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第1話[14]~[17]まとめ/小説「やくみん! お役所民族誌」

第1話「香守茂乃は詐欺に遭い、香守みなもは卒論の題材を決める」

【前回】

[14] 刈り込み開始

        *

 支社長室のドアを開けて、ブッさんと押井が出てきた。
「コマ、ちょっと用事が出来たから、出掛けてくる。刈り込みは俺抜きで始めといて。サポートは誰がやんの?」
「あ、俺と松ちゃんが分担します」
と茶髪の社員が手を挙げた。
「よし、コマに点数稼がせてやってくれ」
 言いながらブッさんはコマの肩に手を置き、顔を寄せる。
「いいか、獲物を逃さないための駆け引きな。これ大事」
 ブッさんの言葉に、コマは小さく「うぃす」と頷いた。
 コマは入社一月にも満たない新人だが、ブッさんは目を掛けている。コマは詐欺への抵抗が最初からほとんどなく、むしろやってみたいと以前から思っていたそうだ。それがブッさんには頼もしく映った。
 こういう奴でなければ、生き残れない。
 誰もが詐欺は犯罪だと知っている。この世界に入る経緯は人それぞれだが、最初は罪悪感を抱きながら恐る恐る手を染めるのが普通だ。しかし、やっているうちに慣れる。心が、だ。弱者に対する罪悪感などというものが幻想だったと気づいて、新しい自分に生まれ変わる。
 コマにはこのような過程が必要なかった。最初から振り切ることができた。
 だから、コマを「候補者」として哲さんに引き合わせようとした。推薦書はしっかり書いたつもりだったが、哲さんは興味を示さず面接に至らなかった。それでも、コマを自分の部下として育てたいという意見は受け入れてくれた。コマが社内で実績を上げれば、哲さんも認めてくれるだろう。コマを見出し育てた俺のことも。
「後はよろしくな。帰り時間は未定、そんなに長くないと思う」
 社員が口々に「お疲れ様です」と声を掛ける中、ブッさんと押井はオフィスから出て行った。
 コマは、うーんと大きく伸びをした後、ふと思いついたように立ち上がり、窓のブラインドから外を覗く。
「じゃあ、目合わせするぞ」
 そう言ったのは先ほどの茶髪の社員、モンだ。入社3年目、グッドネス物産の中ではブッさんと蘭に次ぐ先輩格に当たる。コマは慌てて机上の書類を手に取り、再び窓辺に戻った。
「シナリオBな。松ちゃんは福祉財政監視委員会の主任役。それだけでうまくコマに繋いで刈り取れそうなら俺はディレクターに徹するし、弁護士役とか第三役が必要なら俺が受け持つよ。──コマ、聞いてる?」
 ブラインドを指で開いていたコマは、振り返らずに「聞いてまっするー」と応えた。先輩を先輩とも思わぬこの態度がコマという人間だ。荒い気性の先輩ならとうに殴りつけているだろうが、モンはそういうタイプではない。
 深網社は詐欺グループではあるが、暴力で統率する半グレ組織とは異質な空気があった。それは哲さんの指向によるものだ。もっとも社員たちは、ブッさんの上役の存在は察していても哲さんの名前や考えを知る者はほぼいない。
「何やってんの」とモン。
「いや、たまにはブッさんを観察してやろうと思って。でも、遅いな。なかなか出て来ない」
 コマは周囲の道路に目を走らせる。マンションの正面玄関なら真下、エントランスが建物から前に突き出しているので道路は死角にはならない。裏口から出たとしても結局は視線の届く道路を通る必要がある。もともと摘発に備えて選択した部屋だ。
「トイレでも寄ってんでしょ。さ、集中。最後はお前が話を詰めるんだからな、よくシナリオ頭に入れとけ。軽くシミュレーションしてから、本番だ」
「……しょうがない、ブッさん観察はまたにしますかね」とボヤいて、コマは自席に戻り、事務椅子を軋ませた。

        *

 仮にそのまま窓の下を観察していても、コマはブッさんたちを見つけることはできなかったろう。なぜなら二人はマンションを出ていないからだ。
 ブッさんは押井を連れて、エレベーターで3階から1階に降りた。ドアが開く。外を一瞥して誰もいないことを確認すると、ブッさんはそのまま閉ボタンを押した。押井は少し戸惑いながら、後ろからブッさんの挙動を眺めていた。
 内ポケットからパスケースを取り出し、センサーに当てる。7階の表示が点(とも)り、エレベーターがするすると上昇を始めた。
「これから、人に会う。面接では訊かれたことだけ答えろ。余計なことは言わなくていい」
「あ……はい」
 このマンションは8階建てだ。4階まではオフィスフロアでエレベーターも自由に止まる。5階以上は居住フロアで、カードキーがなければ上がることができない。居住フロアへ向けて移動している間は、途中のオフィスフロアで誰かがボタンを押しても素通りするように設定されていた。それだけ居住フロアのセキュリティが強固ということだ。
 一度一階まで降りたのは「支社長ルール」による。これから行く7階の一室、深網社幹部間で「倉庫」と呼ばれる部屋のことを、ブッさん以外のグッドネス物産社員は知らない。オフィスのある3階から直接7階に移動すると、仮に誰かが3階ホールの表示を見ていたら行き先を怪しまれる。それを避けるための手順だ。実際にどれだけ意味があるのかは怪しいものだが、候補者来訪時の路上観察と同じで、ブッさんは先任者からの引継事項として遵守していた。
 7階に到着し、二人はエレベーターを降りた。オフィスフロアの固い床とは異なり、毛足の短いカーペットタイルが敷き詰められたホールは、ガラスドアで隔離されている。再びカードキーを脇のセンサーにタッチすると、ドアが開いた。その先が居住フロアだ。
 ブッさんは廊下を左手に進み、突き当たりの部屋のドアロックを同じカードキーで解除した。ドアを手前に開き、中に入る。押井も続いた。扉が閉まると、オートロックが掛かった。
 玄関正面は目隠しの壁になっていて、その前に一人の男が立っていた。大柄、短髪。濃紺のスーツを通して強靭な骨格と筋肉が見えるようだ。哲さんのボディガードでマサトシという。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
 ブッさんはマサトシと互いに目礼し、そのまま壁を回り込んで奥に進む。廊下とは異なる明るいベージュのカーペットタイルが続いていて、土足のまま入るホテルのような仕様だ。
 奥の部屋に一歩入ったところで立ち止まり、ブッさんは深く頭を下げた。
「おはようございます」
「うん、おはよ」
 乾いた男の声が帰ってきた。それが許しの合図であるかのようにブッさんが再び歩き出し、続いて足を踏み入れた押井は、部屋を満たしているまばゆい光に目を細めた。
 20畳ほどの真四角な洋室。角部屋なので窓が二方向にあり、一方のカーテンは開け放たれ、もう一方も白のレースカーテンが外光を通していた。窓の側に応接テーブルがひとつと、四方に茶色の革張りのソファ。グッドネス物産のそれよりも金額が一桁上のクラスだ。その他に家具は見当たらない。普段は人のいない、階下へのガサ入れを察知した時に金や物品を緊急退避させるための「倉庫」だからだ。
 窓の光を背にして、一人の男がソファにゆったりと座っている。押井の姿を見ると、手にした本をテーブルに置いて、立ち上がった。それほど背は高くない。縦ストライプのダークグレースーツが細身の体によく似合っている。前髪をラフに固めた短髪は、切長の目と相まって精悍な印象だ。
「やあ、いらっしゃい。会いたかったよ」
 そういって男はテーブル越しに右手を差し出した。押井は少しの間、ぼうっ、とその手を眺めていた。ブッさんに「おい」と小声で促され、慌てて数歩前に出て男の手を握る。
 冷たさを予想していた。それに反して、男の手は暖かかった。
 本名、上埜勝(うえの・すぐる)──深網社グループを束ねる通称「哲さん」。今後この男が、内心の地獄を彷徨っていた押井に、ひとつの道を示すことになる。モラルを逸した犯罪の世界ではあったが、哲さんの言葉は確かに自分を自死の淵から救ってくれたのだ──一年足らず後、検事の取り調べに対して、押井はそう述懐した。

