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沢木耕太郎『凍』:クライマーには絶対なりたくないと思わせるほどのノンフィクション

大学生になって初めてスラムダンクを読んだとき、「もし小学生の頃にスラムダンクを読んでいたら「バスケットマン」になっていたかもしれないな、」と思った。現に、多くのバスケボール選手たちはスラムダンクを(もしくは、黒バスやあひるの空を)読み、夢を大きく膨らませたはずだ。

しかし、この『凍』には、そのような優しさが一切と言っていいほどない。夢や憧れを凍えさせてしまう程の力があるように感じられる。この『凍』という作品に、一方的に「現実」という強烈なダンクシュートを決められてしまう。現実(=ノンフィクション)は無慈悲だ。

沢木耕太郎のノンフィクションを読みたくて不意に手に取った。講談社ノンフィクション賞を取ったというこの作品を読むのは、最初、まるで作中で語られる登山家・山野井泰史と妙子の登山のように暗く険しい道のりだった(つまり、専門用語や舞台設計を読み取るのがなかなか大変なのだ)が、徐々に用語にも慣れてきて、その道には光が差した。一方で、その道が明るくなればなるほど、山野井と妙子がひたすらに険しい道を進んでいることに気付かされた。読んでいると、まるで凍える風を吸っているかのように胸が苦しくなった。

あらすじ

ではこの作品のあらすじを。

端的で言えば、登山家の山野井泰史と妻の妙子が、エベレストの隣にある山ギャチュンカンを登る一部始終を描いたノンフィクションだ。その山には、登るのがとても困難な未踏の「壁」があり、それを破ることが彼らの目標である。

そのほかにも、二人の馴れ初めや、クライマーについての知識、山についての知識、ヒマラヤ山脈にいくまでの過程、登るまでの過程、登山文化の発展などなど、今まで触れることのなかったような知識をたくさん教えてくれる。

例えば、ヒマラヤ山脈の山(今回では8000mにギリギリ届かないギャチュンカン)を登るのに、近くの6000mの山などを何日も繰り返して登り、体を高さに「順化」させていく過程などは、海抜0mに住む我々にとっては純粋な新事実だ。

そのようなこの作品に、僕が感動というか、驚きというか、感化されたことがあるので、今回はそのことについて詳しく述べていく。

それは、誇張のない素直な文章リアルの時間感覚と文章のリンク、そして③沢木の創作だ。

ではまず、①について。

誇張のない素直な文章

これは作中の2つのシーンから感じ取ったものだが、僕がノンフィクションの真髄を感じた部分である。

まず一つ目のシーン、ギャチュンカンを登っている途中、7900メートル地点での、妙子が体力的な理由で登頂を諦めるシーンである。

このシーンに対して読者はどう思うだろうか。間違いなく「え?そんなすんなり諦めてしまうの?」と思うだろう。なぜかというと、それまでの過程で、妙子が苦しそうな素振りを見せるたびに、山野井が何度も心の中で「そんなんでは登頂できないぞ」と語りかけて来ていたからだ。

物語には伏線であったり、フラグであったりと、あたかも因果関係があるように見せる描写を多く見かけるものだ。僕も妙子について最初はそう思っていた。つまり、妙子と山野井が揃って登頂を果たすという、完全無欠の美談だと想定して(もしくは願って)本を読み進めていたのだ。

しかし、それを沢木はあっけなくへし折ってくる。

さらに特筆するべきなのが、その描写の、果てしない「あっけなさ」なのである。もう少し粘れないものなのか、例えば妙子が心の中で「登頂したい」という気持ちと「それでも体が危ない」という気持ちとの間で足掻く描写はないものなのかと感じる。あるいは、山野井がその言葉を聞いたときに、「もう少し頑張れよ」なんて思わないものなのかと感じる。

