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ヒロイック・ファンタジー小説「兄弟と凍土」

第一幕 開扉

 摂政バーキャルクは、宰相ハンバルクと相対している。
 二人がいる遊牧民式の冬営用天幕の内部は殺風景で、文官というより武人の居室だ。
 壁沿いに物入れがいくつか、あとは机一つと椅子が二つだけだ。
 机上には筆記具のほか、何もない。
 もう夜で、天窓は閉じてある。外は静かだ。
「誰を身辺に置こうと、俺の勝手だろう」
 先ほどからずっと、バーキャルクは、愛刀の柄に指を打ち付けている。
 大振りな新月刀で、処刑人の道具といっても信じられるほどだ。
 木製の鞘は艶消しの黒一色と、簡素な物である。
「仰るとおり、陛下には権利がございます。わたくしめが申し上げるまでもございません」
 跪いている宰相は、摂政の佩刀に目線を合わせて微笑むと、柳の枝のような体を曲げて、頭を垂れた。
 白く長い髭が床をする。
 老人は武器を帯びていないが、長衣の腰から動植物の干物をいくつもぶら下げている。
 羊毛製の衣服に、五芒星を始めとする幾何学紋様があしらってある。
「殿下だ。俺は摂政で、王子だ」
 王も王笏も行方知れずになって久しい。
「謙遜の美徳を備えた甥御を持てるとは、わたくしめはなんと幸せなのでしょう。さすれば、不肖ハンバルクをお側に置く価値もお分かりでしょう」
 バーキャルクは閑散とした天幕のなかを見回す。
 かつて兄とともに忍び込んだ、ある高官の部屋は書類の渓谷だったと思い出す。
「分かった。頭を上げろ」
「さすがは殿下。下々の者がお慕いするのも道理です」
 下々の、と聞いてバーキャルクは顔をしかめた。
「息子は元気か?悪い噂ばかり聞くが」
「バルクですか…」
 叔父は目を細めた。
「嫉妬でしょう。遠国の人間が、あいつの勇猛果敢さを羨むあまり、あることないこと言っているに違いありません。ここ北方で育った草原の民こそ、世界一の戦士ですから」
「草原育ちの簒主を滅ぼしたのは、どんな奴らだったか、忘れたのか?」
 バーキャルクは、腰に挿してある短剣をさすった。
 柄頭は純金、鍔には五つの紅玉を留めた逸品で、摂政位を示す。
「殿下の親衛隊は南方育ち、とくに御小姓は常夏の島で育ったそうですが、暖地の軟弱者を寒冷高燥の地で過ごさせるのは、酷ではありませんか?」
「軟弱なら、どうして俺がここにいる」
「これはこれは。仰るとおりです。御身は己の肉体と鋼を篤く信じるように、手下をも信じてらっしゃる。まことに高徳の御仁であらせられる」
 宰相は身振りを交えて述べ立てた。
 腰に提げている薬草やら何やらの臭気が天幕いっぱい広がる。まるで薬箱の中に入ったかのようだ。
 バーキャルクを咳払いをした。
「世辞はいい。要件を言え」
「承知しました。恐れながら謹んで申し上げます…」
 叔父はようやく、もう五回目となる陥没について報告した。
 これまで同様に、穴が開いたのは草原のなかでも北のほうで、寒さが厳しく地面が凍りついている土地だ。一族の者は鋼土の台と、よそから来たものは凍土と呼び習わしている。従来と違うのは、摂政の天幕から、一日たらずの場所で穴が開いたことだ。
 良いことは、陥没の報告が一日足らずで届いたことだけだった。
 悪いことは多かった。今回は放牧されていた家畜たちの足元の地面が崩れた。羊や馬が何頭も犠牲になり、牧童も一人死んだ。原因不明の陥没が続くせいで、遊牧を主とする民衆は困惑し、恐怖している。
 さらに、穴について面倒な評判が立ったらしい。もはや読めるものがいない文字を刻んだ石をいくつも残した、太古の王朝の墓が現れたと、いう風説が流れたそうだ。
 噂を聞きつけた向こう見ずな若者たちが、陥没によって生じた穴を掘り下げた挙げ句に、別の穴を見出して中に入り込んだともいう。
