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0239:(GaWatch映像編001)『ファーザー The Father』

『ファーザー The Father』2020年/イギリス・フランス合作
監督 フロリアン・ゼレール
主演 アンソニー・ホプキンス、オリビア・コールマン

 今年のアカデミー賞主演男優賞・脚色賞を受賞した『ファーザー The Father』を観てきた。なぜ「脚色賞」なのかといえば、フランスの戯曲が原作だからだ。日本でも橋爪功・若村麻由美で上演されているようだ。

 本編97分間の素晴らしい映画体験。ブラボー。

 以下、所感を書き留める。前半はネタバレ控え目、後半は全開となる。「ネタバレ」と判断したのは、観ていて「あっ」と思わされた箇所だ。映画未見の方は前半だけ参照いただくことをお勧めする。

■■■ネタバレ控え目の所感

(1)事前のイメージ

 アンソニー・ホプキンスといえば、『羊たちの沈黙』のレクター博士を誰もが思い浮かべるだろう。『羊』が日本で上映されたのは私の大学時代、予告で既にハラハラして映画館で観たらのけぞった。

 しかし、それほど映画を観る方ではない私は、その後の彼の活躍を知らない。先ほどwikipediaで調べてみても、彼の出演作は大半観ていない。(ちなみに小学生のころに恐怖した映画「ウエストワールド」が近年テレビドラマ化されているのを初めて知った、観たいぞ)

 今回この映画を見に行こうと思ったのは、ネットで予告を観たからだ。ホプキンスがアカデミー主演男優賞を撮ったこと、認知症高齢者の視点から見た世界で現実と幻想が交錯するということ。このふたつの情報だけで、面白くない筈がない、と思ったのだ。その直感は間違っていなかった。

(2)あらすじ

 ロンドンで独り暮らしを送る82歳のアンソニーのところに、娘アンが訪ねてくる。アンソニーが介護人と喧嘩をして追い出してしまったからだ。彼の様子は明らかにおかしく、記憶の混乱、物盗られ妄想、瞬間的な激高など、認知症の典型的な症状を窺わせた。アンは近々ロンドンを引き払い、パリで恋人と暮らす予定だ。だからアンソニーの面倒を見てくれる介護人を探すことが急務となっている。
 アンが家を立ち去った後、アンソニーは部屋の中に見知らぬ男がいるのを見つける。彼はアンの夫ポールと名乗り、ここは彼とアンの家で、パリに行く予定などないという。混乱するアンソニーの様子に、ポールはアンに電話を入れる。買い物をして帰ってきたアンは、アンソニーの見知らぬ人だった。
 ループするエピソード。知っている筈の人が見知らぬ人とすり替わる。無くなる時計。住処を奪われる恐怖。姿を現さないアンの妹ルーシー。そして、虐待。
 アンソニーの落ち着く先は──。

(3)認知症の世界

 私の母は今年90歳、今は高齢者施設で暮らしている。幸い体は健康で、会話やコミュニケーションもほとんど支障なく、施設の中で何人も友人がいるようだ。

 だが、短期記憶が決定的に弱っている。数秒前の事も忘れる。忘れたことは想像力が補う。あったことがなかったことになり、なかったことがあったことになる。要介護度2の認知症だ。

 母の認知症の症状は70代の頃から見受けられた。独り暮らしをする中で、特に被害妄想・物盗られ妄想が強く、家の出入りを隣人が見張っているとか、さっきまであった筈の物がなくなるのは家の中に誰かが忍び込んでいるからだとか、通報で家に来た警察官の制服が見慣れないもので偽警官に違いないとか、いろいろなことがあった。周囲の人も心配していたが、80代前半で事故入院をきっかけに本人が「もう独り暮らしはできないから施設を探してくれ」といってきた。「自分は絶対に家から動かない」と言う認知症高齢者も少なくないと聞くので、家族としては有り難いことだった。

