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映画『JOKER』は、主人公が意地でも「笑い者」になるまいと奮闘する話である。

※ネタバレを含みます。
※何も背景情報を知らないにわかの主観です。

天皇陛下のニュースしかやっていない10/22、映画『JOKER』を見た。映画が終わった直後、人生何も考えずに生きていそうなカップルが「面白かった」と話していた。

映画館を出た後、一緒に見に言ってくれた人が僕にこう言った。「面白いってなに。その感想がわからない。」

「面白いってなに。」この言葉は『JOKER』全体で常に観客に問われていた命題ではないだろうか。そして、映画が終わった5秒後に「面白かった」なんて結論が出て良い作品ではない、そう僕は思う。

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主人公アーサーは貧しいながら、日々を満足そうに過ごす男だ。大好きな母を看病し、大好きなコメディアンをテレビで眺めながら暮らす。そして、「自分は面白い人間だ」「人を笑わせる力を持っている」と信じている。

しかし、人生もそう簡単にはいかない。テレビの中で生きる人を指をくわえて見ながら、自分は”シャバ”の”低レベル”な落とし穴に嵌っていく。街のガキにボコボコにされる。「笑ってしまう」という病気のせいで街の人からは白い目を向けられる。挙げ句の果てには、銃を職場に持ち込んでクビになる。何をやってもうまく行かない。そしてアーサーは3人の男を殺す。理由は「オンチ」だから。理由がないのと同義だ。

そこから彼の堕落のスケールは大きくなっていく。憧れの大物コメディアンに自分の行動を否定される。笑い者にされる。愛する母の自分に対する虐待の過去を知り、殺す。銃をくれたピエロの同僚を殺す。おおよそ無感情に人を殺していく。

アーサーがそのコメディアンの番組に呼ばれる。そこでアーサーは怒る。「笑い者にしたからだ」。コメディアンを銃で殺す。

物語の最後、取り調べ中にネタを思いついたアーサーは、相手に対してこう言い放つ。「言ってもわからないよ」。

おそらくこの「ネタ」は、我々観客にも、もはやわからないものになっているだろう。それほどアーサーは遠い場所に行ってしまった。

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アーサーは決して笑われたかった訳ではない。笑わせたかったのだ。

笑わせる笑われるの差異はいうまでもないが、ギャラリーが受け身に徹すれば良いか、自分からの行動を要求されるか、である。

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つまり、アーサーは、観客に無条件に自分を笑ってもらえれば良いわけではなく(また、第三者の扇動を必要とせず)、自分の主体的な行動で人を動かしたかったのだ。

しかし、現実は非情で、有名コメディアンが先導するギャラリーは、彼を笑い者(=笑われる役)にすることを選んだ。彼の夢はあっけなく潰えた。

もちろんアーサーは笑われる役として、人気を博す可能性もあっただろう(現に、アーサーのテレビ出演に反響があり、再度テレビに呼ばれている)。しかし、アーサーはその笑われる役という立場がどうしても気に入らなかった。それは、憧れの人にそのキャラクターを作り上げられた(つまり、絶対にその人と同じラインには立てないという自覚)ということが大きいだろうが。

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ところで、アーサーは、最初は我々一般人から見ても身近なリアリティのある境遇の人間だった。しかし、物語が進むにつれ、我々からは「遠い場所」にいく。

遠い場所」は決して「犯罪者」だけではない。アーサーは有名コメディアンに対してこう言った。「テレビの外を見たことがあるか」。「コメディアン」も同じなのだ。「犯罪者」と「コメディアン」は、ベクトルは違うものの、一般市民から「遠い存在」として確実に存在しているのだ。

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(「天皇」と「賎民」の落差を物語の鍵として使う日本の古典(ex.「竹取物語」なども多く見られるが、それに近いようなものか...)

アーサーは「政治的関心を全く持たない」と言っていたが、そのような彼の行動が社会的運動の引き金となった。これは「笑われる」行為と構造が非常に似ているのではないだろうか。つまり、自分の意図とは関係ないものの、自分に影響されたギャラリーが主体的に行動を始めたのだ。

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アーサーは結局、自分の意思で(=主体的に)他人を動かす力を持ち得なかった。しかし、一方で意地でも笑われる役にはなるまいと奮闘をした。笑わせることを諦める引き換えに、人々を笑えなくさせて見せた。「ジョーカー」になることが、笑いの世界と決別するために彼が選んだ、彼にとっての自己実現だ。


ざっとこの映画のレビューを見たときに、アーサーの主体性のなさ、受け身の多さに疑問を投げかける声を散見した。しかし、それはアーサーがコメディアンに憧れる「観客」でしかなかったから当然なのだ(「笑ってしまう」病気も、アーサーが「笑う」立場であることを意味し、その性格をより強調している)。僕たち一般人となんら変わらない存在だったからなのだ。

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アーサーが物語の最後に「いってもわからないよ」と言ったネタ。それには「面白いとは何か」を追究し続けた結果の(彼がテレビの中で大物コメディアンを殺して見せたような)「笑いへの抵抗」という形での「笑い」が詰まっているだろう。

この映画はアーサーにとっては「面白い」(と信じた)ものであるし、我々観客にとっては大抵「面白くない」ものだろう。その揺れ幅が人々に疲労感を与え、重い足取りで映画館を後にさせるのである。


僕も人を「笑わせたい」という気持ちはすごく強い。一方で、現実をみなければいけなくなる時が迫っている予感もする。

「JOKER」、何回もみたくなる映画です。




本もっとたくさん読みたいな。買いたいな。