「どうなった?」
「頼りがないのは…」
「元気の証、とでも?」
「わたくしめは民草の語りをお伝えするだけでございます」
 バーキャルクは肩をすくめた。
「噂に過ぎませんが、摂政殿の徳が足りないから天変地異が起きるなどという声もありまして…」
「誰が言ってるんだ?その噂は」
 バーキャルクは叔父の目を見つめて問いかけた。指は新月刀の柄を叩いている。
「さあ。なにせ噂ですから」
 老人は肩をすくめた。
「いまから調査に出る。俺一人でだ。急ぐからな」
「もう夜ですよ。明日になさっては?」
「要らん。一人で行く。困っている民のもとへ駆けつけるのが遅れても良いというのか?」
「滅相もございません。下々の者を気にかけてばかりで、大事を見失うことが心配なのですよ。陛下」
「殿下だ」
「失礼いたしました。どうか、私の申し上げたことを、ゆめゆめお忘れなきよう。下賤の者と過分にお戯れになりませんよう、願い申し上げます」
「もう下がれ。俺は旅支度で忙しくなる」
「承知しました。罷り出でるとします」
 宰相が立ち上がって後ろに下がる。
 老人が出入り口の厚布を持ち上げると、護衛二人の顔が見えた。
 一人は、バーキャルクの知らない顔だ。
 摂政の衛兵は叔父の傭兵と自分の仲間とで、半分ずつ出している。宰相の衛兵も同様だ。
「兵を増やしたのか」
 バーキャルクは叔父の背中を見つめている。
「誰を身辺に置こうと、私の勝手でしょう」
 叔父は振り返って唇を釣り上げると、垂れ幕を両手で押し広げて出ていった。夜の草原に吹く冷たく乾いた風が、薬臭い天幕の空気と入れ替った。

 宰相が去ってまもなく、出入り口の布が音もなく動いた。
 バーキャルクは持ち上げていた角弓を、さりげなく元の場所に置いた。
 誰かと、問うことはない。取次なしで入ることができるのは一人だけだ。
「閣下」
 来客に背を向けたまま、摂政はもてなしの用意をする。
「かけてていいぞ」
 バーキャルクは、袋に詰めた干し果物と木の実を、三枚の皿にあける。皿を二枚持って振り向き、机に置く。
 膝立ちの来客の肩から長手鼠が飛び下りる。
 飼い主の名はキウードという。
 鼠は机の脚をよじ登って皿に飛びつき、長い腕で果実をかき集めて口に詰め込む。
「元気そうだなあ、エイチェ」
 バーキャルクが、指で鼠の背中をなでる。
 鼠は心地よさそうだ。
「そろそろ楽にしてくれよ」
 床で低頭している若者に、摂政が呼びかけた。
 キウードは南洋の海賊が使う短刀を帯びている。帯刀して摂政の天幕に入れるのも、一人だけだ。
「『楽に』と言われても困ります。いまの閣下は摂政なのです。もう海賊の親分ではないのです」
 若者が少しだけ頭を上げて答えた。まだ子供らしさが抜けない顔つきだ。夜ふかしが楽しくて仕方がない年頃といってもいい。
「俺が摂政なら、お前は小姓というわけか?」
「左様でございます、閣下」
 小姓と呼ばれて、若者は嬉しそうな表情を浮かべた。
「やれやれ、昔は『親分』だったじゃないか」
「今は今です」
「顔くらいまともに見て欲しいものだ」
「誰が太陽を直視できますか?」
 摂政は苦笑して、肩をすくめた。
「かけてくれよ。小腹が空いてる時間だろ?」
「かしこまりました」
 ようやく若者が席につく。
 バーキャルクが果実をつまむと、キウードも遠慮がちに果実をつまんだ。
「叔父貴のことだろう?」
 二人は顔を近づけ、囁き声で話し始める。
「相変わらずです。医術と薬術の本に混ぜて、妖術、道術、法術、錬金術に占星術、読心術、そのうえ回春術まで」
「ほかには?」
「真夜中の遠乗り、嗅いだこともない香、聞いたこともない拍子の鳴弦、薬膳と称するいかがわしい鍋物。おかげで夢でうなされそうです」
「なら泳がせておけよ」
「よろしいのですか?」