しかし、ついにそのような葛藤は一切描かれないのである。数行のうちに妙子は諦めて、山野井にそのことを伝え、山野井はすんなりと受け止め別行動を開始する。

さらに追い打ち的に、山野井は「妙子がカメラ持っている」ことを深く考える。妙子の心配ではなく、カメラの心配をしている。

では、なぜそのような思考になってしまうのだろうか。無論、現実を描いているからである。

つまり、現実には、そんな美しい話もドロドロした葛藤もないのだ。あるのは、生と死だけだ。そして、死なないように、即断即決をするだけだ。

そのような現実はもう一つのシーンにも見られる。山野井がついに登頂を果たすシーンだ。山の登頂。登山素人から考えれば、それは紛れもない絶頂であり、ゴールであり、感動であり、美談であるだろう。

しかし、このシーンについてもあっけなく読者の盛り上がりは冷めていく。山野井は、登頂すると、少し休んで、そのまま降りていくだけなのだ。景色を楽しむわけでもなく(その時は天気が悪かったのだが)、思慮に耽るわけでもなく、すぐに下山を始めるのだ。頂上でのシーンとして描写された分量は、たったの1ページだ。

そしてそれは、現実はあっけなく、淡々としているのだということを示している。脚色など一切しないその姿勢は、やはり目を見張るものであろう。そしてこれはリアルの時間感覚と文章のリンクにも関係してくる。


では②について。

リアルの時間感覚と文章のリンク

壁をひたすらに登るシーンや降るシーンが、この作品の中では多く語られるが、それらのシーンは、じっくりじっくりと描かれている。

登山器具の名前を逐一表示し、足場の様子を逐一報告し、また指示語もあまり使わずに、山野井たちが一歩一歩踏みしめながら進んでいるかのように、または、毎回毎回神経をすり減らしながら器具や足場を確認しているように、描かれるのである。そのシーンを読み続けると、読者側も疲弊してしまうレベルだ。

そして登頂のシーンが短いこともこれに関連してくる。

これらの描写の長さの差異は、実際の時間経過に合わせているのではないだろうか。

この作品は、まるで読者である自分が、本当に凍える山を登っているかのような苦しさに見舞われる。それがどこから起因するものかと考えると、おそらく文章の物理的な長さが、山野井たちが経験している世界の時間感覚との非常に近いからであろう。

時間感覚までも再現することによって、山野井たちが登っている過程を追体験できるような仕組みになっており、結果として現実性を高めているのである。山野井たちの体験したノンフィクションなだけでなく、我々が体感できるノンフィクションにまで次元を高めてくれているのだ。


③沢木の創作

そして、最後に③沢木の創作について。これは、巻末の池澤夏樹の「解説」に書かれている内容からハッと気づいたことだが、沢木は、この文章を創作しているのだ。

「あとがき」にて次のように書かれている。

「人は自分が成したことをストーリーの形で詳細に覚えているかのように思われがちだが、それを本当にストーリーとして語れるものは少ない。というよりも記憶というのは雑多な断片の集積であって、それをストーリーにまとめるのはまた別のことだ。」

これが何を言っているのかというと、山野井や妙子から聞いた話は、この『凍』の一部に過ぎず、それに沢木が肉付けしていることは間違いないということである。

もちろん、そのような形でなければ「ノンフィクション作家」という仕事そのものの存在意義が問われることになるが、そのような議論をしたいわけでは無い。

僕は、こう感じるのだ。山野井は山頂に登った時、さぞ嬉しかっただろう。妙子は、諦めることになって、とても悔しかっただろう。そして、その記憶はきっと色濃く残っていることだから、沢木の取材に対しても、そのシーンは大きく取り上げたのではないだろうか。

しかし、沢木は、その感情を読み取った上でなお、現実を読者に伝えるために、その部分の表現を抑えた。そして、長過ぎて記憶も定かでないであろう登山や下山の経過を、現実に即して鮮明に描くのだ。

そこにはフィクションも確かにあるかもしれない。しかし、そのフィクションがノンフィクションを強固なものにしていると考えると、その歪な構造に震えるしかない。

ノンフィクション作家・沢木耕太郎の技倆に圧倒的に感銘を受ける瞬間だ。


編集者のようで、作家のようなノンフィクション作家。その絶妙なポジションに位置する者は、僕にとって憧れでしかない。



本もっとたくさん読みたいな。買いたいな。