        *

 香守茂乃(かがみ・しげの)は、二つ折りにした座布団を枕にしてタオルケットを腹にかけ、居間の畳に横たわって浅い夢を見ていた。50年近く昔、新築のこの家で夫と幼い一人息子の三人で過ごした休日。その幸福な微睡(まどろみ)を覚ましたのは電話の呼び出し音だ。
「……はいはい、今行きますよ、っと」
 茂乃はむくりと起き上がり、狭い廊下を通って玄関へ向かう。優に10回以上のコールの後、ようやく受話器を取った。
「はい、香守でございます」
「こちらはフクシザイセイカンシイインカイのオオマエダと申します」
 野太い男の声。ゆっくりと、ひとつひとつ丁寧に発音している。しかし寝惚けた頭には、その音から「福祉財政監視委員会」の意を汲み取ることができていない。どこかのなんとかさん、という程度の認識で「はあ」と曖昧に応えた。 
「香守茂乃さんはいらっしゃいますか」
「私です」
「松映シニアレジデンスの加入権のことで確認したいことがあってお電話しました。タカハシ・サダコさんに加入権を譲られたとお聞きしたのですが、本当ですか?」
 その言葉に、茂乃の体が反応した。肺が広がって酸素を取り込み、血管が収縮して脳が覚醒する。それは喜びの情動反応だ。
「はい、そげですよ」
 震災で家族も住居も奪われた、私と同い年の高橋さん。彼女の傷を癒やすであろう自分の親切が、無意識の誇らしさを抱かせる。
「間違いありませんか?」
「はい、確かに私が高橋さんにあげましたわ」
「入居権番号を教えましたか?」
「ああ、なんだい番号を伝えましたがねえ。だあもん高橋さんに直接じゃあーませんで。五百島県庁、だないわ、五百島市役所の氏にねえ」
「ちょっと番号を確認させていただきたいのですが、よろしいですか?」
「確認? 番号覚えちょらしませんが」
「お手元に松映シニアレジデンスの書類があれば、それに書いてあるんですが」
「はあ、ちょっと待ってごしないね」
 受話器を横に置こうとした茂乃の耳に「ピンク色の紙です!」と叫ぶようにいう男の声が届いた。はいはい。ピンクね。
 青い封筒は電話の横に置いてあった。午前中の電話で、五百島シリツ福祉不動産仲介センターのホシノを名乗る青年が「問い合わせの可能性があるから電話の側に置いておいてください」と言っていたからだ。その事実自体は、茂乃はもう覚えていない。しかしこの封筒に関係書類が入っていることは憶えていた。
「はい、ピンクの紙。どこに書いてあーかいね」
「右下にあります。今から数字を読み上げますので、合っているかどうか確認してください」
「はいはい、待っちょってよ……あーましたわ。どうぞ」
「3、8、3、4、9、6」
「3、8、3、4、9、6。そげです、間違いあーません」
「そうですか」
 電話の向こうから、大きな溜め息が聞こえた。
「あなたは、なんということをしてくれたんですか!」
 そのひとつのフレーズの中で、声量が大きく変化し、最後は怒鳴るようだった。突然のことに茂乃は息を呑む。
「……はあ?」
「あのねえ、香守さん。この加入権はあなたに与えられたものです。他の人に譲ることなんて出来ないんですよ。加入権番号を他人に教えることは違法! あなたはこのままだと、刑務所に行くことになりますよ」
 すっ、と血の気が引いた。鼓動が早くなる。しかし呼吸は浅く、脳への酸素供給は冷静な判断をするのに足りていない。不安の情動だ。
「あだん、なんかの間違いじゃあーませんか? 五百島市役所の人に頼まれて教えただけだに」
「それは関係ありません。番号は香守さんしか知らない筈のものなんですよ。それを他人に漏らした時点で、有罪です。ともかく、状況は分かりました。この後うちから警察に届出をしますので、数日のうちに警官がそちらに行くと思います。その時は素直に応じてくださいね」
 がちゃり、と乱暴な音を立てて電話が切れた。
 なんだ。この状況は、なんだ。
 茂乃はその場にへたり込んだ。高橋さんへの親切のつもりでやったことが、とんでもない仇となった。どうすればいい? 考えがまとまらない。脳がぐるぐると焦燥感に満たされるばかりで、実のあることが思い浮かばない。
 電話が鳴った。またさっきの男かと思うと、咄嗟には手が伸びない。それでも無視して事態が良くなるわけではない。茂乃は受話器を取った。
「あ、香守茂乃さんですか?」
 先ほどの男とは違う、気弱な青年の声。「はい」と言葉少なに応える。
「あの、午前中にお電話した五百島シリツ福祉不動産仲介センターのホシノ でございます」
「ああっ」
 茂乃の両目から涙が噴き出すように零れた。血管は拡張し、浅い呼吸を何度も繰り返して、酸素が脳に供給される。しかし、リラックスした状態とは対極の焦燥状態だ。
「ちょうど良かった! あのね、今ね、なんかよく分からん電話があって」
「フクシザイセイカンシイインカイのオオマエダさんですよね、実はうちにも電話があったんですよ。今回は、大変申し訳ないことをしました! うちの手違いで、事前に話を通しておく筈が通っていませんでした。香守さんは何も悪くありませんから、そこは安心してください」
 ホシノの言葉を聞いて、茂乃はほっとした。
 緊張と緩和。
 追い込んだ先に、逃げ道を作る。そうすれば自然と相手はそちらに向かう。
「そげかね、じゃあ警察に捕まるやなことはないね」
「ええ、大丈夫です。ただ、ひとつだけお願いしなければならないことが。実は、既に裁判所の手続が進められていて、香守さんには一時的に預託金を納めていただく必要があるんです」
「はあ?」
「すみません、これは裁判所の方でどうしても必要になることなんです。一時的にお金を預けていただけば、警察が動かずに済ませることができるんです。後でお金は全額お返しできますので」
「なんぼ必要かいね」
「フクシザイセイカンシイインカイに確認したのは、97万円です」
「あだん、そぎゃん大金……」
 日常生活で見ることのない金額だ。しかし、口座にはある。
「お預けいただけない場合、警察が来て逮捕されますよ」
「だあもん、こおはそちらの不手際だがね! 五百島市役所が立て替えてごさんといけんがね!!」
 茂乃は半泣きに叫んだ。
「できることなら、そうしたいですよ!」
 茂乃の感情にかぶせるように、ホシノが叫ぶ。
「今回の事は間違いなくウチの責任です。だから、それで済むのであれば、いくらでもお金を出します。でもね、裁判所は、うちからお金を出しても認めてくれないんですよ。入居権者の香守茂乃さん、あなたから振り込む必要があるんです。本っ当にごめんなさい! この埋め合わせは五百島市役所が保証します」この時初めてホシノが市役所を名乗った。「ほんの数日でいいんです、裁判所が認定してくれれば、すぐに利子を付けてお返しできますから!」
 人間は、思うほど理性的な存在ではない。優位に立って相手の情動をコントロールした者が勝つ。
 そのような駆け引きの上に、特殊詐欺は成立していた。

