないと、自分を突き動かすものを語るのです。

「これは何だ? この名づけがたい、とらえがたい、摩訶不思議なものは何だ? 姿を見せぬ欺瞞の君主や冷酷無比の皇帝が、わしをして本来の愛や情けにそむかしめ、わし本来の自然な心情では夢にもかんがえられんことを遮二無二やらせようとして、四六時中、わしを脅迫し、強要する
──これはいったい何なのだ? エイハブは、はたしてエイハブなのか? いまこうして腕をあげているのは、わしか、神か、はたまただれなのだ?(略)」

岩波文庫「白鯨」八木敏雄訳 「第一三二章 交響楽」より

「エイハブは、はたしてエイハブなのか」
この問いは「この狂ったエイハブは」「本来のエイハブと同一であるのか」という問いであり、白鯨への復讐に取り憑かれ狂った自分を、果たして本当に自分の意思で動いているのかと問うもの。
しかしこれにエイハブがNOと答えることはできず、一三四章の「エイハブはあくまでエイハブなのだ」という答えに行き着くのです。

序盤の威勢の良いエイハブモービィ・ディックを倒してナンタケットに生きて帰ると宣言していますが、終盤の追跡のシーンの口ぶりを見ると白鯨と戦えば勝てる見込みは薄く、自分はそこで死ぬだろうということをエイハブも予感しているように読むことができます。

自分はこの復讐劇で死ぬと分かっている、この復讐が狂っていると分かっている。船員たちに家族があることも分かっている。
エイハブが完全に正気を失った狂王であれば、この物語の見え方は違ったでしょう。
エイハブのこの客観性。理性と情を残した二重の狂気が、エイハブという人とピークォド号の物語に苦しみと人間味と悲痛さを色濃くさせていると、そう思いました。

誰が何を求めたのか

エイハブが狂い続けながら追い求めていたものはなんだったのでしょうか。
モービィ・ディックはエイハブを求めてはいなかった。白鯨を求めたのはエイハブ。ではエイハブはモービィ・ディックへの復讐に何を求めたのか。

エイハブの物語の始まりは1つ前の航海の時。
その時も船長として捕鯨船に乗っていた彼は、白鯨モービィ・ディックと出会い、3艘のボートを沈められ仲間を殺され、ナイフを構えた所で自身の片脚を食い千切られた。
その時から、エイハブにとってモービィ・ディックは全ての悪、悪意をひめた真実の「目に見えるかたちで擬人化された」「実際に討ってかかることができる攻撃の対象」となったのです。

「片脚を失った」という明確な「身体的な」欠損。白鯨に奪われた自らを支える脚。そしてそれを補う、鯨骨で作られた義足。
モービィ・ディックに仲間を殺され、その身体を欠けさせられて、エイハブは欠けた。そして世界からも、欠けた存在になった。もう人と同じではいられなかった。思うように動けず、脚を失った傷口は燃えるように痛み、エイハブは怪物を呪ったのでしょう。

圧倒的な海の怪物。偉大なる神秘のレヴィタヤンはエイハブを認識して攻撃などしていない、エイハブを求めてもいない。
しかしその大いなる生物による悲劇という不条理はエイハブにとって、理解し難く許しがたい、理不尽だったのでしょう。事故だったと、残念だったと割り切ることはできなかった。
なぜ。なぜ私が、仲間が、こんな目にあうのか。その肉体的な欠損と痛みはエイハブを憎悪に狂わせるには十分だったのでしょう。

第三六章「後甲板」でエイハブは言います。

「(略)あらゆる目に見えるものは、いいか、ボール紙の仮面にすぎん。だが、個々のできごとには──生きた人間がしでかす、のっぴきならぬ行為には──そこにおいてはだな、何だかよくわからんが、それでもなお筋のとおった何かが、筋のとおらぬ仮面の背後からぬうっと出てきて、その目鼻立ちのととのった正体を見せつけるのだ。人間、何かをぶちこわそうというのなら、仮面をこそぶちこわせ! 壁をぶちこわさずに、どうして囚人が外に出られるか?わしにとって、あの白い鯨が、迫りくるその壁なのだ。ときによっては、その背後には何もないと思うこともある。だが、それでよいのだ。とにかく、やつはわしにいどみ、わしにせまる。やつのなかには、不可解な悪意で筋金入りの凶暴な力がひそんでいる。わしが主として憎むのは、その不可解なところだ。あの白い鯨がその不可解さの化身であろうと、そのご本尊であろうと、わが憎しみをやつにぶちまけてやる。」

岩波文庫「白鯨」八木敏雄訳 「第三六章 後甲板」より

引用が長めになってしまって申し訳ないのですが切れるところがなくて…!