 幸い私の自宅のすぐ近くの施設に入ることができ、毎日私か妻が顔を見に行ける状況となった。入所後もいろいろな事はあったが、一緒に暮らしているわけではない分、家族の側も心理的な余裕をもって受けとめられている。コロナ騒動以来面会は制限されて、緊急事態宣言の出ている間は家族も面会できず、週に幾度か電話でおだやかに会話をしている。

 最初は母の認知症を受け入れられず、大声を出してしまうことがあった。子供の頃から育ててくれた親は、社会性と判断力があり頼りになった。だからこそ、そうしたものが失われた言動が「情けない」という感情を生み、我慢できなかったのだ。

 人は、老いる。脚が弱って走れなくなるように、重たい物を持ち上げることが出来なくなるように、記憶が、判断が、意思表示が、感情の制御が、衰える。そうした機能を支える脳もまた肉体であり、老いるからだ。それは生命の自然な現象で致し方のないこと──そのように飲み込めてから、母の認知症を受けとめることができるようになった。

 こうした自分自身の経験を背景に、私はこの映画を観た。アンソニーの混乱と不安、娘アンのやるせなさ、娘婿ポールの苛立ち、どれもが自分の経験と重なった。

(4)最小限の場面と登場人物

 本作はほぼ全てのシーンがアンソニーの家の中だ(実際には様々なレイヤーが切り替わる)。人物のいない、部屋の様子だけのカットが幾度も印象的に重ねられる。これが、アンソニーにとっての世界の内側の風景だ。

 一度だけ病院から帰るシーンで車の窓から外を見ていたシーンが、彼が外にいる表現だったように思う(それでも「車の中」である点で徹底している)。

 登場人物も限られている。メインはアンソニー、アン、ポールの三人。これに介護人のローラ、ニセモノのポールとローラの、あわせて六人になる。あとはちらりほらり場面に出てくるだけだ。

 元が舞台というだけあって、このように場面と登場人物は限定されている。しかし、アンソニーの認知症の世界で観るそれは、万華鏡のように様相を変えていく。


(5)閉鎖世界と「窓」

 認知症という閉鎖世界の中で、アンソニーが覗き見る「外」の表現がいくつかある。

 ひとつは「窓」だ。冒頭から幾度もアンソニーは窓の外を見下ろす。ビニール袋でサッカーに興じる少年など、折々に違う人物が観察される。それは、過去のアンソニーを振り返っているようでもあり、認知症世界に引きこもって外へ出て行かない彼の状況の反映のようでもある。

 もうひとつ、演出上の特徴として、ドアから室内を映す画角が多用される。部屋の中での登場人物の行動が、ドアの四角い枠の中しか窺えないのだ。枠の外で何が行われているのか、映画を観る者には視認できない。演技は続いている。その落ち着かなさは、アンソニーの世界認知のそれに重なる。

(6)音

 私は映像作品はもっぱらテレビで観る。映画館に足を運ぶことは年に数回しかない。だが、本作は映画館で観て良かったと思っている。

 その理由のひとつが音だ。静かな場面から突然大きな音(例えば水道から流れる水)で転換する瞬間が幾度かあった。それは息を呑んで観入っている観客の印象のモードを切り替える効果を持つ。そしてそれは、アンソニーの認知の急変と、何かしら繋がっている。


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 さあ、この後、ネタバレ含みの所感に入るので、ご留意を。


■■■ネタバレ全開の所感

(7)二人の娘婿、二人の介護人

 認知症の症状のひとつに見当識障害がある。自分が今どこにいるのか分からなくなったり、よく見知った筈の人がまったく別人に思えたりする症状だ。本作の幻想表現の肝はここにある。

 特に「人が変わる」点。アン、ポール、ローラの三人が別人になる。アンは序盤の一度だけ、後は変わらないのは肉親だからだろう。ポールとローラは幾度か劇的に変わる。

 観客には、どの人物が本当のポールとローラかは察せられるようになっている(その役での行動が長いから)。しかし、時折混じり込む「別人」が一体だれなのかは不明で、単なる表現なのだとスルーしながら話を追い続けることになる。そして最後の場面で、その正体が分かる。ああ、そうだったのか、と観客は全てを納得する。上手いなあ。