[15] 政策論議

        *

 三日間の澄舞県消費生活センターインターンシップのゴールは、みなもと小室の二人で県民向けの広報素材をひとつ、仕上げることにある。そのために必要な「テーマ」「モチーフ」「媒体」を検討することが、初日午後の課題だ。
「まずはテーマね。午前中の話を思い出して」
 二階堂麻美主任が「正解」のない課題にヒントを与える。
「消費者行政の根っこは『消費者の自立の支援』、広報啓発もそのためのものね。緊急性・重要度の順番でいえば、悪質商法や消費者事故の被害防止が筆頭に来る。次に契約社会でのルールなど消費者の利害に関係する知識。繊維製品の特性とか電気製品の安全な使い方のように、暮らしの中で知っておいた方がいい知識。あと、エシカル消費やSDGsといった、近年政府が普及に努めているテーマもある。消費生活相談員試験の要項を見てもらうと分かるけど、本当に対象範囲が幅広いです。どのテーマを選んでも構いません。午前中に聞いたこと、所内にある本やパンフレット、インターネットなど、いろいろ調べてみて。その中から、自分が一番興味を惹かれるもの、面白いと思ったものを選んでください。だってその方が」
 二階堂は二人に微笑んだ。
「誰かにそのテーマの面白さ、大切さを伝えたいって、気持ちが前のめりになるでしょう? そういう気持ちが、広報啓発担当者には一番大事だから」
 論文は、自分が見つけたわくわくを、誰かに伝えること──昨日のゼミでの石川准教授の言葉を、みなもは思い出した。
 二階堂は二人を協議テーブルに残して自席に戻っていった。インターンシップ期間中も職員には平常業務があるから、付きっきりというわけにはいかない。課題を示し、材料を用意して、ここからしばらくは小室とみなもの二人で検討する時間だ。
 机の上には本や雑誌、パンフレットがいくつか用意されている。この他に、所内の来客用書架を自由に見ていいと言われていた。それからノートパソコンが一台。職員でない二人が使用する端末はセキュリティ上の問題から庁内LANには接続できないが、モバイルルータでネットに接続されている。
「試験範囲、これだね」
 消費生活アドバイザー試験要項を手にした小室が、みなもに見えるようにページを開いてテーブルに置いた。二列の表形式で、左欄に「範囲」として次の項目が列挙され、右には更に詳細な項目が並んでいた。

  1. 消費者問題

  2. 消費者のための行政・法律知識
    (1) 行政知識
    (2) 法律知識

  3. 消費者のための経済知識
    (1) 経済一般と経済統計の知識
    (2) 企業経営一般知識
    (3) 金融の知識
    (4) 生活経済
    (5) 地球環境問題・エネルギー需給

  4. 生活基礎知識
    (1) 医療と健康
    (2) 社会保険と福祉
    (3) 衣服と生活
    (4) 食生活と健康
    (5) 快適な住生活
    (6) 商品・サービスの品質と安全性
    (7) 広告と表示

「うーん、ジャンルは社会科と家庭科、かな」とみなも。もちろん国家資格である以上、高度な知識が幅広に問われるのは見てとれた。
「そうだね。試験対策テキストの厚みががこんなにある」
 小室が白表紙のテキスト三分冊をまとめて指で測る。メインテキストだけで7cmくらい、問題集などを含めると10cmを優に超える。過去問を眺めながら
「この資格取ったら、就職に有利かな……」
なんて前向きなことを呟くので、みなもが茶々を入れようとしたその時、バッグの中でスマホが鳴動する気配があった。
 バッグに手を入れ、スマホを手に取る。画面には「おばあちゃん携帯」の発信者表示。茂乃からだ。
 1秒迷って、そのままバッグにスマホを戻した。
「……出なくていいの?」
「今はまずいでしょ。お昼にも電話のあったおばあちゃん。後でかけるよ」
 その後、時間を置いて更に3回鳴動があったが、みなもはスマホを手に取らなかった。
 二人それぞれに資料を見ながら、関心のあるテーマの候補を三つずつ出し合った。小室が挙げたのは「未成年者取消権」「詐欺被害防止」「消費生活センターの役割」、みなもは「エシカル消費」「健康食品」「悪質商法」だ。詐欺・悪質商法の被害防止が一致していた。
「じゃあ、特殊詐欺・悪質商法の啓発にする?」
 小室の問いにみなもは応えた。
「『世の中こんなに悪い奴がいるのか』『まさかこんな手口で騙すのか』という感じで、すごく面白いよね。ただ、ここにある過去の啓発パンフレットは、圧倒的に悪質商法関係が多いでしょう。なんか、それもつまらないなと思っちゃわない? その点、私的には、エシカル消費が捨て難い気もしてる」
 エシカル消費とは、「ethical=倫理的な」消費行動のこと。自分の行動が社会や世界に影響を与えていることを自覚し、自分の損得だけではなく広い視野で何を買うか選んだり、暮らしを見直したりすることをいう。例えば、生産労働者に正当な賃金を支払っている会社の製品を割高でも購入する、すぐに消費するのなら店頭で手前に並んでいる賞味期限の近いものから購入する、といったものだ。

「なんかさ、買い物って個人的なものだと思ってたけど、実は個人の行動が積み重なって社会の仕組みを誘導してるって視点が、面白いんだよね。逆に、世界を良いものにするために、個人の行動の方を変えていく。啓発のし甲斐があるなあ」
 みなもの言葉に、小室は数秒、沈黙して何かを考えていた。それから徐に「いいよ、じゃあそれにしようか」と口にした。
「え、いやいやいや、何か引っ掛かるところがあるなら、ちゃんと言ってよ? 小室くんが興味ない分野に決めるつもりはないから」
 自分が面白いと思うことを他の人に伝えたい気持ち、それが広報啓発担当者に一番大事なことだと、二階堂さんはいった。だったら、私だけが面白がってテーマを決めちゃいけない。
「興味がないわけじゃ、ないんだ。エシカル消費の目的そのものは大事なことだと思ってる。ただ──例えばさ」
 小室はエシカル消費のパンフレットを開いてみなもに示した。
「安いからといってファストファッションばかり買っていると、貧しい国の労働者の劣悪な労働環境は改善しない、だからファストファッションではなく、生産労働者に適正な賃金が払われているフェアトレード製品を買いましょう──という啓発が、どのくらいの人に響くのか、わかんないんだよ。誰だって安くて良いものが欲しい、ファストファッションに多くの人が向かうのは自然な消費行動だろ。それに対して『割高なものを買え』と言わんばかりの意識高い系の広報が、本当に効果があるのか。少しでも新鮮な牛乳を買いたいと無意識に思う人は、店頭に並んでる製品の奥から新しい牛乳を取って買う。それを倫理的じゃないと暗に否定するような広報が、どれだけ消費者の耳に届くのか。そういう疑問があるから」
 小室の口調は強かった。ゼミで議論を戦わせる時のそれだ。みなもは少しカチンときた。だから、口を滑らせてしまった。
「小室君から意識高い系批判が出るとは思わなかったなあ」
「──なんで?」
「小室君自身が意識の高い人だと思ってたから」
「なんで?」
 小室の詰めに、うっ、とみなもは口籠る。しまった、言い過ぎた。何かを応答しなければならない流れなのに、うまい言葉が出てこない。論点を外したただの難癖を口にしてしまったと、自覚せざるを得ない。
 その様子を見て、小室が言葉を継いだ。
「消費者の自然な感情に基づく行動が積み重なって労働搾取や食品ロスなどの問題が生まれている、というのはわかるんだ。でもそれを改善するのに、消費者側の意識を変えるというのは、手段として本当に有効なんだろうか。人の心を変えるのは、とても難しいよ。意識の高い啓発は、もともと意識の高い少数の人には響いても、多くの人には他人事に聞こえるんじゃないだろうか。行政がその権限を使って社会を改善するんなら、消費者側よりも生産者側を誘導または規制する仕組みを作った方が、遥かに効率的なんじゃないか。そう思うと──ごめん、エシカル消費の啓発は、僕自身は高い優先順位を付けられない」
 みなもが持っていない視点だった。「エシカル消費を少しでも広めれば社会はきっと良くなる」という、さっき知ったばかりのテーゼを素朴に「正しい」「善だ」と思っていた。それはつまり、このテーマを自分の中で少しも噛み砕いていなかった、ということを意味する。
 当たり前だと見過ごしているものを、考え抜いて、見慣れないものにする。入華教授が授業やゼミで繰り返し口にしていた、事柄の本質に迫るための文化人類学のアプローチだ。自分はそれが出来ていなかったと突きつけられたようで、みなもは恥じた。だからこそ、自分の非を素直には認めたくなかった。
「じゃあなんでさっき、このテーマでいいって言ったの」
 少しでも相手の非を見つけたい心理による、皮肉を込めた言葉だ。しかし小室は、真っ直ぐに応えた。
「だからだよ。自分が価値を見出せないテーマだから、そこに価値を見出している香守さんと一緒に作業することで、僕の見えてない世界が見えるんじゃないかと思ったんだ」
 完敗だった。上っ面じゃなく本当の意味で、彼は意識が高いんだ──みなもはそう受け止め、返す言葉を失った。

