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舞台のオタクがバケミュを観て白鯨を読んだ(後編 白鯨とバケモノの子)


後編です〜👏?
バケミュ関連でこの記事にたどり着いて前編の白鯨感想を読んでくださった方はお疲れ様でしたありがとうございました。せっかくだからその勢いで白鯨も読みましょう。そして感想が聞きたい。

そんなわけでここからはミュージカル「バケモノの子」と白鯨を絡めた感想やらぐるぐる考えていること。
白鯨を読んだ中でバケモノの子と繋がりを感じた部分や、白鯨という観点からバケモノの子について考えたことなどなどを、綴っておこうと思います。

私がミュージカル「バケモノの子」を最初に観て、白鯨のパペットに心を奪われたところからいきます。
この先の「白鯨」や「バケモノの子」の解釈などは、研究者でもなんでもないただのファンである私が、ぐるぐる考えていることに過ぎませんのであしからず。頭の中を書き出したような記事です。

白鯨出てくるのがもうクライマックスというか「出てくる」って書いてる時点でネタバレの域なので、この先ネタバレ配慮一切なしです。

透明な鯨とシャボン玉の破片


初めて「白鯨」が出てくるシーンを観た時、その大きさと美しさとダイナミックな動きに圧倒され、心を奪われてしまいました。「鯨」という生き物の巨大さへのシンプルな感動。圧倒的な存在感。大きいというただそれだけでも感動ってするんだなあという感覚。
そして、その美しさ。透明で、キラキラしていて、ガラス細工のような白鯨はあまりに美しくて。それがドロドロとした闇の権化としてだけの表現にはとても見えず、赤く光る眼は泣き腫らしたようでもあり、闇を纏う一郎彦の姿であるのに、それが「透明で美しい鯨」であることがドス黒い怪物の姿などになるよりもずっと切なく痛ましく、繊細で胸を打ちました。

脆く壊れやすいガラスの鯨。初めて観た時にそう思ったので、鯨が倒されてバラバラに散るシーンでも使われているのはシャボン玉ですが私はそれが、砕けたガラスの破片の表現のように感じられました。(その後映画版を見たらそっちでもシャボン玉だったのでガラス説は違うのかなと思いますが

鯨の美しさが、それこそガラスの破片が突き刺さったように胸に残って忘れられず、そのまま何度か劇場へ足を運び、白鯨の電子書籍を購入し、気づけばすっかり「バケモノの子と白鯨」の虜になっていました。

そんなこんなで今に至るのですが、まだまだ作中の表現で「何故こうなるのだろう」が理解できていない箇所も多く、白鯨を読んだのは初夏だったのにnoteを書き終えるまでこんなに時間がかかってしまいました。
今でもまだ自分の中でも答えを出せていないこと多いですが、年も明け、東京公演の千秋楽も迫ってきてしまったので、とにかく今の分だけでもまとめよう!というのがこの記事です。もっと早く書きたかったけど分からないことが多すぎて…。

白鯨を読んでバケモノの子について思ったこと、考えたことをちまちまと。

知識への扉 イシュメイルと蓮

私の名前はイシュメイルとしておこう。Call me, Ishmael.
「白鯨」の冒頭、書き出しの文です。「私の名はイシュメイル(My neme is Ishmael.)」ではないところが特徴的です。
このイシュメイルと名乗る誰かは、数年前の自分の体験談として、白鯨モービィ・ディックとピークォド号の物語を語りだすのです。

さてイシュメイル、元々鯨捕りだった訳ではありません。
普段は丘で暮らし、自分の中に不安や退屈や鬱憤が溜まると水夫として商船に乗り込み海に出る、そんな生き方をしていたのですが、ある時さらなる危険と未知に溢れた捕鯨船に乗り込むことを決めたのです。
彼は鯨ーすなわち世界で最も大きな生き物、海の怪物レヴィタヤンに大きな関心と憧れを持っていました。

ピークォド号の冒険を生き延びた後にはさらに鯨についての知識を得ようと「図書館から図書館へとわたり歩いた」人。作中でも隙あらば延々と鯨についての持論を展開している人です。

