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運命を感じる絵画との出会い

ミュージアム部“ささめ”です。
みなさんには“縁”を感じる1枚の絵というものはありませんか? 「なぜか気になってしまう1枚」「この世に1枚しか存在しないのに、何度か出会ってしまう1枚」など。

海外の美術館へ足を運ぶと、次はいつ来れるのか分からないということもあり、去り際には後ろ髪を引かれるような気持ちとなることがあります。その一方で、近年は日本にいながらにして、世界中の素晴らしい作品を見る機会も随分と増えました。本当にしあわせなことです。

今日は、はからずも再会を果たすなど“縁”を感じた作品についてお話したいと思います。


マリー・ド・ブルゴーニュの肖像@シャンティイ コンデ美術館

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『マリー・ド・ブルゴーニュの肖像』(1510年頃) フランドルの画家 シャンティイ コンデ美術館所蔵

この作品は、パリから特急で約1時間、競馬で有名なシャンティイにあるコンデ美術館所蔵の肖像画です。1510年ごろフランドル派の画家によって描かれました。曇りのない白い肌とほっそりとしたガラスのような繊細さと初々しさ。黄金のきらびやかな装束とそこにちりばめられた宝石や豪華な刺繍、胸もとで光を放つ大粒の真珠から、高貴な人物であることがうかがい知れます。ピンと張り詰めた緊張感。この人物は当時ヨーロッパにて隆盛を極めたブルゴーニュ公国のシャルル突進公のひとり娘マリー・ド・ブルゴーニュという王女の肖像画です。
この作品に、出会ったのは偶然でした。コンデ美術館には、フランス王家ヴァロア朝の人々の小さな肖像画が何枚もあるのですが、私はそれらを見にいくため、パリからTER(フランス国鉄快速)に乗り、1泊することにして、シャンティイを訪れていたのでした。

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写真:https://domainedechantilly.com/fr/より

美術館内の立派な椅子に腰かけて、フト目をやった先に、こちらの肖像画と目が合いました。サイズは小さかったのですが(縦26.5㎝×横22.5㎝)この絵から醸し出される緊張感と彼女の意志の強いまなざしにくぎ付けとなり、何度も何度も眺めました。
キリスト教の思想が強いこの時代の禁欲的な雰囲気が現れているような、そのような厳しさの中に見いだされる繊細で儚げな美に魅了されました。

後から調べると、彼女はブルゴーニュ公国のお姫さまで莫大な領地を所有していたこと、彼女の夫は後の神聖ローマ帝国皇帝のマクシミリアン一世であること、当時は領土を守るための政略結婚であったものの、夫妻は相思相愛であったこと、お転婆な彼女は第4子を妊娠中に落馬してそれがもとで若死にし、夫君の哀しみは終生癒えることがなかったことなどを知りました。
彼女はフランスでも人気があるようで、彼女の名前のワインがあったりします。何年経過してもこの人物の魅力が色あせないのは、私たちのイマジネーションをかき立てるような1枚の絵画があるからなのかもしれません。

その後、日本開催されていた展覧会で偶然、彼女に出会って驚きました。まさに「再会」という感じ。日本に来ていることを知らなかったので、感無量で思わず話しかけてしまいそうになりました。
それまで彼女について考えたことをひとつひとつ確かめるかのようにその1枚をじっくりと堪能しました。残念ながら、どの美術展だったのか記憶が定かではないのですが、展覧会関係者の方を抱きしめたいくらい(!)嬉しく思いました。

この作品を所蔵する「コンデ美術館」は、フランスの名門コンデ公の収集品が基礎となり、その後オマール公によって建てられたシャンティイ城にある美術館です。「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」も非公開ですが所蔵されているそうです。

また、シャンティイ城は、中世の息吹きを感じる、まるで貴婦人のようなたたずまいの繊細かつ優美なお城です。
そう、マリーがお城になったらこんな感じかなと思わせるようなお城です。

このお城には湖に白鳥が優雅に泳いでいたり、お散歩のできる豊かな森もあったり、とても静かなお城です。木々の間から馬に乗った騎士がひょっこり現れてきそうな、とても詩的な場所です。一生の間に、ぜひ足を運ばれて後悔はないと思います。

ウルビーノのヴィーナス@ウフィツィ美術館

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『ウルビーノのヴィーナス』(1538年頃) ティツィアーノ・ヴェチヴェリオ ウフィツィ美術館所蔵

こちらは、フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている1枚です。1538年ヴェネツイア派の巨匠ティツィアーノによる作品です。
それまで、キリスト教が主題であった西洋絵画にギリシャ神話の神々が登場するようになったルネサンスの時代。人々は、喧嘩もすれば、お酒も飲み、好きな女性を追いかけていくなど、己の欲望に忠実な人間らしい神々の姿にイマジネーションを膨らませ、そこに現生の人間の姿を託します。この絵の女性は「ヴィーナス」と言われてはいるものの、「世俗のヴィーナス」であることは明らかで、ウルビーノのさる高級娼婦がモデルとされています。足もとに眠る子犬は性愛や多産のアレゴリーです。
この絵画の元となったのは、ヴェネツィア派の巨匠でありティツィアーノの師でもあるジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』だと言われています。

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『眠れるヴィーナス』(1510年) ジョルジョーネ アルテ・マイスター絵画館所蔵

時代や国もはっきりしない人里離れた場所で、瞼を閉じて静かに横たわる姿が牧歌的に描かれている田園のヴィーナスに対し、ウルビーノのヴィーナスは妖艶な眼差しで、観ている者を挑発します。

