くちびるがしょっぱい② 羊たちの沈黙

ここ最近、ある映画を見ました。
作品名は、言いません(ごめんなさい)。でも、その作り手や関係者の方々にも、生活があり、家族があり、商売があり。
邪魔してしまいたくないので(そしてこれを読む人の解釈が偏ってほしくはないので)、言及はなるべく避けます。

ある少女がいます。ある男性と出会います。見惚れます。惹かれます。ふたりで旅に出ます。その少女はとある過去を経験していて、そしてある使命を感じ、ある行動に突き動かされます。男性が死んでしまって、少女はあることに気づき、そして行動に移る。男性は生き返り、少女は一つの真実に行き着く。そして映画は終わるのです。

何が何か、伏せて話しても、さっぱりでしょうが、とりあえず、物語の出来として、あまり良いとは思えない作品でした。
とにかく設定、人物描写、テーマ性、一貫性などなど、不完全な部分ばかりで、時系列や事実との関連性も、世界観も矛盾点ばかり。
でも少女は、男性に恋をします。でもその恋は、学校で、異性を遠巻きに見て、淡い気持ちを抱く程度の物。男性も少女に同様の、同程度の感情を抱いていることが、しっかりと描写され、そしてそれを「感情」として交わし合うわけです。

少女は、キスをする、命を守る、なんなら自身の命を投げ打って、つまり、誰かが死ななければならない「現実」を前にして、自身が死ぬことで、男性を救おうとする。
男性も、然り。ふたりは、「それ」を、「愛してる」と、言葉に表すのです。

あくまで、僕の感受性。ただし、作品を紐解くと、「遠巻きに見る」ことが、「愛してる」なのだと思います。それは、誰か?
作者でしょう。作者の「愛してる」という気持ちは、「遠巻きに異性を見る」ことの、それなのです。
そして作中に、男根が表れています。それが何かは明記しません。ただ、様々な解釈がある中で、僕はそれを男根だと思いました。
その男根は、誰の物?
関係者でしょう。その映画は、ショッキングなテーマを扱っていて、僕が「男根と解釈する物」は、だいぶ衝撃的な描写で、見る者に深い印象を与えるのです。つまりは、その映画を売りたい人たちの、欲の表れ、と言うのでしょうか。そしてなおさら、作中で「欲の表れ」は、なんとまさに「欲の表れ」そのものの形状で現れて、暴れ狂うのです。なんと人を簡単にも殺める力すら持っています。そして、ヒロインにその暴走を止めさせるのがメインストーリーです。少女は「欲の表れ」に直接、手で触れ、命に替えてでも「欲の表れ」を落ち着かせようとするのです。

日本の作品には、そんなヒロイン像という物がとても多いような気がします。気がする、というよりは、多いです。
これも、何が、何に、とは言いません。
しかし、女性が、「女性」となる(一部の偏った捉え方をあえて引用しております)前の姿。まさに「少女」である年齢の女性に、苦難を与え、それを乗り越えさせ、作中で「恋をさせ」、「孕ませ」、「産ませ」、それでもなおのこと、苦難を与えるのです。死別、離別、区別、差別。などなど。
とにかく女性は苦しみます。泣きます。そして強くなります。とにかくとにかく、みんな、明るく生き抜くのです。「少女」は「女性」になり、「母」になり、「祖母」になる。そして死にゆく。人生を全うする。そのような、ヒロイン像という作品が、本当に多い。
とにかく、元気で、活発で、そして期待に応えます。それは、人の全ての期待でしょう。それが、女性の変容としてしっかりと、反映されるのです。

その作品の少女も、同じく、日本のヒロイン像を踏襲した姿で描かれてました。そこには、期待が含まれているのです。なんの?
作者の。関係者の。日本人の。
女性は「こうであってほしい」という、期待でしょう。
「遠巻きに見て」「愛し」「欲の表れ」を「女性」「らしさ」で、「なんとかしてほしい」。

日本の性文化は、とても豊かです(日本に限るか否かに関してはあくまで肌感覚の話ですが、とにかく豊かで)。
映画で儲けた人たちは、その儲けたお金で飲みに行き、そしてその飲みの場で出会う女性と遊び、そして思う、「孕ませたい」という願望。
そういう、通ずるものがあるのではないか。
それへ性文化だけでなく、日本の文化すべてにおいて、通じていて、下地になっている。
そんな「孕ませたい」という男性の願望があるのではないか。

『羊たちの沈黙』という映画が好きです(好きでポジティブな物は言及させてください)。作中でとても魅力的なヒロインが描かれております。クラリス・スターリング。
クラリスとは、「明るい、清潔、輝かしい」
と言った語源があるようです(Google調べ)。
作中で、クラリスは多くの視線の中にいます。視線のほとんどは、男性による物。その中のクラリスはとても、輝かしく映るのです。
しかし、それは作中のクラリスが輝かしいのか、はたまた僕が輝かしく感じてしまっているのか。
果たして、両方の可能性があり得るでしょう。映画では、人と人が対面や対話をする際に、後頭部から撮られるシーンが多くありますが、『羊たちの沈黙』での多くの視点は明らかに、「視線」そのものです。
「視線」を通して、何かを表しているのなら、それは、見る者の頭の中に発生する、「輝き」でしょう。
ちなみにクラリスは、女性から見ても、「輝き」を放ってます。
そして、クラリスからの視線の中にいる男性は、とても生々しく、それは「欲の表れ」そのものなのです。

僕はクラリスがとても好きです。
素直に、女性としても人物としても、魅力的にも感じます。しかし同時に、悪役(と言い切るのは難しいですが、ヒロインの対峙する存在である)も「視線」の中にいて、不思議と魅力的に映されているのが、この映画の好きなところです。
クラリスを演じたジョディ・フォスターは、続編のオファーを断り、2014年に同性婚をしました。とても聡明で、そして美しい人です。続編は一度しか見たことがないのですが、ラブストーリーという印象が強かった覚えがあります。どうやら噂によると、『羊たちの沈黙』公開後に、続編の原作にあたる小説が出版されたとか。その中で、対峙する男性とクラリスは恋に落ちるそうです。多くの「視線」に晒される女性が、最後はその「視線」に呑み込まれてしまう。そんな結末を受け入れ難い。だから出演を断った、とか。事実は、わかりません。
『羊たちの沈黙』は、何度も見ております。そして最近も、寝れなくて冴えなくて、何も手につかないので、ついつい見てしまって、そしてなおさら寝れなくなりました。この作品は、ジャンルで言えば、ホラー映画になるそうです。怖いとわかっていても見てしまう、そんな魅力がある映画です。でもその魅力も、果たして。

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