(8)リピートする経験と介護虐待

 ダイニングでポールがアンに、アンソニーを施設に入れるべきだと説得する場面。アンソニーはそれを耳にしながら理解できない様子でダイニングに入り、席に着く。そこでの三人の不穏な会話。いたたまれずチキンを取りに部屋を出るアンソニー、残された二人の会話はいつのまにか最初の場面にループし、再び入ってくるアンソニー。

 本作で一番「あっ」と思わされたシーンだ。認知症の記憶の混乱を、こうも鮮やかな表現で観客に追体験させるとは。素晴らしい。

 こうしたリピートは後でもう一度登場する。ポールがアンソニーに迫る。一体いつまで我々をイラつかせるのか、と。責められるアンソニーの不安。時間をおいて、今度は「別人」ポールがまったく同じ場面を繰り返す。堰き止められた感情が僅かに決壊するように、アンソニーの頬を平手で軽く叩くポール。二度。三度。怯え震えるアンソニー。その場に飛び込んでくるアンが彼をかばう。

 そのシーンの前に、アンがアンソニーの首を絞めるシーンがある。それが現実なのか妄想なのかは、観客には分からない。このシーンが後に直接的影響を何も及ぼしていないように見えるからだ。しかし、観客には別の効果を与えている。認知症高齢者に振り回される家族の苛立ちを、アンは深い所で抱えている。同時に娘として父(リトル・ダディ)に深い愛情を抱いてもいる。このシーンは現実ではなかったかもしれない、しかし心理的に「あり得る場面」ではあった筈だ。だからこそ、夫ポールがアンソニーへの苛立ちを押さえられず手を出してしまった時、アンは彼の罪を自分自身の罪とも捉え、リトル・ダディを抱きしめる。

 この経験が、家族による介護が限界に来ていることを、アンに思い知らせたのだろう。話は終幕へと進む。

(9)ラストシーン

 ここまで息を呑みながら観入り、一体どうすればこの物語に映画作品のラストとして着地させることができるだろう、と思っていた。やがて訪れたそれは、違和感も唐突感もない、実に見事な幕引きだった。

 映画のラストシーンはアンソニーの部屋が主舞台となる。見慣れた部屋、しかしそこはアンソニーの家でも、アンとポールの家でもなく、高齢者施設だった。アンはいつ帰ってくるのか、と尋ねるアンソニーに、介護人は「パリにいますよ」と絵葉書を見せる。自分が1人ロンドンの病院に残されたと気付くアンソニーの、急速に膨らむ不安。怯え震えながら、アンソニーは介護人に訴える。「枝の葉が全部落ちていくようだ、風や雨のせいだ」(ちょっと不確か)ここまで物盗られ妄想の小道具だった腕時計、それだけが彼を現実に繋ぐ確かなものだったのだと、だからこそそれを失う恐怖を抱えていたのだと、分かる。幼児のように泣いて母を求めるアンソニー。彼は人生を終えるその日まで、施設の中で職員に見守られて過ごすのだ。

(10)最後に

 傑作映画といっていい。アンソニー・ホプキンスの演技は、長回しのフィルムの中で見事に認知症の不安、恐怖、混乱、怒りといった多様な感情を示した。素晴らしい。

■本日摂取したオタク成分
『WORKING!!』第5~7話、6話くらいまでで実は少し飽きてきた。だが7話でヤマダさんが出てきて、別の刺激が生まれたよ。『ゾンビランドサガ リベンジ』第7話、冒頭またゾンビが増えるのかと笑ったけど、そうならずにしかし面白い話を紡いだね。『ましろのおと』第5話、安定。『聖女の魔力は万能です』第7話、完全にBGVで話が分からない。『オッドタクシー』第5話、剣呑剣呑。

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