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0362:小説『やくみん! お役所民族誌』[5]

第1話「香守茂乃は詐欺に遭い、香守みなもは卒論の題材を決める」(5)

<前回>

        *

 食事を終えた休息の時間。和水はラタンの椅子に腰を下ろしている。碧がかったガラスの湯飲みでジャスミンティーをすすり、ほう、と溜め息をつく。
 テーブルの向こう端にテレビのリモコンがあった。少し身体を伸ばせば届く位置だ。
 でも。
 和水はトイレから戻ってきた朗を見上げ、にやりと笑った。 
「オッケー父しゃん、テレビ点けて」
「えー、父しゃんはグーグル先生じゃないよ?」
 朗は笑って愛妻を見下ろす。
「オッケー父しゃん。あれ、反応しないな。じゃあ、ヘイ尻!」
 iOSに呼びかけるみたいにいいながら和水は夫のお尻を右手で撫でた。朗はお尻を左右に振りながら難しい顔をして腕組みをし「これは母しゃんの手が父しゃんのお尻を撫でているのか、それとも父しゃんのお尻が母しゃんの手を撫でているのか」と呟いた。
「禅問答?」
 思わずみなもがツッコミを入れると、朗は満足そうに笑った。それから振り返り
「母しゃん、自分で手が届くでしょ」
「とどかなーい。母しゃんちっちゃいから。だから音声認識リモコン使うよ。オッケー父しゃん、テレビ点けてー」
 朗は何かうまいこと言い返そうと2秒考え、何も思いつかず諦めてリモコンに手を伸ばし、テレビを点けた。チャンネルはすまテレ、ローカルニュースの合間のCMが流れていた。
「父しゃん便利ー」
「便利? やったあ、じゃあご褒美ご褒美」
 朗は背後から和水に抱きつき、首に鼻を押し当てて匂いを嗅ぎ始めた。そんな夫を、和水は後頭部をぐりぐりと押しつけて排除する。
「リモコンはご褒美なんか欲しがりません」
「えー、じゃあおっP」
 朗が言い終えるより速く
「おう、一丁揉んでやろう」
と和水は胸元に伸びてきた腕を払いのけ、逆に両手で朗の胸を揉みしだいた。ぎゃはははは、と朗は笑って身を捩った。
 みなもと歩は、そんな両親のじゃれ合いを眺めながら、堪え切れずに口元を緩ませていた。
「今日も我が家は平和だねえ」と、みなも。
「二人とも、普通にバブみ入ってるよね」と、歩。
 みなもが物心ついた頃には、もう両親はこんなだった気がする。幼いみなもが思いっきり父しゃん母しゃんに抱きついて温もりと匂いと幸せを感じたように、父しゃん母しゃんも互いにそうしていた。充が生まれ、あゆたんが生まれてからも、それは変わらなかった。ただ、同居していたおばあちゃんの前では、二人は居住まいを正していたように記憶している。この家に越してきた後も、おばあちゃんが遊びに来る時だけは、二人とも大人しい。
 どこの家でもお父さんお母さんはそういうものなのだ、と思っていた。でも、テレビドラマで出てくる夫婦の様子は、どうも我が家とは違う。小学校5年生の頃、何かの拍子に友人たちにその話をすると、「えー、みなちゃんち、おかしいよ。うちのお父さんとお母さんは、子供の前でくっついたりしないよ?」と驚かれた。翌日には「みなちゃんちのお父さんとお母さんは人前でイヤラシイことをしている」とニュアンスの異なる話がクラスに広まり、みなもはとても嫌な気持ちにさせられた。
 思春期の入口の時期。父しゃん母しゃんのせいで恥ずかしい思いをした、という意識が、しばらくの間、みなもを頑なにした。ただ、文句をいっても二人のいちゃこらがなくなるわけではなかったし、それに──二人は間違いなく幸せそうに見えた。
 他の家のお父さんお母さんと比べて、うちの父しゃん母しゃんは、変わっているのかも知れない。でも、家の中でいちゃついている分には、誰に迷惑をかけるわけでもないじゃないか。高校に入る頃にはそう思えるようになって、夫婦のコミュニケーションは放っておくことにした。ただ、当時中学生の充は、この春に家を離れる間際まで、ずっと嫌がっていた。末っ子のあゆたんは、自分が溺愛されているせいか、何も気にならない風だった。
「おっぱい揉むの!」
 49歳児の朗が駄々をこねると、 4歳下の和水は「はい、どうぞ!」といって、朗の両手を掴み朗自身の胸に押し当てた。
「ちがーう、母しゃんのおっぱい!」
「あなたのお母さんは八杉にいるじゃない」
 うっ、と朗は一瞬たじろいだ。
「……あっちは、お母さん。こっちは、母しゃん」
「そうだね」
「母親のおっぱいは大きくなれば卒業するけど、奥さんのおっP」
「うりゃあ!」
「ぎゃはははははっ」
 ネタがループしてる。