そんなイシュメイルの、「海」や「鯨」に抱く知識欲、好奇心。新しい景色を見たいと思う欲求。そして人喰い人種のクイークェグなど様々な人々と出会い、初めは抵抗を見せながらも彼らを受け入れ、どんどん親しくなっていく人柄。
蓮くん—九太にとても似ているように思います。
船に乗る前に港町の宿屋で出会ったクイークェグは腕利きの銛突きで、捕鯨船の旅の熟練者です。彼と出会ったことでピークォド号に乗り込むことが決まり、イシュメイルが新しい価値観や美意識を受け入れるようになる。
クイークェグは「バケモノの子」で言えば楓がその役割を果たしているでしょう。

"Call me, Ishmael."という自己紹介に現れるイシュメイルの不在性は、「イシュメイル」という名前は仮のものであるかもしれない、「ひとまず私たち読者の前で、この物語を語る間は私はイシュメイル」といった不思議な存在であるように感じられます。
この不安定な存在感も、楓の前で自分の名前を言い淀む蓮に少し重なるのかも?
図書館のシーンでちょうど冒頭の「私の名はイシュメイルとしておこう」を読む台詞がある、というのもこの印象につながりました。

イシュメイルが海——そして鯨に感じている期待とスリル、知識への欲求。
それは蓮に置き換えると、新しい道、新しい知識、無意識でも諦めていた自分の可能性が、まだ追いかけられるということ。
9年前に手放した世界、9年前に手放した未来が今も自分を拒絶してはいないという希望。
小学校3年生までの教育しか受けていないことが人間界での自分を卑下するような不安要素ではありながら、もっと触れたい、知りたいという世界への欲求が感じられます。

そして彼がそれを実際に学んでいくのは、「白鯨」を読むことを通してです。
そもそも蓮は白鯨の物語が好きなところからスタートして研究しているわけではなく、「白鯨」が9歳のあの日に持っていた本。父親から渡された本であったから、というのがきっかけになります。
あの日の自分が手にしていたもの、あの時手放さなかったらその後に触れていた世界、父親は自分に何を伝えようとしたのか、そういった、「蓮」としての自分を見つけるためのキーワード、自分の過去と今と未来を見つめ直す橋渡しになるのが彼にとって「白鯨」という本だったのです。

白い仮面をつけた世界の、理不尽に立ち向かうエイハブと、鯨への賛歌を綴るイシュメイルの物語を通して世界と自分をもう一度、蓮が繋いでいく過程を見ているように思いました。

「バケモノの子」という作品内で、白鯨は重要なシーンにキーとして存在しながらも、それについて台詞で語られることはごく僅かです。その中で、この関係について考えるのに避けて通れないものは「船長(エイハブ)はクジラと闘っているように見えるけど、本当は自分自身と闘っているのではないか」という蓮(映画版では楓)の主張です。「鯨(モービィ・ディック)は自分を写す鏡なんだ。」とまとめられるこの台詞。
ちょっとそこもう少し詳しく聞きたいな〜なんて、かなり思うのですが、それ以上の言及はありません。
そして終盤、クライマックスで一郎彦の闇が作り出した白鯨と闘いながら蓮(九太)が呟く「鯨はアイツ(一郎彦)の鏡だ。本当のアイツはどこだ。」という台詞。そして、少し使われる言葉が違いますがその戦いの前のシーンで九太の言う「俺と一郎彦は同じなんだ。」という台詞。この辺りが「鏡」というキーワードと直接関連する台詞です。

まずは、そもそもの「モービィ・ディックがエイハブ自身を写す鏡である」の主張がどういうものなのかを考えなくてはならないでしょう。
白鯨はエイハブを求めてはいない。エイハブたち人間が鯨を攻撃しようとして初めて、鯨も人間を敵と認識して攻撃してくる。という点を、鯨による攻撃は自分たち人間の悪意を鏡写しにして返ってくるものだ、と考えることはできると思います。
しかし、これだと元々鯨たちは人間を求めておらず、執着しているのはエイハブの方。という関係が無視されてしまいます。
モービィ・ディックはエイハブなど眼中にないのですから鏡合わせ、とは中々言い切れないように思います。