        *

「白熱してるねえ」
 野太い声と共に、ぬっ、と野田室長が大きな顔をパーティションの隙間から覗かせた。これもまた大きな手が差し込まれる。その掌には、淡色の紙に包まれたものが四つ乗っていた。
「飴、食べる?」
「あ……いただきます」
 みなもは戸惑いながら答えた。いたたまれない空気に違う風が吹き込まれたようで、正直、ほっとした。
「じゃあ、2個ずつ好きなのを取って」
 野田は協議スペースに入ってきて、二人の目の前に掌を差し出した。小室とみなもはアイコンタクトで先を譲り合い、結局みなもが先に練乳とリンゴを選び、小室は残るイチゴとレモンを手にした。二人とも、自分の手と野田の手の大きさは、子供と大人くらい違うように思えた。実のところ、50代半ばの野田の子供と二人は同年代だ。
「いやあ、眩しいなあ」
 野田は優しくいいながから、二人の向かいの椅子に腰を下ろす。ぎしっ、とフレームの軋む音がした。
「自分の学生時代を思い出すよ。こういう真っ直ぐな議論を戦わすことができるのは、学生の特権みたいなものだからね」
「県庁でも政策議論は行われるんじゃないですか?」
 小室の問いに、野田は(そのとおり!)と言わんばかりに目を大きく見開いて頷いた。
「うん。行政実務の少なからぬ割合を調整作業が占めているね。組織内部の意思決定にしても、外部とのすり合わせにしても、協議は欠かせない。でもね、大学での議論とは、ちょっと違うんだ。いや、随分違うといっていい。午前中に、事務分掌制について聞いた?」
 二人は首を横に振る。
「澄舞県庁では、職員一人ひとりに担当事務が割り振られている。一応はひとつの事務に主担当・副担当と二人を充てる形を取ってるけど、実質的には主担当者が一人でその事務に責任を持っている。だから、大勢であれこれ議論をするようなことは、ないんだ。もちろん、上司や利害関係他課とは協議することになる。その時、自由闊達な意見交換で徹底的に理想を追求するのかといえば、そうじゃあない。限られた予算、人員、日程の中で、実現すべきことを実現すること。それが公務員の仕事なんだ。
「例えばエシカル消費というテーマは、地方自治体から見れば、中央つまり消費者庁から降って湧いたものなんだ。もちろん啓発を強制されているわけではない。でも、中央で旗を振っていることを地方が無視するなんて、一定の覚悟がなければできない。事柄自体は、とても正しく、美しい。啓発しないより、した方がいいに決まってる。そこにどのような課題や矛盾があるのか、本質的なことをじっくり考える余裕のないままに、啓発活動に取り組むことになる。どうしてもね、良くも悪くも、上っ面になってしまうんだ。
「広報啓発に限らず、行政活動に100点の理想は求めようがない。80点ですらそう簡単に実現できない。誤解を生みそうな言い方だけど、多くの事業は理想に対して60点。0の状態から行政施策によって60点でも前へ進めたなら、それは当面の成功なんだ」
 60点。予想より低い点数で、小室もみなももリアクションのしようがなかった。二人の戸惑う様子に野田は慌てて両手を振り
「公務員が手を抜いて60点の仕事しかしてないということじゃないんだ。組織というのは現実の人間の集まりで、そのような人間集団で一人ひとりが懸命に頑張っても、理想には遥かに手が届かない現実に打ちのめされるばかりだ。そういうね、なんというか、もどかしい気持ちがあるのさ」
 そこまでいうと、野田は頭をぽりぽりとかいた。
「ごめんね、学生さんに言う話じゃなかった。役所に幻滅しないでね。それだけ二人の議論が眩しかったんだよ。うんと議論して、でも明後日には、形にしてね。それが君たちの今の『仕事』だから」
 はい、と二人は小さく答えて頷いた。

        *

 その時、ぶぶぶ、とくぐもった音が鳴った。みなものバッグの中、スマホの鳴動だ。三人の目がバッグに向いたが、みなもは手を伸ばさない。
 野田がいう。
「僕の茶々で休憩みたいになっちゃったね。昼休み以外に休憩時間は決まってないから、適当に休んでね。電話も出ていいよ」
「じゃあ少しインターバル取ろうか」小室も野田の配慮に同調した。みなもは「じゃあ、ちょっと」とバッグを手に取り、席を立った。
 野田の示唆に従い、エレベーターホールの正面にある休憩コーナーで、スマホをバッグから取り出す。幸い周囲には誰もいない。
 発信者表示はやはり「おばあちゃん携帯」だ。履歴までは確認していないが、午後の5回の着信は全部おばあちゃんなのだろう。いつもはこんなにしつこく電話の掛かることはないのに、と思いながら、受信ボタンをフリックして耳に当てた。
「もしもし、みなもです」
 一瞬、無言の間を置いて、聞こえてきたのは男の声だった。
「香守みなもさんでしょうか?」
 え。
「……あの、どちら様でしょう」
 みなもは警戒して、相手の問いに答えず問いで返した。
「私、八杉警察署の織田と申します。香守茂乃さんの携帯をお借りして電話しています。香守みなもさんで間違いないですか?」
「はい、そうです」今度は早口で答える。まさか事故、と心臓が大きく鳴った。
「良かった、お父さんお母さんにも電話をするんですが繋がらなくて。今、八杉の甘田町(かんだちょう)のコンビニから掛けています。目の前に茂乃さんもいらっしゃいます。大金を振り込もうとしていて、どうやら詐欺に騙されてるようなんです。振り込まないように説得してるんですが、取り乱しておられて──」
 電話の向こうで、茂乃の声が聞こえた。5秒、言い争うような気配がした後、相手が茂乃に代わった。
「みなもちゃん!?」
「あ、おばあちゃん? みなもだよ」
 みなもが言い終えるより前に、茂乃が早口で捲し立てる。
「私、大変なことしちゃったあ。警察に逮捕される前に預託金だいなんだい払わんといけんに、お店の人が邪魔すうだがん。警察の人が来て、すぐ払うけんって言うだに、なんだい分からんこといって邪魔すうだ。このまんまだと、おばあちゃん刑務所に入らんといけんやになあ。みなもちゃん、おばあちゃんを助けて!」
 涙声は、最後は悲痛な叫びになった。みなもがこれまで聞いたことのない、おばあちゃんの錯乱だった。