エイハブにとって白い鯨は真実を隠す白い仮面。その理不尽な存在の向こうに、何か納得のゆく真実、自身をこんな目に合わせた運命の訳を求めて、いやそんなものは何もないかもしれないと、エイハブ自身気付きながらも、理不尽に屈することはできない。大いなるモービィ・ディックがそれこそ神でも悪魔でもその使いでも。
エイハブは更に「もし太陽がわしを侮辱するなら、わしは太陽にでも打ってかかる。太陽が侮辱してよいのなら、わしだって侮辱してよいはずだ。」と続けます。直接に神と名言はせずとも、太陽で例えてしまうのはもう疑いようもなく、「例え白鯨が神の化身や神自身であっても」と言っているようなものです。

しかしこの作品全体を振り返ると、周りからは「不条理」であり、それと対峙する狂ったエイハブにとっての巨大な「理不尽」は、当時のキリスト教社会であり、白人至上主義といった巨大な力だったのではないかとも読めます。歯向かう者は糾弾され、冒涜だと罵られ、その大きな白い仮面で世界を覆い尽くし小さな捕鯨船を飲み込まんとする圧倒的な力。

ピークォド号が人種のるつぼであるゆえにアメリカという国の置き換えではないかという説もこれを後押しします。
自分は狂っていると知りながら、理不尽に屈してたまるかと、大きな白い壁、仮面の向こうに何もなくとも、そこに何か、まだ見ぬ、自分の知らぬ真実があるのではないかと、モービィ・ディックを倒せば何かが変わるのではと、もし倒せずに自分が死んだとしても、どうにか白鯨に銛を突き立てんとするエイハブの姿は、「白鯨」を書くメルヴィルの姿にも重なるように思いました。

そして、語り手であるイシュメイルは何を求めたか。
エイハブが痛みと怒りによって復讐に燃えるのとは対照的ですが、イシュメイルの欲求も、作中に強く見られます。
それはまず海、航海、そして鯨への畏怖と憧れ、尽きない好奇心。その信仰ともとれるような賛美。
エイハブのモービィ・ディックへの黒々とした執着とは対照的に、イシュメイルの鯨への熱弁からほとばしる、大いなるレヴィタヤンと捕鯨という仕事への心酔。
またエイハブは白鯨の向こうに筋の通った真実を求め、イシュメイルは鯨についてあらゆる角度から語りながらも明確に答えを出そうとはしていない。多面的に見て、「捉えきれないもの」として鯨を考えている、そんな点でも2人は対照的です。
方向が違っているのにお互いに極端なまでの鯨への執着ですが、この鯨と海に対する、エイハブとイシュメイルの対照的な欲求が、白鯨という作品を読む読者にとって交互に影響しながらクライマックスへ向かっていく面白さ。

作中でイシュメイルとエイハブが直接に言葉を交わすシーンは限りなく少なく、イシュメイルは特に物語後半では「語り手」に徹し、エイハブの物語を綴ります。
ただの端役の新人鯨捕りだったイシュメイルは、ただ1人全てを見て生き残った者として、エピローグを経てもう一度冒頭に戻り、エイハブを中心に据えたこの物語を私たちに語りだすのです。
イシュメイルもエイハブもメルヴィルの化身のような人なのに、ここまで違ったキャラクターとして存在していて、でもその思いの強さという点でとても近しいとも思えるのです。

広い海の上で一頭の白い鯨を求めて航海を進めるこの物語を、イシュメイルとともに辿りながら、メルヴィルの求めたものを、エイハブの怒りと問い、イシュメイルの知的好奇心と世界、命への賛歌を通して感じることが、できるように思います。