        *

 ニュース再開の冒頭、「澄舞県消費生活センター」の単語がみなもの意識を捉えた。振り向くと、県が通販業者に行政処分を行った旨のテロップが表示されていた。背景は灰色をしたガラス張りのビル。センターは県庁本庁舎ではなく、近隣のビルを間借りしていると秀一から聞いていた。
「ここだよ、にゃもが明日から行くところ」
 先ほど食卓で県庁インターンシップを話題にしたばかりだったが、具体的な所属までは伝えていなかった。
 みなもはテレビ正面のソファに移動した。ダイニングチェアと同じ地元家具工房のラタン製。この家を建てた時に購入したもので、年月を重ねた深緑のクッションはすっかりへたっていたけれど、テレビを見るには特等席だ。朗と和水はみなもを挟んで腰を下ろし、あぶれた歩はソファ前の畳に座った。
 カメラが「澄舞県消費生活センター」の看板が掲げられた入口からオフィスへ入っていく。
「父しゃん、たまにここ行くよ」
「え、なんで?」
「営業。県庁はお得意様だからね、印刷発注のある部署は定期的に回るんだ」
 朗は松映(まつばえ)市街に本社を置く黒帖(こくじょう)印刷の営業課長だ。家庭で仕事の話はしないので、みなもは父のサラリーマンとしての姿をほとんど知らない。
 画面に行政処分を担当した女性職員が登場し、会議テーブル越しにインタビューに応えていた。三十代半ばくらいだろうか、細く整った眉、綺麗な目、長い髪は耳元から軽くウェーブし、薄紺の明るいスーツの肩にかかっている。女優みたいに美形のお姉さんだな、とみなもは思った。テロップには「二階堂麻美主任」とある。
 彼女は、落ち着いた語り口で、今回の行政処分の対象となった違法行為を説明していた。
「8千円の健康食品を今なら8割引のお試し価格1600円で販売する、というネット広告でした。これを見た県民の方がお試しならと申し込んだところ、実は最低6回の定期購入契約になっていて、8割引は最初の1回だけ。つまり、総額4万1600円の支払を求められたんです」
 解説画面に変わり、アナウンサーがイラストを用いて手口の解説を始めた。安い価格を派手な文字で表示し、定期購入契約であることは画面をずっとスクロールした下の方に小さな文字で書かれている。気付かずに「承諾します」のチェックボックスを入れて申し込んだ消費者は、最初の荷物に同梱された書類で、初めて契約内容と総額を知る事になる。
 驚いた消費者が解約したいと電話をしても、回線が1本しか用意されておらず、なかなか繋がらない。やっと繋がったと思ったら、女性オペレーターから男性社員に代わり「身勝手な人だなあ、6回まで途中解約できないことは、承諾して注文した筈でしょう!? 期限内に支払がなければ裁判を起こすからね、東京の裁判所まで来てもらうよ」と威圧される。