イシュメイルはエイハブのことを、言い表せぬ、とらえがたい、見えているよりももっと深い存在であると見なし、畏怖を感じていて、それはイシュメイルが白鯨に感じている感覚ととても近いものであると言えます。

捉えがたい、尋常ではない存在という意味ではエイハブと白鯨は近いのかもしれません。
白鯨がエイハブと鏡合わせの存在である、というよりも、白鯨という計り知れない存在と対峙することで、「エイハブ」という人間が浮き彫りになる、という見方もまた可能だと思います。

では白鯨とは何なのか。蓮/九太は、エイハブにとって白鯨は自らを映す鏡であり、白鯨と闘うエイハブは自身と戦っていると言い、一郎彦の闇が生み出した白鯨は一郎彦の鏡だと言います。でもその白鯨と戦うのは九太で…と、諸々の関係性が必ずしも白鯨とリンクするわけでもないところがバケモノの子と白鯨を絡めて考える難しさでもあります。

エイハブにとっての白鯨は、一つ前の記事でも書きましたが、理不尽な世界、マジョリティの暴力性といった、外的要素、エイハブの鏡といった内面ではなく「他者」である意味合いの方が強いと私は考えています。
バケモノの子においても、蓮にとっては両親の離婚や交通事故による母親の死、一郎彦にとっては周囲と違う外見を持つ自分の身体へのコンプレックス。「なぜ自分がこんな目に」という理不尽への怒りがあり、闇に繋がります。

ただ、蓮/九太と一郎彦の2人は明らかに鏡として描かれていて、お互いが鏡に映った別の自分が辿ったかもしれない姿を見ています。
タイトルソングが歌われる最終景に繋がるシーンでは、2人の衣裳の配色やシルエット、重心などもフード付きの上衣が白っぽい色でパンツは比較的暗めの色であるなど似せたものになっており、向かい合った画の「鏡」の説得力があります。

ではお互いにとってお互いがエイハブと白鯨であるのか
一郎彦はエイハブと共通する要素を沢山持ったキャラクターで、執拗に九太を憎み復讐に燃える様はまさにエイハブと言えるでしょうし、彼に取って九太は「理不尽にも」エイハブの片足を食いちぎった白鯨であったと言えるでしょう。では逆は?
九太は正直なところ、一郎彦に対して彼の秘密が明らかになるまで特別執着などはないように見えます。九太にもエイハブ的な要素はありますが少なく、むしろイシュメイルに近い。でも白鯨と戦うのは九太。

鏡というキーワード、エイハブ船長と白鯨そして九太と一郎彦、複雑に絡み合って中々綺麗に収まらないのですが、このあたりの状況を並べると上記のようになるかと思います。

胸の穴と失った片脚

エイハブの狂気の始まりであり、憎しみの根源となる白鯨モービィ・ディックに食い千切られた片脚。
失った片脚はエイハブから自由を奪い、仲間と誇りを奪われた胸の痛みと同時に、傷口の実際的な、肉体的な痛みと欠損を生みました。

この白鯨が明確にエイハブから奪っていった「脚」。失われたエイハブの肉体の一部。その痛みから生まれる憎悪
エイハブの失われた片脚は、「バケモノの子」の中の言葉では疑いようもなく「胸の穴」にあたるでしょう。
その穴を、エイハブは鯨骨で作った義足、それこそ白鯨への復讐の誓いで埋めることで、憎しみを生きる力に、戦う力に変えています。

エイハブの痛み。白鯨に奪われた脚という、目に見える肌で感じられる生々しい穴の痛み。欠けた身体。
エイハブは巨大な白鯨に襲われた不条理を理不尽と捉え、そして片脚を奪われた際に世界から孤立し、食いちぎられた脚のように世界からはじき出されたように感じたでしょう。