この絵(『ウルビーノのヴィーナス』)の前に行くと、真正面から見たり、横から見たり、離れたところから見たりするのですが、どこにいてもこちらを見ているような気がします。シーツのしわやヴィーナスのやわらかそうな足の指先とか……左手の指先がゆるく曲げられているところにも何とも言えぬ風雅な趣を感じます。世俗のヴィーナスとはいえその美には神々しさが宿る珠玉の1枚です。ヴィーナスの奥で、長持ちの中を調べている召使のような人物が意味深長ですがこの絵画のように、奥の部屋や窓の外の描写などの表現は、当時画期的だったのかと思われます。後に、イタリア絵画が北上し、フランスに大きな影響を与えることになりますが、その一例とも考えられるこのような絵画も存在しています。

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『入浴する貴婦人』(1571年)フランソワ・クルーエ ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵

この絵画には『ウルビーノのビーナス』で描かれたような室内奥の背景が描き込まれており、もしかするとクルーエは、どこかで『ウルビーノのビーナス』もしくはその模写を見ていたのではないか?と推測してしまいます。

『ウルビーノのビーナス』が所蔵されているウフィツィ美術館には、ボッティチェリの『春』や『ヴィーナスの誕生』、彫刻では世界史の教科書にも載っていた『ラオコーン』など、かつてのイタリアの栄華をまざまざと見せつけられるような場所です。まさに美の殿堂ともいえる場所ですが、意外にも、時間帯によって人が少ないこともあり、ゆっくりと名画を堪能することができます。昼下がり、自然光の差す静かな美術館の一室で1枚の絵画と対峙する、そんな夢の叶う場所でした。

話は戻りますが、『ウルビーノのヴィーナス』を見た数年後、日本にやってきたときには、この1枚のために上京しました。イタリアに行くことを考えれば安いものです。上野の国立博物館でした。朝でしたが、展示室に人は少なく、観ている人は互いに、視界をさまたげぬよう気づかいをしながら(東京で絵を見ているとそういう方が多いことに気づき、いつも嬉しく思います)各々の好きな位置から鑑賞をしていました。
国立美術館の重厚で静かな展示室は、『ウルビーノのヴィーナス』の時代の、薄暗いこの部屋の雰囲気と相まって、まるでそこにヴィーナスが横たわっているかのようなそんな気持ちとなり改めて感動をしました。この1枚にもまた会いたいです。


貴婦人と一角獣@ギュスターヴ・モロー美術館

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『貴婦人と一角獣』(1885年頃) ギュスターヴ・モロー ギュスターヴ・モロー美術館蔵所蔵

ギュスターヴ・モローの絵画は、パリにある私設の「ギュスターヴ・モロー美術館」に多くが所蔵されています。こちらの絵画もそのうちの1枚。『貴婦人と一角獣』という作品です。モローは、神話をモチーフとした作品を何枚も残しています。ルネサンスのころ、西洋に上陸した異教の神々は、モローの生きた19世紀末にはアカデミックなモチーフとしての地位を確立していますが、同時に印象派などの新しい美術の動きからすればそれは時代遅れのテーマでもありました。しかし、モローの作品は、伝統を重んじるアカデミーからは称賛されたものの今見ても新鮮です。彼の作品は古い・新しいなどの時代すら超越した、極めて独自のものだったということが一目見て明らかです。
こちらの絵画を見たのは、パリのモローの美術館にて。
らせん階段が印象的なこちらの美術館の展示室の真っ赤な壁紙にモローの絵画が神秘的な光を放って存在していました。

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写真:https://twitter.com/MuseeMoreauより

モローはたいへん裕福な家庭に育ち、生きている間にもその作品が広く評価を得ていたこともあってそれができたのでしょう。自身の作品の散逸を防ぐため、私設の美術館をつくるようにという遺言を残してこの世を去りました。
このように、ひとつの空間でその作家の作品を一堂に味わうことができるというのは、作家の世界観を味わえる素晴らしい体験だと思います。そのようなこともあって、やはり立ち去るのが惜しい気持ちで後にしました。

その後、昨年、国内で開催されたギュスターブモローの展覧会にて、この1枚と再会を果たしました。作品が飾られている部屋に足を一歩踏み入れて、真正面からその姿を見た時、胸がいっぱいになって、それから、思わずにこにこと、微笑んでしまいました。まるで懐かしい友人に再会したかのように。
モローの作品の中では、色彩が明るくて、やわらかく、牧歌的なたたずまいの作品です。赤はルビー、緑はエメラルドそのもの。一枚の絵から醸し出されるオーラの眩ゆいこと。モローの作品の素晴らしさを再度、感じさせてくれた展覧会の関係者の方々に感謝の気持ちでいっぱいとなりました。

まとめ

私たちの人生が100年にも満たないのに対して、1枚の絵画は、数百年も前から存在しています。幼いころ美術館で見た絵は、大人になっても何の変わりもありません。(若干劣化はしているかもしれませんが)
そんな1枚の絵画に宿る永遠のかけらを感じ、底知れぬ希望のようなものを感じることがあります。永遠という時のおすそわけをいただいたような気がして、生きる力を与えられるのです。
同じ作品を見ても、それを見た時の自分の境遇によって受け取り方や感じ方も変化します。1枚の絵を見て、前に見た時の自分の気持ちを思い出したりなどして、過去の自分とも対面するような気持ちになることがあります。その間も、その1枚はひっそりと美術館にあり、見つめる人々をあちらからも眺め続けていたのだなあと。最近は絵画もあちらこちらへと海外出張(!)などして忙しそうですが、いろいろなところで、さまざまなテーマでその姿を何度も見れるのは、本当にしあわせなことです。

これから私は何年生きるのか分かりません。しかし、美術館や展覧会という場を通して、さまざまな作品との出会いや再会を果たしていきたいものだと思います。
長文、おつきあいいただき、誠にありがとうございました。


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