 4万円あまりの価格設定は、絶妙だ。少なからぬ人が、これくらいなら払ってしまって面倒を避けたいと思い、泣き寝入りする。
 実際のところ、通信販売にはクーリング・オフ(消費者側からの無条件解約)の制度がなく、今回のように広告表示の違法性に対する行政処分はできても、契約した消費者が払わずに済むような民事救済はかなり難しい。弁護士費用を払ってまで戦う甲斐のある額でもない。
「でも、そこで諦めちゃダメ!」
 突然二階堂麻美の顔がアップで映し出された。会議テーブルから身を乗り出し、強い視線がカメラから画面のこちら側まで射通していた。
「法律の隙間を縫ってずるい商売をする連中はたくさんいる。間違いは、間違いだ。事業者の不公正は、苦情を言って改めさせなきゃいけない。今の法律で被害者を救えないなら、法律を変えればいい。皆さんの小さな声が集まれば、社会を改善する力、法律を変える大きな力になるんです。黙って泣き寝入りはやめよう。消費生活センターは消費者の味方、困った時は電話番号188、『だまされるのは「いやや」』まで!」
 一気に吠えると、彼女は大きく肩で息をついた。
 画面がスタジオに変わった。
「いやあ、熱いメッセージでしたね。みなさんに届きましたでしょうか」
と冷静な男性アナ。続いて女性アナが
「一番のトラブル予防として、契約はくれぐれも慎重に、とのことです」
とこれまた冷静に締めくくり、次の話題へと移っていった。
 香守家の4人が同時に溜め息を漏らした。
「なんか最後、凄かったね。役所の人じゃないみたい」と歩。
「一回印刷物の打ち合わせをしたことあるけど、あんな情熱タイプとは知らなかったなあ」と朗。
「でもひどい話だよねえ。総額を隠して部分的な値段を目立たせるなんて、誤解させる気満々じゃない。私も気をつけなきゃ」と和水。
「……」みなも、無言。
 あれ、という顔でみんながみなもを見つめた。
「……かっこいい」
 ?
「かあっこいいいいっ! なに今のお姉さん、正義の味方! 女優、まじ主演女優!! うわあ、明日会えるかなあ。なんか俄然楽しみになってきた!」
「あー、にゃもー、おちつけー」
 朗が引き気味にそういうと、みなもは反射的に「ぺったん、ぺったん」と餅搗きの動作をする。
「よし、餅搗いたな」
「もちついた」
 誰かがハイになった時にクールダウンするための、香守家の儀式だ。 
 ついさっきまで、明日からのインターンシップは期待と不安が半々だった。それは、行き先の仕事のイメージが掴めず、どんな人がいるのかも想像できなかったからだ。でも、今のニュースでその両方が一端でも窺えたような気がした。5分ほどの放送で流れたのは、消費生活センターの仕事のごく一部分なのだろう。それでも、普通に生活する中では知る事のできない「社会の裏」に迫る、とても魅力的な職場だと予感できた。
 よし。どんな経験ができるのか、存分に味わおうじゃないの。