蓮/九太に当てはめれば、理不尽によって奪われた自分の一部に等しいものとして「母親の事故死」が最初の穴になります。
エイハブは3度義足を作り直していますが、九太もおそらく渋天街に来て新しい居場所を見つけた時に最初の義足、楓と会って白鯨を読み解き勉強することで自分の可能性を肯定できた時に2つ目の義足、そして付喪神になった熊徹との絆という3つ目の義足でその都度、胸の穴を埋めているように考えられます。

一郎彦の場合も分かりやすく、こちらは本人の身体に直接関係する痛みという点で、エイハブに似た状況が生まれます。
伸びない鼻、獣の毛皮も持たず、牙も生えず耳も髪も周囲と違う。それを隠して生き、白鯨の代わりに九太を「実際にうってかかることのできる攻撃の対象」とすることと、自分はあいつとは違うと言い聞かせることで自我を保っています。一郎彦の義足は父親の言葉。その義足に縋って立っているものの、義足のヒビは日に日に深くなっていく。それが折れたり壊れたりしてしまえば、欠けた心と身体では、片脚では立てずに倒れてしまうのは目に見えています。

「居場所がない」世界から孤立している。
この感覚も、エイハブ、九太/蓮、一郎彦に共通しています(熊徹も?)。

渋天街で新しい家族、仲間と前向きに暮らして馴染んでも、どこか寂しさを抱え、かといって元の世界に久しぶりに戻ってみれば、自分はもうそちらの人間でもない九太/蓮。
両親どちらの母国でも外の者と見られてしまうミックスルーツを持つ方々や、移民2世3世の方々の置かれた状況、孤児となって親戚や里親の子として愛されても、家族の中で自分だけが他人であると感じてしまうことのような状況に、少し近いものを感じてしまいます。
あっちでもこっちでも、自分はその世界の人間じゃない。周りの仲間が優しく受け入れてくれようとも、やはり自分だけがよそ者であるという孤独を持っていたでしょう。1幕の終わりに九太が二郎丸との会話の中で軽く笑って「俺はお前とは違う」と言いますが、そこにはやはり、このような孤独が滲み出ているように感じます。

一郎彦の歌う「生きてゆく場所がない」というフレーズも、まさにその部分を指しているかと思います。
彼は九太以上に、今の居場所を失えば行き場がなく、バケモノの世界でも渋天街を出れば「人間」という異質な存在でしかなくなってしまいます。
自分だけが周りと異なる外見をしていることを必死に隠し、自分の居場所を確立するため、自分がその居場所(家、街)にとって有用な存在であり続けるために、笑顔で聞き分けの良い優等生を装う。彼自身それが「嘘」であることには気付いていて、だからこそ「もし暴かれたら」と、周囲の視線に常に怯え、警戒して、心を閉ざしていく。
仮面をつけ完璧に嘘を演じ続けなければ、コミュニティに居続けることはできないという強迫観念が見て取れます。

もし真実を知られれば今の友人知人が離れていくかもしれないと思えば、人と一定以上に距離を詰めることを恐れ、少しでも孤独にならないために、自分から更に人と距離を置くようになる。それでいて誰かと会えば、誰にも同じ、正解の笑顔を向ける。
理不尽な運命が開けた胸の穴は、最初から大きかったわけではない。でもその痛みが抱える孤独によって、だんだんと広がっていってしまうように思います。

仮面、真実、本当の自分

エイハブは言います。あらゆる目に見えるものはボール紙の仮面にすぎない。その仮面の背後に、きっと筋の通った何かが隠れているのだと。
そして、エイハブにとって白鯨、モービィ・ディックこそがその真実を隠す仮面という、立ちはだかる壁なのだと。その奥に不可解な悪意(理不尽の理由)が潜んでいる。白鯨がその不可解なものの化身だろうとご本尊だろうと、それに憎しみをぶつけてやるのだと。