 若者は唇を尖らせた。
「草原の祖法には反してない」
「私の故郷なら鮫の餌ですよ」
 バーキャルクは首を横に振る。
「証拠も集めずに片付けては、摂政の力を恣にしている悪党という評判がたつだけだよ」
「妖術師は危険です。早く渡り板を歩かせましょう」
「せいぜい甲板磨きで十分さ。薬くさいのには俺も参ってる」
「あの妖術師が閣下を嫌ってらっしゃるのは、誰の目に見ても明らかです」
「証拠が無い、ほおっておけ」
「ですが…」
「そのうちボロを出す」
 バーキャルクは、飽食してくつろぎきっている長手鼠の尻尾を指差し、言葉を継ぐ。
「お前も知ってるだろう?俺が妖術の産物をどれほど叩き切ってきたか」
 バーキャルクは、腰に提げた大振りな新月刀を叩いて見せた。
「…かしこまりました」
 キウードは頬を、エイチェは腹を膨らませて、幕舎から退出した。
 早まらんでくれよと、バーキャルクは声を出さずにつぶやいた。
 陥没は収まらない、政敵のしっぽは掴めない、はやる仲間の気も抑えていられるかどうか分からない。白髪も生えたに違いない。
 公明正大な支配者になることは「兄」を売り飛ばしたことの贖罪だ。
 疑わしいと言うだけで、不可逆の決断をしたくない。

 天幕の外に出ると、雲が月を隠していた。
「親分、どいつをご所望で?」
 摂政が家畜のところへいくと、馬番が飛んできた。
「乗馬と荷馬を一頭ずつ頼む」
「すぐに支度しやす」
「自分でやるよ」
「そういうわけにはいきやせん」
 相手は腰に両手を当てて言った。
「分かったよ。糧食やら何やら、買ってくるから、ゆっくりでいいぞ」
「親分なら『買う』こたないでしょう」
「摂政でも、物を手に入れるには値を払うのが当然だ」
「親分は奴隷市で買った人足にも、志願兵と同じ扱いをする人でしたね」
 にやりとして、馬番は仕事にかかった。
 バーキャルクが、眠りこけている司厨長の傍らに代金を置いて、糧食や各種道具を持って戻ると、馬が三頭用意されていた。
 すらりとした黒鹿毛の乗馬。
 ずんぐりした芦毛の荷馬。
 鼻息の荒い栗毛。
 三頭目の傍らに、キウードがいる。
 探検に出るようななりをして、肩にはエイチェも載せている。
 バーキャルクは嘆息した。
「閣下、私も…」
 バーキャルクは頭を振った。
「行くのは俺だ」
「陥没のどこが危険なのですか?」
「きっと崖みたいになってるぞ」
「マスト昇降なら得意です」
「俺だって得意だ」
「でも…」
 バーキャルクは馬番の方をみる。
 相手はキウードの死角に立ち、手綱を確かめるフリだ。
 馬番はバーキャルクに片目をつぶってみせた。
「宰相みたいに何をこそこそやろうというのですか」
「しぃっ、声が大きい」
「申し訳ありません」
 キウードは頭を下げた。
「よく聞いてくれ。お前たち仲間だけなんだ。例のあの人が、良からぬことをしようとしたとき、止められるのは。今は一人でも多く、この本拠に俺の仲間を残しておきたい。だから、お前も、他の仲間と一緒に残ってほしい。頼む」
 バーキャルクはキウードの目を見て言った。
「承知しました、閣下。必ずや敵の術策を阻止してみせます」
 相手は首肯した。
「じゃあな」
 うなずき返すと、バーキャルクは馬上の人となり、北へ向かった。
 道中では穴のことも考えたが、留守中に叔父とキウードの間で何も起こらないことも願っていた。
 雲は流れ去っていた。

読者の皆様へ(あらすじを知ってから読みたい方は→こちら
 「兄弟(あるいは兄or弟)〜」でタイトルが始まる本シリーズは一話読み切り形式です。たしかに、本作と本シリーズ内の他作品は設定が共通です。しかし、他作品を購入されていなくても大丈夫。本作は独立した短編です。要するに、単行本にまとまる前のエルリックやディルヴィシュみたいなことが、やりたいんだなと思っていただければ幸いです。
