生きるために「正しい自殺」を考える
・精神面と神経面での体調不良が3週間ほど続いている。
この日記を含め、文章を書く気も読む気も起きない。唯一kindleでゆるふわ無職さんの「徘徊する肉塊」を読んでいるくらい。(それはそうとこの本めちゃくちゃ面白いのでお勧めです)
一日中布団にくるまっていると、ふんわりと「死にたさ」が襲ってくる。
強烈な自殺欲ではないこれは、実行するほどの力も無く、ただ何となく人生に絶望している状態だ。
「死にたい」よりも、「あの時(真剣に死を考えていた時)死んでおけばよかった」の方が近い。
それはそうと、「正しい自殺」は何なんだろうかとよく考える。
(何度か引用しているが)ダ・ヴィンチ・恐山さんがエッセイ本でこう書いていたのが印象的だった。
私もこの文章を全面的に同意している。
自殺の理由として挙げられるものの殆どが、指の骨折の痛みが辛いから、それから逃げるために腕を切る(つまり死ぬ)という原理になっていて、やはりそれは適切ではないと思う。
適切ではないどころか、正直恥ずかしいとさえ思う。
その原因が無くなった状態を想像する力の欠如ではないかと思う。(勿論これは酷く暴力的な言い方であることは理解しているが)
殆どの痛みは、人生全体ではない。そう考えたら、たった数年精神障害に悩まされているだけで、家族にも友人にも国にも支えられている私の死にたさなんて恥の極みだ。
私も自殺自体は個人の尊厳だと思っているけど、私が納得する「正しい自殺」が全く思いつかない。
自殺は、冷静かつ緊張感をもっての長考の上での決定であるべきだと思う。
精神のバグに干渉された突発的な決定であるべきではないと思っている。
しかし、特に年齢故に出来ることがかなり制限された希望が無い老人でもない私に「正しい自殺」なんてできるのだろうか。
そればかり考えている。
そればかり考えているのに、なにも思いつかない。
思いつかないゆえに今も生きている。
この疑問こそが、最近の私が生きる動機となっている。
答えが見つからないから死ぬことが出来ない。正しい自殺をみつけられるまで死ぬことは出来ない。
「生きることがいかに素晴らしいか」と語りたいのではない。
答えが見つからないうちに自殺する人がいるからといって、私はなにもいうことができない。
それでも、この疑問についてひとまず考えてみてほしい。
できれば、夜、憂鬱な中で考えるのではなく、散歩をしながら考えてみてほしい。
この「正しい自殺」を考えることが、きっと自死からあなたを遠ざけることになると思う。
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