「仮面」という言葉も「白鯨」で、そして「バケモノの子」でキーワードとなっています。
「バケモノの子」では一郎彦が自分の秘密、そのコンプレックスと不安を隠すために「仮面をつけて」生きていると歌われます。
蓮/九太もやはり「九太」という名前を楓にとっさに隠した時や(私はこの蓮の名乗りを、蓮という人間界での本当の名前を名乗ったのではなく九太という名前を隠した印象の方が強いです。)、9歳で熊徹に弟子入りした時に「蓮」という名を隠した時、その場をやりぬく為や、自分に深入りさせない線引きのように仮面をつけているように感じます。

その仮面が必要ないと教えるのは、楓の言う「本当の私」という言葉であり、ここで蓮の「何か足りない」部分を埋めるために知りたいものが「新しい世界」よりも「本当の自分」であるということに本人も気付いていきます。
そしてそのために、自分を知るために改めて世界を知る、9年前に手放したものを知ろうとしていくというのが蓮の「白鯨」を読むことを含めた「学び」への姿勢であるように思えます。

また、「白鯨」ではエイハブが仮面の向こうに真実が隠されていると考えますが、「バケモノの子」にはまさに「真実」という曲があります。
「真実」というのもまた2つの作品の共通のキーワードであり、バケモノの子で繰り返し使われる「本当の自分」というキーワードも、「真実」と近しい扱いのものとして考えられそうです。

エイハブが白鯨を、真実を隠す巨大な白い壁、仮面であると考えていることは、「バケモノの子」の白鯨が何を示すのかを考える助けになりそうに思えます。

「白鯨」では、白という色が白人至上主義やキリスト教を示す色であるという側面が強くあり、あまりに巨大な社会の権力、マジョリティによる価値観を示す白で塗りつぶした仮面、壁というイメージがあります。
ただ、「バケモノの子」では白にそのような社会の固定観念や権力といった意味を持たせているようには見えません。

また、先ほどエイハブや九太、一郎彦にとって理不尽な運命によって欠けた部分が胸の穴になるということを書きました。
しかし「バケモノの子」の中で常に「白鯨=理不尽な力」なのだろうかと考えると、やはりメルヴィルの「白鯨」の中ではそう考えられますが「バケモノの子」では一郎彦が生み出したあの白鯨と戦うのが九太であることからも、そうではないように思えます。
エイハブにとってモービィ・ディックは敵だった。でも九太に穴を開けた理不尽は、クライマックスで出てくる一郎彦の白鯨とは別であり、この2つを沿ったものとして考えるのは難しそうです。

ここは「白鯨」のモービィ・ディックの意味と「バケモノの子」に出てくる一郎彦の生み出す白鯨の意味は違うものであると考えた方が良さそうです。

では「バケモノの子」の仮面は何を隠すどんなものなのか。
「仮面を心につけて」という歌詞、そして白鯨は一郎彦と一体となって九太を攻撃するということ、そして白鯨が破壊されるとシャボン玉(?)となって空中に散ることと、しかし白鯨を倒したことで闇が完全に取り払われるわけではなく、そもそも白鯨が出てくる前から闇は発動していたこと

これらから考えると、まず白鯨は一郎彦の敵ではないことが明確にわかります。そして白鯨の出現と消失が闇のそれとは同時でないことから、白鯨が闇そのものであるというのも、違うのだと思われます
闇の力を表すダンサーは黒い衣裳で、白鯨は透明や白のイメージなのもそれを後押しするかと思います。

では白鯨が出現する前と後、白鯨が消える前と後では、何がどう変わったのでしょうか。
タイトルソング「バケモノの子」は、九太が白鯨を倒した後に歌われますが、この時に一郎彦の闇が完全に取り払われているわけではなく、このタイトルソングを通して闇は浄化されていくのです。
では「白鯨を倒した」というのは何を倒したのか、何を壊したのか。白鯨と、その欠片のシャボン玉はなんだったのか。

九太が白鯨と戦っているうちには不可能で、白鯨を倒したことで可能になったことはまず一郎彦との「対話」かと思われます。そしてタイトルソングのイントロで使われるドクン、ドクンという鼓動のような音。
心臓に触れるような音の中、シャボン玉となった鯨が空気に溶けていき九太は剣を収めて対話をする。白鯨は一郎彦の心の壁。仮面であり鎧であり、その厚い壁の武装を壊して、心に触れる場所に来れた、というのがあのタイトルソングのシーンのように思います。