 210313追記のお詫び:上記に事実誤認があり、お詫びいたします。エルリックもディルヴィシュも、作中の時系列と同じ順番で発表されていました。
 まず、単行本にまとまる前のエルリックは作中の時系列と同じ順番で雑誌に発表されていました(『この世の彼方の海』早川書房、2006の「解説」による)。また、ディルヴィシュについてもほぼ同様です。「《氷の塔》」(1981発表)のあとに「血の庭」(1979発表)がくる点をのぞけば、作中の時系列と同じ順番で発表されています(『地獄に堕ちた者ディルヴィシュ』東京創元社、1988の「解説」による)。
 以上のように「要するに(中略)幸いです。」の箇所は誤りでしたので、訂正いたします。事実確認を怠っており申し訳ありません。
主要登場人物
バーキャルク・・・遊牧民の王子、摂政。
ハンバルク・・・・摂政の叔父。妖術師と噂される。
キウード・・・・・バーキャルクを慕う若者。短刀使い。
ダームダルク・・・バーキャルクの兄
古のもの・・・・・凍土の下に眠るもの

第二幕 古のもの

 翌日の昼過ぎ、バーキャルクは地平線沿いに人と家畜の一団を捉えた。
 人だかりを目指して駒を進めていくと、前方から何かが飛来した。
 摂政は挨拶でもするかのように手を上げ、頭の右上方で飛来物を捕える。
 雁羽の矢だ。鏃は木の葉型で、荒削りだが悪くない出来だ。葦の矢柄に、文が結びつけてある。
 書状を一読すると、バーキャルクは眉をひそめ、先の一団めがけて馬たちを急がせた。
 相手方は、遊牧を営む小規模な一族で、移動中らしい。近づいてくるものの正体に気付いたのだろう、畏れをたたえた眼差しを向けてくるものがいる一方で、人垣の向こうでは牧童たちが裸馬にまたがって、輪縄のついた長棒を自由自在に操り、羊や馬を集めている。
 大人たちが一人の少年を、集団の外縁に突き出している。
 子供の足元には弓矢がある。傍らでは両親らしい男女が平身低頭して地面に手をついている。
 少年の肩を押さえつける大人たちの指は白く、凍りついた大地に接する男女の指は赤い。
「その子を離せ。お前たちも立て。早く体を温めろ」
 相手の一団は、呆然とした様子で、動こうとしない。
「早くしろ。俺は無傷だ」
 バーキャルクは、鞍から飛び降りて少年に駆け寄る。
 大人たちは、熱いものに触れたかのように、子供から手を離す。
 両親らしい男女も、ようやく立ち上がる。指先はしもやけ程度で済んだようだ。
「摂政殿、僕の弓、すごいでしょ。遠矢なら誰にも負けないよ」
 子どもが語ると、大人たちの顔が青ざめた。
「君だね、矢文をよこしたのは」
 子どもは頷く。
「名前は?」
「ガジャルク」
「親衛隊に入れてくれる?」
 輝く少年の瞳を見て、バーキャルクは苦笑した。
「もっと練習したらな。俺の頭から腕半分も逸れていたぞ」
「はーい」
 子どもは肩を落とした。
 他の者達は一言も発することが出来ずに、二人のやり取りを聞いていた。
「矢文は読んだ。この子は文章も上手だな」
 バーキャルクは沈黙を続ける大人たちを見回す。
「三番目の陥没穴は、あなた方の牧草地に生じた。穴の中から大きな象に見えるが、毛むくじゃらの生き物の死骸が出てきた。放って置くと虫が湧きそうで心配だ。対処法を知りたい。訴えの大意に相違ないか?」
 死骸の話は叔父からの報告には無かった。
 摂政の言葉に、民衆は揃って頷く。
「焼け。費用はこちらで出す」
 バーキャルクが下知すると、人垣のやや後ろから手が上がった。
「前に出て良いぞ」
 抜け目ない雰囲気をたたえた中年の男が現れた。
 通り一遍の謝辞を述べてから本題に入る。
「象牙も焼くのですか?相手は毛むくじゃらとはいえ、まぎれもなく象です。牙の巨大なことと言ったら、摂政殿の御愛刀を収める鞘にもできるほどでして。丸焼きにしてしまうのはもったいないかなと…」