[16] 走れロシナンテ

        *

 澄舞県庁の組織体制は行政組織規則で定められている。本庁内部組織である生活環境総務課消費生活安全室と、地方機関の消費生活センターは、規則上は別組織だ。前者は消費者行政全体の企画・調整・運用を行い、後者は消費生活相談や消費者教育・啓発などを実施するものとして、役割が分かれている。
 このふたつの組織は、かつては職員も施設も独立していた。しかし行財政改革で全庁的に職員数を削減する流れの中、平成の半ば頃に一体化が図られ、現在に至る。野田彌は消費生活安全室長と消費生活センター所長を兼務し、部下も全員が室とセンターの兼務だ。
 澄舞県市町村プラザ5階にある施設も、室とセンターの共用だ。入口側の半分は、ふたつの相談室、みなもたちが使っている協議スペース、消費者向け啓発物の展示スペースがある。奥の半分は執務室だ。向かって左の半分は消費生活相談員の島で、県民からの電話相談や事業者との交渉などを行う。右の半分が行政職員の島だ。そのため機能的には、相談員島が消費生活センター、行政島が消費生活安全室と捉えても強ち間違いではない。
 その一番奥に、野田の座る消費生活安全室長席がある。管理職として室内をほぼ見渡せる配置だ。
 だから、みなもが部屋に戻ってきた時、野田は真っ先に彼女の様子がおかしいことに気づいた。表情が固く、執務室との境から二階堂主任の背中を見ながら、何か言いたそうにしている。足元が揺らいで、逡巡が見て取れた。
 二階堂君、と野田が囁く。二階堂は顔を上げて、室長が小さく指差ししているのに気づくと、みなもの方向を振り向いた。
「あら、なあに?」
 二階堂がそういいながら近くに招く手振りをすると、みなもは足早に歩み寄った。
「あの、実はちょっと、今、警察の人から電話があって」
 警察、という言葉に行政島の職員が一斉に顔を上げた。
「私の祖母がコンビニで、あ、八杉なんですけど、なんかお金を引き出そうとしてて、警察の人は詐欺に騙されてるんじゃないかって」
 話ぶりは混乱していたが、要点は伝わった。
「あら、それ大変じゃない!」
「でも、本当かどうか。詐欺で警察を名乗る場合もあるんですよね。でも電話番号はおばあちゃんの、あ、祖母のだったし、声も祖母だったと思うんですけど、そう錯覚してるのかも」
「電話してきた警察の人間の名前は分かる?」
 混乱する様子のみなもに声を掛けたのは、二階堂の斜め前に座っていた年配の男だった。小柄で短髪、精悍なスポーツマンの印象だ。
「八杉警察署の、確かオダさんって」
「あー、おだっちか」と男が頷くと、二階堂の左隣にいた長身の男──二階堂よりは年上のようだ──が「織田ちゃんですね、八杉署三年目」と応えた。二人とアイコンタクトして、二階堂はみなもに向き直る。
「この二人は元々警察の人なの。八杉署に織田さんという警官は実際にいるみたい。状況、詳しく聞かせてくれる?」
 みなもは、昼間の茂乃の電話と先ほどの織田からの話を繋げて伝えた。老人ホームの入居権が当選したこと。困っている人にそれを譲ったこと。そして、それが法律違反だったとして供託金をすぐに払わないと逮捕されかねない──茂乃はそう信じ込んでいること。
 不穏な様子を察したのだろう、いつしか小室も近くに来て話を聞いていた。二階堂は、ひととおり話が終わると、真剣な表情でみなもを見上げた
「──それ、劇場型詐欺の典型ね」二階堂は机上のファイルを手に取って何かを探しながら話を継いだ。「劇場型詐欺っていうのは、複数人が役割分担をして、まるで演劇のように架空の話をして信じ込ませるもの。初期の頃は投資の勧誘などが多かったんだけど、振り込め詐欺の周知が進むと、最初からお金の話をしたらみんな警戒して騙されにくくなった。だから──あった、これ観て」
 二階堂はクリアファイルからA4判の紙を一枚取り出して、みなもに手渡した。
 左肩に見守り新鮮情報第215号と書かれたワンペーパーだ。老人ホーム入居権申込書を手にしたおばあさんが、電話の相手に脅されているイラスト。大きなフォントで短く簡潔に記された詐欺の手口は、まさに茂乃から聞かされた話に合致していた。

https://www.kokusen.go.jp/mimamori/mj_mailmag/mj-shinsen215.html

「困っている人のために名義を借りるだけといわれ、善意でオーケーする。お金の話は出ていないから詐欺だなんて疑わない。自分は良いことをしたと満足する。そこに突然、違法行為で逮捕されると脅されてパニックに陥り、一時的にお金を預ければ逮捕は免れる、お金は後日帰ってくると言われたらさ──お年寄りじゃなくても、心は簡単に誘導されちゃうよ」
 二階堂の言葉がみなもの耳に刺さる。おばあちゃんは、本当に詐欺に騙されているんだ。そう確信した途端、体が震え出した。
「どうしよう……あの、織田さんから家族が説得に来て欲しいって言われていて。でも父は出張中で、母も仕事の時は携帯を身に付けてないから連絡が取れなくて。私も夕方まで……」
「そういう事情なら、こっちはいいよ。おばあさんのところに行ってあげて」
「でも、私、車の運転できないんです」
 松映の県庁付近から八杉の中心部までは30kmほどある。JRで移動するにしても県庁から松映駅まで2km、過疎県なのでバスも電車も本数は限られている。それに、八杉駅から現場のコンビニまでの距離もある。
 目を伏せて泣きそうな表情のみなもを見上げて、二階堂は彼女の震える手を両手で握った。
「そんな顔をしないで。お姉さんに任せなさい」
 優しい声でそう言ってから、二階堂は椅子から立ち上がり、室長席に歩み寄った。
「室長、状況はお聞きの通りです。どうでしょう、インターンシップの臨時プログラムとして、詐欺被害を防ぐコンビニ現場の見学に香守さんを公用車で連れて行く、というのは」
 はっとして、みなもは二階堂の背中を見た。野田室長は、真っ直ぐに二階堂の視線を受け止めた。無言の3秒間。
「分かった、行ってきなさい」
 力強い野田の声に、二階堂は笑顔で「はい!」と頷いた。
「小室君も連れて行っていいですよね」
「いや、それはダメだ」と、今度は瞬時に野田が反応した。「被害者は香守さんのおばあさん、私人だ。香守さんは身内だからいいけれど、小室君をデリケートな場面に立ち会わせるのは適切じゃあない」
 あ、と二階堂の表情が一瞬強張った。
「小室君のことは残っている者で対応するから、すぐに行きなさい」
「──はい。じゃあ、香守さん。行こう」