では白鯨になる前との違いはというと、これもやはり対話が可能な状態かどうかに思えます。この印象はキャストによるのですが、白鯨が出現してから以降は一郎彦の戦い方がそれ以前よりも固く心を閉ざして超人的な、人間でないもののような動きが目立つように思えます。渋谷センター街での戦いの時点ではまだ感情に任せた人間的な戦い方を、しているように見えるのです。

九太/蓮が、一郎彦が、「もし暴かれたら」と必死に、あるいは咄嗟に隠そうと仮面で覆ったもの。世界にとって自分が異質である孤独から身を守るために、いつの間にか目を背けていたもの。それが「本当の自分」であり、白鯨は本当の自分を隠し心を守るための壁ではないでしょうか。
エイハブは言います。

「人間、何かをぶちこわそうというのなら、仮面をこそぶちこわせ! 壁をぶちこわさずに、どうして囚人が外に出られるか?」
岩波文庫「白鯨」八木敏雄訳 「第三六章 後甲板」より

タイトルソング「バケモノの子」を歌う前に九太/蓮が壊したものこそ、その壁であったのではないでしょうか。
心を守る壁を壊して直接心に触れるのだから、そこには痛みが伴うかもしれない。しかしその痛みを自分のもの、自分の一部として受け入れられなければ、本当の自分を永遠に壁の中に隠したまま、否定し続けて生きなければならない。受け入れるのはとてもとても苦しいことで、1人ではとても難しいこと。でも、隣に並んで手をとってくれる人がいたら、きっと。

初見時に描いたので鯨に牙があることに気付いておらず…牙がない絵ですが


白い子供

「白鯨」において、白という色が大きな意味を持つという話はこの記事でも、1つ前の記事でも触れましたが、「バケモノの子」でも「白」が明確に当てられているデザインがあります。

それはもちろん一郎彦の白い衣装。白い帽子白い服。両親は金や茶色の毛並みを持った猪とライオンのバケモノですが、一郎彦は「白猪」のデザインが当てられています。

舞台上で「白い衣装」というのは様々な意味を込められて頻繁に使われる記号でもあります。
バレエ、オペラ、演劇など問わず、主人公は周りよりも白っぽい衣装のことが多いのは舞台の上で明るく目立って見えるための他、心正しさや純粋さ、純潔などの意味を持つことが多く、また生死に近い表現にもなります。
死に向かう役の衣装がだんだんと白(や黒)に変わっていったり、逆に生まれたばかりのキャラクターを白で表したりします。
CATSのシラバブなどが当てはまりますね。私のnoteではイタリアで演出されたミュージカルの「ロミオとジュリエット」の感想もまとめていますが、そこでは2つの対立する家のカラーに縛られない若い2人は他の登場人物たちに比べて色の薄い衣装を着ていて、死の間際のシーンには更に白い衣装となります。
また、物語の最後にはそれまで家の色を着ていた人々が、憎しみやしがらみを脱ぎ捨て、白い衣装に変わります。
有名どころだとミュージカル「エリザベート」のラストでも、死の世界へ向かうシシィが重い生身の服を脱いでありのままの私、というように白いシンプルなワンピース姿になりますね。

では一郎彦の「白」はというと、上記に挙げた例のような際立った純粋さや正義を示すものでないことは彼の抱えた闇と、「白鯨」と色を共有していることからも明らかです。
体毛の薄い人間の肌に合わせた白であるというのは物語上の辻褄として合うでしょう。
ですが作中で白鯨を出現させる、白鯨と一体化するキャラクターに、ここまではっきりと白を当てているのだから意味があるはずだ。ということで、一郎彦の「白」が何を意味するのかを考えていました。

「白鯨」でモービィ・ディックの持つ「白」は高貴さ、神聖なもの、汚れなきものといった正しく美しいイメージと、無機質で表情のない不気味な恐ろしさのイメージを持った色でもあると語られます。
相反するイメージを同時に持っている白は、全色にして無色。全てを内包しながら無である、とらえきれない色なのです。