白という色

巨大な白いマッコウクジラ。それを畏怖しながらもその神秘に触れたいと思い、その向こうの真実を知りたいと願う人々。賛美、畏怖、憎しみ、憧れ、あらゆる想いとともに追い求められる白鯨モービィ・ディックのその、圧倒的な存在感は「白」という色に代表されます。

第四二章「鯨の白さ」で語られる内容の通り、白という色は様々な文化の中でアルビノの象や蛇、馬などが神聖であったり高貴なものとして扱われるように、王室や皇帝、教会などがこの色を自分たちを示す色としたように尊い色、神聖な色とされてきました。また白百合が聖母マリアを表すように純潔、純粋といった汚れのない無垢なことを示す色でもあり、老人の白髪も時に罪のない立派な者の証と考えられました。

そんな「何色でもない」白は、その形の無さ、捉えがたさが不気味さとなり、恐怖とも結びつく色です。白熊や白サメに感じる恐ろしさはその白さにも起因するとメルヴィルは綴っています。

また私たち現代人の感覚だと白は無機質な冷たいものの表現としてもよく使用されます。無菌室のような精神病棟や冷たい監視社会を描く映画や舞台では白が多用され、白の捉えどころのない冷たい広がりで狂気や圧力、洗浄された不自然な清潔さを描くのです。

白という色で表現されるものは、その意味が真逆なものも含めてあまりにも多く、しかしそれら全てが、確かに私たちが白という色に対して抱いてきたイメージであります。黒もまた、他の色とは区別され相反する強いイメージと意味を持つ色ですが、白の方が圧倒的に正、善のイメージを持つことが多く、黒は良いイメージで使われることが白と比べて少ないことから、白の方がより、真逆の意味をそれぞれ強烈に与える色のように思います。

白は精神的なもののいちばん意味ぶかい象徴であり、いや、キリスト教の神のヴェールそのものでありながら、同時に、人類にとっていちばん恐怖すべきものを象徴する強烈な符丁なのである。(中略)あるいはまた、白さとは、本質的に色というよりは色の目に見える欠如であり、同時にあらゆる色の具象だからだろうか? 広大な雪景色には、意味に充満した無言の空白があるからこそ──色のない、あらゆる色といった無神論があるからこそ、われわれはそれにひるむのだろうか?

岩波文庫「白鯨」八木敏雄訳 「第四二章 鯨の白さ」より

白は何色でもない「無」の色でありながら、全ての色を内包しているとイシュメイル、メルヴィルは言います。
この「白」をメルヴィルは上手く利用した。白鯨モービィ・ディックはまさに、あまりに大きく圧倒的な存在で捉えがたく、それ故に神や運命の化身のようでもあり、神秘的な、超越的な存在であり、同時に白い仮面で隠された何か大きな悪意、メルヴィルが白をキリスト教や(当時の)白人種を示す色と意識していたことは本文からも読み取れますが、そういった社会を覆う巨大な白の権力、暴力をイメージに重ねることもできる存在であるのだと思います。



長々と書いてしまいましたが、この記事は「舞台のオタクがバケミュを観て白鯨を読んだ」という軸で書いているので、白鯨の感想という意味では本当はまだまだ好きなところが沢山あるのですが…「普段舞台を好んで観る人間が白鯨を読んでみた感想」と、この次の記事で触れていく「ミュージカル バケモノの子と合わせて考えたこと」の、ベースとなる箇所の感想をまとめさせていただきました。

ここまで読んでいただきありがとうございます。
もしよろしければ後編、ミュージカル バケモノの子と白鯨についての感想も合わせてどうぞ。



記事中何度も引用させていただいた岩波文庫の白鯨、購入URL貼っておきます。

honto 紙書籍(上中下セット)

●honto 電子書籍 上巻URL(中・下もサイトにあります)

●amazon 紙書籍 上巻URL(中・下もサイトにあります)

●amazon 電子書籍Kindle版 上巻URL(中・下もサイトにあります)

私はhontoアプリを使っているのでhontoの電子ですが、それに限らず電子はかなりおすすめです。理由は記事の最初の方に書いたのでそちらをご参照ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?