        *

 エレベーターに乗り込み、B2のボタンを押す。ガラス張りのエレベーターはゆっくりと下降し始めた。
「はあ、失敗したなあ」
 二階堂がため息をつく。みなもは黙って彼女の横顔を見た。
「消費生活センターには、いろんな消費者からトラブルの相談が持ち込まれるの。それって、個人情報・法人情報の塊みたいなものなのね。当然部外秘、職員以外の人に触れさせてはいけない。分かっていた筈なのに、香守さんのおばあさんの問題に、小室君を連れて行こうとした。軽率だった。ごめんね」
 いいえ、と口の中で小さく応えて、みなもは首を振った。
 市町村プラザは地上六階・地下二階、地下は全て駐車場になっている。その一番奥に、消費生活センターの公用車が置かれていた。白い無骨なステーションワゴン、旧型の日産ウィングロードだ。
「これがうちの子、ロシナンテって呼んでる」
 運転席の二階堂が手を伸ばして助手席のロックを外すのを待って、みなもも乗り込んだ。
「ロシナンテ、ですか?」
「そ。ドン・キホーテが乗ってる年寄りの馬なんだって。原作読んだことないけどね。見てのとおりオートロックも付いてない年代物、もう13年くらいじゃないかなあ。かなり草臥れてるけど、財布の紐がきつくて、なかなか買い替えてくんないのよ」
 そう雑談のように言いながら、二階堂はメーターを確認して車内に備え付けられた記録簿に使用開始時点の走行距離を書き込んだ。何の用務で、どこからどこまで、誰が乗って、何km移動したか。公用車はこうした走行履歴を全て記録しなければならない。
「私、小学生の頃に子供向けの本は読みました。ロシナンテの名前は聞くまで思い出せなかったけど」
「あら、もしかして読書家?」
「本を読むのは嫌いじゃないです。大学のサークルも総合文芸研究会だし」
「サークルかあ、いいなあ。私は大学卒業して十年くらい経つから、若い人が羨ましいよ」
「二階堂さん、若いですよ」
「ふふ、ありがと」
 微笑む二階堂の横顔を、みなもは眩しく見つめた。
 二階堂は記録簿を後部座席に置き、みなもがシートベルトを締めたのを確認して、イグニッションキーを回した。
 きゅるるるるん。きゅるるるるるるるるん。
 エンジンがかからない。
「うそ、最近調子良かったのに」
 きゅるるるるるるるるるるるるん。ぶるるるん。ぷすん。
「ま・ぢ・かーっ。肝心な時に」
 二階堂は考えを巡らせた。ロシナンテは消費生活センター専用車だから使い勝手が良いのだが、これがダメなら別に数十台ある全庁共用車を使う手はある。ただ、今直ぐに空きがあるかどうかは運次第だし、パソコンから予約して駐車場まで走るとしても、20分くらいロスしそうだ。いっそタクシーを使うか、しかしチケット申請に本庁六階の本課まで走らなければいけないから、同じくらいのロスがある。どうする、今すぐ判断しなければ……。
 考えながらイグニッションを幾度か回している二階堂の様子を見て、みなもはダッシュボードに両手を添え、頭を垂れた。
「お願い、ロシナンテ。おばあちゃんが大変なの。私をおばあちゃんのところに連れて行って。……お願い!」
 きゅる、ぶるん。ぶるるうん!
「うそ、かかった!」
 二階堂は思わずそう声に出してから、ふと真顔になり、右手の人差し指でハンドルをとんとんと叩いた。
「ふうん。ロシナンテ、あんた、若い子の方がいいんだ」
 ぶるっ、ぶるるるるる。
 まるで二階堂と会話をしているようにロシナンテのエンジンが震える。
「ふふ、うそうそ。八杉まで頑張ってね」
「ありがとう、ロシナンテ」とみなも。
 ぶるるるるるうん!
「じゃあ、行くよ」
「はいっ」
 二階堂はサイドブレーキを下ろしてシフトをDに入れ、アクセルを踏む。ロシナンテはタイヤを軋ませながら、駐車場のスロープを駆け上った。

        *

 応接テーブルを挟んで、哲さんの向かいに押井は腰を下ろした。三人掛けの長ソファ、哲さんの正面ではなく斜めにずれた位置。気後れしてのことだろう。背後に立ったブッさんが「おい、真前に座れよ」と小さく命令的にどやした。
「いいよいいよ、俺が動くからさ」
 そう言って哲さんは少し腰を上げ、押井と相対する位置に座り直した。笑顔で押井の顔を正面から見る。押井は視線を逸らさないが、瞬きの回数が顕著に増えた。
「緊張してる?」
「え、まあ、はい」
 頬にチックが現れている。肩と胸が固まっていて呼吸が浅い。
「コウモリ君は」と哲さんは押井を呼んだ。「紫峰大学の一年生だって? 優秀なんだ」
「……いえ、東大とかじゃないですし、まぐれ入学です」
 学部にも依るが、文系なら東大が偏差値67、紫峰大は62。確かに東大クラスより一歩引くが、世間的には間違いなく一流校だ。謙遜か韜晦か、それとも──自己肯定感の低さか。
 哲さんの「候補者」面接の核心は人間観察だ。如何に隠された欲望を見極め、解放するか。最近では滅多に観ることのできない哲さんのセッションを見逃すまいと、ブッさんは応接セットから少し離れたところで後ろ手に立ち、二人の様子に注意を払う。
「専攻は何?」
「哲学です」
「お、哲学! やったね」
 哲さんはオーバーに両手を打ち鳴らした。その音の大きさ
に、押井の呼吸が一瞬止まる。哲さんは上体をぬっと押井に近づけて言った。
「俺さ、名前、哲学っていうの。みんなには哲さんて呼ばれてる。よろしくな」
 右手を伸ばして、押井の左肩に近い上腕をポン、ポンと2回、強めに叩く。一回目は押井に軽い萎縮が、2回目は硬直が見られた。
「でもさ、哲学って、流行んないじゃん。就職にはむしろ不利に働くし。なんで哲学選んだのさ、コウモリ君は?」
 返事はすぐには帰ってこなかった。何かを言おうとして、ん、ん、と言葉にならない発語が幾度か続く。これも内面の葛藤を示すチックだ。
「ん……高校で、倫理が面白かったから」
「お、仲間仲間。滅多に出会えないんだよな、そういう奴に。コウモリ君とは気が合いそうだなあ」
 笑っているつもりなのだろう、押井の表情が歪んだ。
 哲さんは、事前にアンゴルモアとハシモトジュエルオフィスから上げられた報告書に目を通した時点で、一定の見当を付けていた。実際にここまで話をしてみて、半ば確信を持った。押井は中等度の発達障害、おそらくASDメインでADHDの傾向も混じっているようだ。
「あの」
 思い切ったように押井が口を開いた。尋ねられていないのに押井の方が何かを言おうとするのは、このマンションに来て初めてのことだった。
「……うん、なに?」
「コウモリ君って、誰のことですか」
「誰って、君のことだよ。今まで受け答えしてたじゃない」
「だって、ぼく以外にいないから」
「君、コウモリ君でしょう、違うの?」
 哲さんは手元の書類をあらためて見た。正確に言えば、見るふりをした。書類には押井の本名がふりがな付きの漢字で記載されている。だから正しい読み方は最初から分かっていた。押井の反応を観察するために、わざと違う読み方をしていたのだ。
「お香を守ると書いて、コウモリ」
「違います。それでカガミと読みます」
「へえ、そうなの?」
 哲さんは柔らかな目で彼を見た。誤りを正す時の自信に満ちた様子は、融通の効かなさの表裏だ。
「名前はミツルでいいんでしょ?」
「ミチルです。ぼくの名は、カガミ・ミチルです」
 後に深網社内で「頭は良いのに、いろいろと惜しい奴」というキャラクターから押井とかオッシィと呼ばれることになるこの青年の本名は、香守充。家族にも内心の地獄を隠して生きてきた、みなもの二歳下の弟だった。