「白さとは、本質的に色というよりは色の目に見える欠如であり、同時にあらゆる色の具象だからだろうか? 広大な雪景色には、意味に充満した無言の空白があるからこそ──色のない、あらゆる色といった無神論があるからこそ、われわれはそれにひるむのだろうか?」
岩波文庫「白鯨」八木敏雄訳 「第四二章 鯨の白さ」より

では一郎彦というキャラクターにあてがわれた「白」にはどんな意味が、白の持つどのようなイメージが与えられているのでしょう。
白さとは、本質的に色というよりは色の目に見える欠如」とメルヴィルは言います。自分という色を持っていない、あるいは白い仮面で覆って隠している「色の欠如」。色鮮やかな渋天街でただ1人、色を持たない白い彼は色彩で見ても、異質さを持っています。

そしてその「異質さ」ゆえに、そして「白」の持つ底知れなさ、捉えどころのなさゆえに、彼もまた白鯨モービィ・ディックと同じく、得体の知れない恐ろしさ、未知の危険性を感じさせます。
ここまで明確にモービィ・ディック(白鯨)と一郎彦のイメージを重ねてきているということは、やはり一郎彦=白鯨の役割に見えますが、「バケモノの子」作中だと、むしろ九太が一郎彦にとっての白鯨だと思えるので関係性が噛み合い切らず、悩みどころです。この記事の上の方でも既に書いた気がしますが…。

「白鯨」でメルヴィルは白を色の欠如だと書きましたが、同時に「あらゆる色の具象」「意味に充満した無言の空白」とも書いています。
一郎彦の白が、自分が何者なのかという疑念ゆえに自分の色を見出せていない色の欠如だとすれば、同時に、そこにはあらゆる色が隠れている、内包されていると取れます。何者でもない白い子供は、何色にもなれる。白い仮面を壊せば、本来の色が出てくることでしょう。
白という色のイメージ、温度について1つ前の記事でも触れましたが、強烈で時に鋭く攻撃的な色である白は、形を持たない、柔らかな温もりも持っています。底知れない白の仮面は、悪いだけのものではないかもしれません。

クジラ

初めてミュージカル「バケモノの子」を観た時に感じた白鯨への感想に戻ってきました。
大きくて、透明で、キラキラしていて、目が赤く光っている白鯨のパペット。
その大きさと美しさと、痛ましさに心を奪われたところから、白鯨に注目して「バケモノの子」との繋がりを考えてきました。

あんなに美しい、キラキラしたものが、ただ恐ろしいもの、悪いものの表現であるはずがない。それならば、あの白鯨とは。
そう考えて、メルヴィルの「白鯨」を読み、鯨の意味、「バケモノの子」と「白鯨」の共通点や舞台上の表現などを比べてきました。

そして、「白鯨」でエイハブにとってモービィ・ディックは理不尽な社会、権力、宗教といったものの権化の性質が強いのですが、「バケモノの子」では一郎彦にとって九太がモービィ・ディックであることはエイハブと重なるもののパペットの白鯨が示すのは理不尽な他者や社会ではなく、彼本人の心を守り敵を攻撃する仮面で鎧。
「真実」「本当の自分」を隠す壁であるという結論に達しました。

ただ攻撃に特化したおどろおどろしい化け物ではなく、美しい透明のクジラはガラス細工の心の姿のようであり、赤く光る目は泣きはらしたようで、その攻撃性が悲痛に際立ちます。
あの白鯨は完全な闇の力などではなく、一郎彦や九太の心が具現化した存在、傷つきながら本体を守ろうと敵を攻撃するものに見えます。

「白鯨」のモービィ・ディックは、巨大な白いマッコウクジラ。大きなこぶが2つあり、身体中にシワと歴戦の傷が刻まれ、過去に鯨捕りたちに打ち込まれた銛が厚い皮膚に突き刺さって埋もれたままという姿です。