        *

 その時、「八杉、おばあちゃんち。八杉、おばあちゃんち」と電話が鳴った。小学生時代の充が吹き込んだ、おばあちゃんちからの電話に固有の呼び出し音だ。
 部屋に戻りかけていた歩が、近くの受話器を取った。
「もしもし、おばあちゃん? ちがうよ、歩だよ。うん、うん。中学3年。そうだね、うん。ちょっと待って、スピーカーホンにするね。スピーカーホン。スピーカー! スピー……みんなで話ができるようにするから」
 歩は受話器のボタンを押してモードを変え、ソファ前のテーブル中央に置いた。
「もしもし?」
 おばあちゃん──朗の母・香守茂乃(しげの)の老いた声がリビングに響いた。
「はい、こんばんは」と朗が応えた。
 しばらく他愛ない近況交換が続く間、歩は小さな声でみなもに「おばあちゃん、俺の学年すぐ忘れるんだ。毎回小学6年生だと思ってたっていわれる」とぼやいた。「おばあちゃん80だから仕方ないよ。あゆたんはいつまでも子供のイメージなんだよ、きっと」とみなもは応えた。
「そーで、老人ホームの手配したのは朗かや」
「老人ホームて、何のこと」
「なんだい今日の郵便で来ちょったで。ちょっと待ちないよ、えーと……松映、シニア、レジデンス。松映に新しく老人ホームが出来ーけん、入居者募集ててパンフレットが」
「あだん、知らんでえ?」
 父しゃんはおばあちゃんと話す時は素の澄舞弁になる。母しゃんが他所の出身なので、香守家の中ではみんな標準語だ。大学も他県出身者が多いから、みなもが澄舞弁を聴く機会はほとんどない。
「そげかや。朗が私に送ってごいたかと思ったあもん、違あだな。じゃあ捨ててもえだね?」
「知らんけん、いいだないの」
「じゃあ、そげすーわ。私はもう長いこと独りで暮らいちょって、独りが気楽でいいだ。それを覚えちょいてよ。余計なことはせんでいいけんね」
「うん、前から聴いちょーけん。分かっちょーけん」
 朗の口調はどこか突っ慳貪だ。それから二言三言を交わして、朗は電話を切った。
「そういえば、しばらくお母さんに会ってないね」と和水がいう。「用事がなくても、たまにみんなで八杉に顔を出した方がいいんじゃない?」
「まあねえ、また考えるよ」
 朗は気が進まない風だ。
 茂乃は八杉で独り暮らしをしている。自宅で書道教室を主宰し、週に二回は生徒に教えているから、誰も知らないうちに独りで衰弱するような心配はあまりしていない。それでも年齢を考えれば、いつまでもこのままというわけには行かないだろう。
 その時、みなもの掌でスマホが震えた。発信者表示は──。
「あれ、おばあちゃんからだ」
 みなもは受信ボタンを押してスマホを耳に当てた。
「もしもし、おばあちゃん?」
「ああ、和水さんかい?」
「ちがうよ、みなもだよ」
「ああ、みなもちゃん」
「うん」
「久しぶりに声聞いたねえ、お母さんにそっくり」
「うん」
「今、何年生だっけ。待ってよ、いわんでよ。えーと、中学3年?」
「ちがうよ、それはあゆたん。みなもは大学3年生」
「あだん、もうそげに大っけになったかね。そーすーと、えーと、21歳?」
「そうだね」
「まだ子供のような気がしちょったわ」
「うん」
 さっきのあゆたんとおばあちゃんの会話は、こんなだったんだろうな。
「あ、そーで、お父さんに聴いてごしないね。今日ね、お父さんから老人ホームのパンフレットが届いてね」
 あれ? 
「おばあちゃん、それさっき、お父さんと話してたパンフレットのこと?」
「ん、お父さんと話してた?」
「そう、さっき」
「私が電話した?」
「そうだよ。松映シニアレジデンスだっけ」
「ああ、それのこと。あだん、思い出いた、さっきお父さんと話いたわ。歳取るとすぐ忘れえだ。パンフレットはお父さんのじゃないってことだったが」
「そうだね、捨てていいよって」
「あー、安心したわ。お父さんにいっちょいて。私はもう長いこと独りで暮らいちょって、独りが気楽でいいだ。余計なことはせんでいいけんねって」
「うん、分かったよ。伝える」
 それさっきもいってた、とは口にしなかった。
 電話を切って顔を上げると、みんながみなもを見つめていた。みなもの発言から、大体のことは分かったようだ。
「……老人ホームのパンフレット。お父さんにしてたのと同じ話」
「そっかあ」朗は頭を抱えた。「本格的に認知症の始まりかもしれないなあ。よし、週末に様子を見に行ってくるか」
「おばあちゃん、心配だね」と歩がいった。みなもは小さく頷いた。
 今の電話は不穏だった。けれども、しっかり者のおばあちゃんのことだ。きっと大したことはない。そう思いたかった。

【続く】

--------(以下noteの平常日記要素)

■本日の司法書士試験勉強ラーニングログ
【累積97h47m/合格目安3,000時間まであと2,903時間】
23時35分に上記原稿を書き上げ、日付が変わるまでにアップしなければならないので、二連続ノー勉強デー。まあ試験勉強と小説がトレードオフなら、一方に集中して片付けた方が効率良いと判断したので、悔いはない。

■本日摂取したオタク成分(オタキングログ)
『ウィザードバリスターズ』第10話、世界の全体像がある程度見えたかな。『俺のスカート、どこ行った?」第5~6話、第一話はすっ飛んでたけど、次第に表現にも慣れていささか飽きつつ、それでもまあ一定の学園物としての面白さで5話まで観た。これ、切ってもいいなあ、と思いながらたまたま食事時の空き時間に6話を観たら、今回すっげえ面白い。それにしても板尾釧路は悪役似合うなあ。

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