[17] 救出

        *

 ラ・ポップは五百島を本拠に近隣各県に展開するコンビニチェーンだ。全国大手には店舗数で引けを取るものの、店で炊いた温かいご飯を販売時に弁当に詰めるなどの特色があり、地域では根強い人気を誇っている。
 ラ・ポップ八杉甘田町店の電話が鳴ったのは、この日の午後二時前だった。
「店長、お電話です。クレームみたいです」
 アルバイトの水元慶太に声を掛けられ、品出し中だった藤谷三郎は彼に作業を交代してもらい、急ぎ足で事務室に移動した。
「あのね」と相手の女性──それほど年配の声ではないように感じた──はゆっくりした口調で用件を話し出す。
「先日ね、そちらでお弁当を買ったんですけどお、子供がそれを食べてから、三十分くらいかなあ、もうちょっとかなあ、ゲロゲロって吐いて、お腹を、あ、私じゃなくて子供ですよ、子供がね、お腹を下したんですよお」
「それは大変だ、お子さんの具合は如何ですか」
 まず傾聴。相手の立場に寄り添いつつ、責任の認定は慎重に。チェーン地区本部が開催するクレーム研修のポイントのひとつだ。結果の重大性や店側の責任の蓋然性などを総合的に考えて、必要があれば即座に謝罪することもある。そのような状況かどうか、会話の中で確認しなければならない。
「子供はねえ、あ、ちょっと待っててくださいね、ちょっと様子見てきますから」
 保留音。
 食中毒となれば大変なことだ。保健所が入り、数日の営業停止。本部からも厳しい指導があると聞いている。水谷は脳内でさまざまな可能性を考えながら相手が戻るのを待った。
 三十秒は超えたろう。そろそろ一分か。一分半……。
「あー、ごめんなさいねえ、今は眠ってます。あのねえ、お弁当を買ったのはねえ、えーと、お・と・つ・い? だっけ、ノブ君?」
 電話の向こうにいる家族らしい人物に尋ねる気配があった。受話器を掌で押さえたのだろう、気配のない時間が続く。五秒。十秒。十五秒。
 なんだか緊迫感のない、間伸びした感じだ。藤谷が軽い違和感を覚えたその時。
「どうしてくれるんじゃごるあ!?」
 突然相手が男に代わり、激しく怒鳴り上げられて藤谷は一瞬呼吸が止まった。
「お前は誰じゃ、責任者か、おお?」
「は、はい、店長の藤谷と申します」
「下の名前は!」
 ハードクレーマーは大声や威嚇発言でマウントしてくる。名前を確認してくるのも、何かあったら個人を追い込むぞという威嚇の一種。これも研修で学んだことだ。知識はあっても、怖いものは怖い。それは動物の本能だ、とこれも研修講師が言っていた。
 聞くべき要求は真摯に対応する、拒むべき要求は拒む。そこを見誤ってはいけない。一般社員やアルバイトは別として、責任者の氏名は秘すべき情報ではない。
「三郎です」
「藤谷三郎店長さんか。うちの娘はなあ、おたくの弁当を食べて、えらい目に遭ったんだぞ! どうしてくれ……あ? なに? 今俺が話して……」
 向こうで何か揉める気配があって、再び女に代わった。
「ごめんなさいねえ、うちの旦那、娘のことになると我を忘れてしまうから」
「はあ」
「お医者様はね、お弁当が原因の食中毒じゃないかっていうんですよお。私はあ、そんなことないでしょうっていうんですけどお」
 電話を受けてからもう五分は経っているのではないか。しかし、話の核心に近づきそうで躱される感じが拭えない。
 ──その時、これも研修で聞いたある可能性に、ようやく藤谷は思い至った。
 事務室には店内外の四つの防犯カメラ映像がモニターされている。そのうちのひとつに、ATMの前で携帯を耳に当てながら操作している高齢女性の姿が映っていた。レジにいる店員は接客中だ。
「水元君!」
 藤谷は受話器を手で押さえて、事務室の扉を開き、品出し中のアルバイトに叫んだ。
「ATMにいるおばあさん、話を聞いて、もし振り込みだったら、あ、引き出しでも金額が大きかったら、一旦止めて!」
 特殊詐欺の可能性。銀行のATMは警戒が徹底されているため、コンビニのATMコーナーに誘導される場合が多い。コンビニにも手口は周知されているが、最小限の店員で回している分、隙は大きい。被害者がATMを操作するタイミングで店にクレーム電話を入れて店長を釘付けにすれば、成功率は高まる──。
 指の隙間から藤谷の声が漏れ聞こえたのだろう、女が慌てた様子で叫んだ。
「今、水元っていいましたあ!? その店員さんです、お弁当詰めてくれたの。詳しい話を聴きたいからすぐに電話に出して! スピーカーモードで店長さんも一緒に聴いててよ、責任者なんだから!!」
 先ほどまでと打って変わった早口。ほぼ間違いない、相手は今この店のATMで起きている出来事と関係している。そう直感した。
 はい、はあ、と上の空で応答をしながら、藤谷はモニターに映るATMの様子を注視した。水元が女性に声を掛け、会話をしている。やがて彼は防犯カメラに向けて右手を挙げ、拳を開いたり閉じたりした。困難事案発生の符牒だ。
「お客様!」藤谷は大きな声で電話口に言った。「大変申し訳ありません、店内で緊急に対応しなければならない事態が起きたので、後ほどお掛け直しください。失礼します!」
 電話の向こうで「待てごるあ!」という男の怒号が聴こえたが、藤谷は構わず電話を切った。
 藤谷自身が女性の話を確認し八杉警察署に緊急通報したのはこの五分後、十四時十五分のことだ。