「バケモノの子」の白鯨のパペットは、そのモービィ・ディックを表現したように繊維状の模様や電飾が縦横無尽にあしらわれ、キラキラと輝いて見えます。しかしこの模様やキラキラは白鯨の傷跡。

歌手の中島みゆきさんの「ファイト!」という曲に、川を登ってゆく魚の群れを見て
「光ってるのは傷ついて はがれかけた鱗が揺れるから」
と歌う部分がありますが、このパペットの白鯨のキラキラはまさにその体現のようです。

ボロボロの心を写す、傷だらけのガラスのクジラの仮面。自分の心と向き合って、もろい核心の、その一点を正確に突けば崩れてしまう、そんな存在だからこそ、「俺たちは同じ」と言える九太がその一点を突くことができた。あの白鯨との戦いは武器を持った戦闘であるけれど、あの最後の一突きにあるのは「共感」であったと思います。

胸の穴を覆って隠してくれる白い仮面。その大きな大きな生き物は、本来は深く広く包み込んでくれるような、心を守る存在であったと、あの美しい白鯨を観ていると思いたくなります。


2階の後方席とかから観ると、透明の白鯨越しに透かして2人の戦いが見えるのが最高に好きです。
(※開演前の撮影可の写真の上から描き込んだ、見え方のイメージです)



本当に考えていることをそのまま書き連ねただけの、まとまらない記事になってしまいましたが、ここまでお読みくださりありがとうございました。




ここでも、記事中何度も引用させていただいた岩波文庫の白鯨、購入URL貼っておきます。

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私はhontoアプリを使っているのでhontoの電子ですが、それに限らず電子はかなりおすすめです。理由は記事の最初の方に書いたのでそちらをご参照ください。

劇団四季さんのミュージカル「バケモノの子」の作品紹介ページもリンク載せておきます。
四季さんのチケットはチケットサイトではなく、劇団四季公式ページで購入できますのでご注意ください。






まだ分からないこと

※以下、もはや愚痴です。読まなくても良いやつです。

すごく根本的なことなのですが、まずそもそも、なぜ一郎彦は「白鯨」になるのか?そしてそのタイミングは何故あの時だったのか?という疑問があります。
これについては初めて観劇してからずーーーーーーっと考えているのですが、自分の中では答えを見つけられていません。
あのキラキラの白鯨に牙が生えているのは一郎彦が望んでも得られなかった「猪の立派な牙」であるそうです。あの白鯨は九太の目線、視界だからそう見えているのではないか?と初期の頃は考えていたのですが、牙のことを考えるとやはり一郎彦の内面が生み出したものであり、でもそれなら大猪ではいけなかったのか。

「白鯨」を読んだこともなく思い入れもない一郎彦が本を拾って表紙の絵を見ただけで何故?という疑問。
しかもその時に本を落としたのは楓。一郎彦が執着しているのは九太/蓮であり、一郎彦にとって楓は初対面の見知らぬ人間の女で、九太が連れていたというだけ。本当に何故???

また、タイミングについては蓮と楓が走って逃げる際に落としていった本を追いかける側の一郎彦が拾うというもの。追い詰められて切羽詰まって巨大な力が爆発する、といった展開ではなく、戦況は一郎彦に有利な状態で、白鯨の本が九太にとってどんなものかも一郎彦は知らない。その状態で本当にどうして???エイハブの呪いでも染み込んだ魔法の文庫本なんですか??

こんなに「バケモノの子」と「白鯨」のことを考えているのに、本編の大事なシーンが何故そうなるのか分からない…何故なのでしょうか…
色やキャラクターの性質など、部分的には白鯨と重なる要素が「バケモノの子」にはあるのですが、それがピースとして上手くハマるかと言うと、噛み合わない箇所もかなり作中で大事な部分にあったりして、筋が通らないな…と思ってしまう面もあるのが現状です。
何故今クジラ!?はもうオフステージイベントとかで質問しちゃいたいくらい謎です。しないけど。作品解釈を作り手に聞くなんてあまりにも野暮ですが本当に分からない…カンパニーではどういう解釈なのでしょう。

いつかそれっぽい結論を導き出せたら、ここに追記しようかな…

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