        *

 十五時四十分。
 事務所に駆け込んで来たみなもの顔を見て、茂乃は「ああ、みなもちゃん。よく来てごいたあ」とボロボロ涙をこぼした。
「おばあちゃん、大丈夫?」
 男性警官──織田警部補に促されて、みなもは茂乃の横に腰を下ろし、左腕に手を添える。久しぶりに触れたおばあちゃんの体は、すっかり肉が落ち、服地と皮膚を通しても骨の感触が分かるようだった。
「これまでの説明である程度は詐欺だと理解していただいたようなんですが、まだ半信半疑みたいで」
 織田がみなもにそう告げる。
「だって」と茂乃。「もし本当だったら、大変なことだが。相手が一人なら詐欺だと思うだあもん、何人もの氏がいっちょおなあだけんねえ。嘘だとは思えんだ」
 先ほどの電話は完全なパニック状態で心配していたが、その後の織田の粘り強い説得が功を奏しているようだ。最後のひと押しが私の役目だと、みなもは思った。
「おばあちゃん、私ね──」
 みなもはバッグから、二つ折りにした見守り新鮮情報第215号を取り出し、茂乃の前に広げた。
「今日からインターンシップで澄舞県消費生活センターに行ってるの。インターンシップ。職場体験。うん。澄舞県庁だよ。お役所。今回のような詐欺の手口に、一番詳しいところ。そこでね、これ、もらって来た。読んでみて」
 茂乃は眼鏡を外して紙に目を近づけ、そこに書かれている文章を声に出しながら読み上げる。
「あだん……こおだわ。おんなじだがん」
「うん、そうだね。こういう手口が全国的に多いんだって。だから、おばあちゃんが聞いた話も、間違いなく詐欺なの。無視していいから」
「そげかあ。安心したわあ、なんだい憑き物が落ちたやなわ」
 茂乃は破顔した。
 二人の様子を眺めながら、テーブルの向かい側に立っていた織田が隣の二階堂につぶやく。互いの自己紹介は既に店外で済ませていた。
「良い関係のご家族でよかった。最後に届くのは家族の言葉ですから。制服の警官だからといって信用してもらえるとは限らないのが、悔しいところです」
「家族の言葉が届かない場面も見てきましたよ」と二階堂が応える。「この二人の信頼関係と、ここまで説得してくださった織田さんのおかげだと思います」
 その時、細面の男が事務室に駆け込んできた。
「あの──あ、お母さん」
 男は茂乃を見てそう呼んだ。茂乃の一人息子、みなもの父、香守朗だ。
「お父さん! 帰ってこれたんだ」と、みなも。人前では「父しゃん」とは呼ばない家族の不文律。
 朗は「留守電聴いたのが蔵良(くらよし)辺りだったから、そっから飛ばしてきたよ」と応えてしまってから、制服警官の存在に気付き「むにゃむにゃえふん法定速度でえふんきたよ」と言い直した。織田は苦笑いして「安全運転でお願いしますね」とだけ言った。その横で二階堂が小さく手を振る。
「ああ、二階堂さん。この度は娘がお世話になっております」
「やっぱり香守さんの娘さんだったんですね。珍しい苗字だからそうかもと思ってました」
 県庁出入りの印刷会社営業担当の朗と、印刷発注の多い消費生活センター職員の二階堂は、顔馴染みだ。
「あと、皆さんには母がご迷惑をおかけしたみたいで、なんとお詫びしたらいいか」
 コンビニ店長の藤谷、警官の織田、そして二階堂の三人に、朗は一人一人頭を下げた。
「迷惑なんかじゃないですよ。お母様は被害者、悪いのは善良な人を騙す詐欺師の方です。まったく、けしからん」
 きっぱりとした藤谷の言葉に、織田と二階堂も頷いた。
 朗はテーブルを挟んで茂乃に向き合う。
「お母さん、そおで、詐欺だったかね」朗は母親と話す時だけ澄舞弁になる。
「そげ、騙されえとこだったわ」
「でも大丈夫だったよ。お金を振り込む前にお店の人が止めてくれたから。おばあちゃん、今は詐欺だって理解してくれた」
 みなもは見守り新鮮情報を朗に示した。朗が黙読している間に、茂乃とみなもが会話を続ける
「この紙の説明で納得が行ったわ。よおこげに分かりやすいもの持って来てごいたねえ」
「ほんと、まさか消費生活センターに行った日に、こんなことがあるなんて。そうじゃなかったら、私も詐欺かどうか見分けがつかなかったと思う。すごい偶然」
「ほんに仏様のお導きだわあ」
 言いながら茂乃は合掌して頭を下げた。
 読み終えた朗が顔をあげ、茂乃にいう。
「今回は無事で良かったあもん、気をつけないけんで? すぐに大金が必要だと言われた時点でおかしいと思わんと」
 少しだけ、トーンに責める気配が篭っていた。茂乃はさらっと「そげだねえ、気をつけえわ」と応え、むしろ周囲が少し気を揉んだ。幸い朗の口からそれ以上の苦言はなかった。
 織田警部補が茂乃にいう。
「香守さん、今日は大変でしたね。今回の詳しいお話を聞きたいんだけど、今からでもいいですか? それとも明日にします?」
「あー、明日にしてごしならんか。今日はもうえらいわ。けんびきが出えやな」
 「えらい」は疲れた、「けんびき」は疲れた時の発作のような状態を表す澄舞弁だ。若い人は使わないけれど、聞けば意味はわかる。こういう言葉もいずれ失われていくのかもしれないな、とみなもは文化人類学徒モードで思った。
「わかりました、じゃあね、明日またご連絡しますから。今日はお家に帰って、ゆっくり休んでくださいね」
 織田は優しい目をして茂乃にそう告げた。
 ラ・ポップ八杉甘田町店から茂乃の家までは1kmほど。普通なら自転車か歩いてでも往復できる距離だが、80歳の茂乃はもう自転車は使っておらず、タクシーで店に乗り付けたという。
「とうし……えふん。お父さん、おばあちゃんを家まで送れる?」
 みなもの言葉に、朗は少し困った顔をした。
「同僚と荷物が乗ってて、席が空いてないんだよ。それに、夕方までに会社で報告書を仕上げなきゃいけなくて時間が結構ギリギリで……みなもは、もしかして公用車で?」
 ちらり、と向けられた朗の視線を受け止めて、二階堂は頷いた。
「いいですよ、せっかくだから送りましょう」
「本当にすみません、助かります」
 父と娘は揃って二階堂に頭を下げた。話の流れが聞き取れていない茂乃は、ただニコニコとその様子を見上げていた。

        *

 お年寄りを乗せているのだと分かっているのか、ロシナンテのエンジン音は心なし静かで優しい感じに聞こえた。
 みなもは後部座席に茂乃と二人並んで座った。茂乃は車に乗り込むのも足取りが覚束ない。シートベルトも自分ではうまく着けられず、みなもが着けてあげた。おばあちゃんはこんなに小さかったっけ、と隣の茂乃を見て、みなもは思った。
「今回の事件って、消費生活センターではどう扱われるんですか?」
 後部座席からのみなもの問いに、ハンドルを握る二階堂が応えた。
「事柄は明日にでも相談員さんにデータベースに記録してもらうよ。でも、明らかに詐欺事件だから基本的に警察任せで、うちは関われないかな。お金を払い込んで被害が発生してたら、逆に被害回復に警察は関与してくれないから消費生活センターの出番なんだけどね。とはいえ、相手が交渉に応じてくれるのが前提。詐欺事件だと相手が逃げておしまい、というのがほとんどね。悔しいけど、行政権限で出来ることは、限られてる」
 そうやって少し話をするうちに、茂乃宅に着いた。書道教室に使っている平屋部と二階建ての居宅が接合した、トタン板張りの木造築五十年。隣接地に一台分だけ借りている駐車場にロシナンテを駐めた。
「あなたもだんだん(ありがとう)ねえ、お茶なと飲んで行きなさいませ」
 茂乃の誘いに、二階堂は「いえ、もう県庁に帰らなければならないので」と断った。それでも二人と共に車を降りて、玄関まで付き添った。
 茂乃が鍵を取り出して玄関の引き戸を開ける。みなもが訪れるのは久しぶりだが、5歳まで暮らしていた懐かしい家だ。
「じゃあせめて、お菓子なと貰ってごしないね。今持ってくうけん、待っちょってよ」
 茂乃は靴を脱いで玄関を上がり、廊下の奥へ向かった。廊下の左半分は段ボール箱が積み上げられていて、横歩きになる。
 なんだろう、危なっかしいなあ。奥の部屋に置けばいいのに。
 みなもも玄関に上がり一番上の箱を見た。宅配便で届いたものらしく伝票が貼付されている。差出人は「ナチュラリズム健康革命協会」、札幌の住所だ。ガムテープは剥がされていて、上蓋を開けると、プラスチック製のサプリメントケースがぎっしり詰まっている。
 嫌な予感がした。
「──二階堂さあん」
 他の箱も確認しながら、みなもは玄関先の二階堂に声をかけた。
「断れないお年寄りに商品をどんどん売りつける手口って、次々販売って言いましたっけ」
「そうね、法律用語としては過量販売……え?」
 二階堂の視線の先で、みなもが困った顔で頷いた。
「この箱、全部健康食品みたいです。十箱以上あるみたい」
「ちょ、ちょっと、失礼しますよー」
 そういって二階堂も玄関を上がる。彼女が段ボールの確認をしている間に、みなもは廊下の奥へ進んだ。
「おばあちゃん。ねえ、この廊下の段ボール……!」
 みなもが声にならない悲鳴を上げた。
 居間の入り口で硬直しているみなもの元に駆け寄った二階堂が見たもの。それは、居間とその奥の座敷に山と積まれた数十の段ボール箱だった。

<続く>


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