 男は背中を丸めて上目遣いで述べた。
「象牙も焼くんだ。鞘なら間に合ってる。摂政の沙汰だぞ」
「…仰せのままに」
 男は聞こえるようなため息を付いて下がった。
 一団の中からも「陥没で損ばかりだ」「川の流れだって変わった」「困る」と、不満げな声があがる。
 バーキャルクは口を開きかけたが、遠矢童子のガジャルクが機先を制した。
「みんな馬鹿だなあ。象牙は取っていい、なんてことになったら、もっと困るんだぜ。カネ目当ての悪党が群がって、そこらじゅうほじくり返して、家畜に食わせる草を根こそぎにしちまうさ。そんなことも分かんないの?」
 大人たちが気色ばんだところに、バーキャルクが割って入った。
「ガジャルク、道案内を頼む。五番目の穴に行きたい」
「まかせてください。摂政殿に会えると思って、五番目まで行くところだったんです」

 目的地についたのは昼下がりのことだ。
「摂政殿のお通りだぞ!穴の検分にいらっしゃったのだぞ!」
 頼んでもいないのにガジャルクが先触れにたった。
 少年はバーキャルクの乗馬の手綱を取り、誇らしげに歩いている。
「恥ずかしいからよしてくれよ」
「こうでもしなけりゃ、近づけませんって」
 先触れの言う通り、第五の陥没穴の周囲には、いくつもの氏族が集まっているようだ。人と動物とで相当な規模の集まりが出来ていたが、少年のおかげでバーキャルクは群衆に阻まれることなく、穴の縁にたどり着いた。
 大きな穴だ。
 老若男女を問わず、人々が期待に目を輝かせて駆け寄ってきて、口々に語り始めた。
「大穴の底に、もう一つ穴があるのです」
「家畜が群れごと落ちましてね、底が泥沼なもんだから、えらい大変だったんですよ」
「そこの縄梯子は、ウチの息子が作ったんですよ」
 ある婦人が、大穴の縁から底へと垂れている梯子を指差して、声を張った。
「縄をなったのはウチの家内だ。覚えておいてください、摂政殿。ウチの縄は…」
 息子自慢に負けじと、別の男も大声を出した。
「それより板橋だよ。あれは全部ウチの一族の戸板なんだからね。みんなの羊や馬が助かったのは、ウチが家財を文字通り投げ出して、沼に人が降りられるようにしたからなんだからね」
「あぶねえ、いい忘れるところだった。摂政殿、代わりの扉を買い付ける金子はいただけるんですよね?」
 ぬかるんだ穴の底に並べられた板を指して、夫婦らしい男女がバーキャルクを見つめてくる。
「もちろんだ」
 バーキャルクが首肯すると、相手の男女は快哉を叫んだ。
 摂政は、他の人々の目が険しくなったのを察して、今度は自らの手を動かし、群衆に問いかけた。
「教えてくれ。大穴の真ん中にある木組みは何だ?井桁のようだが」
 バーキャルクが指差した先では、木組みが窪地の底の泥を押し返して、下へと続く暗い竪穴を形作っている。木組みの傍らで、解読不能な文字で書かれた石碑が、かろうじて泥の上に浮いている。
「大変申し訳ございません。摂政殿」
 答えたのは老婆だ。背中はやや曲がり、八割方が白髪だ。
「なぜ詫びる?」
 バーキャルクは腰を落として尋ねた。
 老婆は恐縮したような身振りをして答えた。
「墓荒らしが来たのです」
「不届き者たちの話なら聞いたよ。大昔の王朝の噂に釣られたとか」
「王朝?私の曾祖母様は『古のもの』と語っておりました」
 老婆は、穴の底の石版に目をやった。
「まあいい。井桁と竪穴は、墓荒らしの仕業なんだろ?」
 バーキャルクは、窪池の中央を見つめながら問いかけた。竪穴には丈夫そうな縄梯子も掛けてある。
 内心では、泥濘のなか僅か一日で掘削工事をしてのけた盗掘者たちに感心していた。
「その墓荒らしでございます。連中は四人組でして、実は…」
「おい、婆さん。危ないじゃないか。そんなところにいたら」
 老婆の語りを、若者が遮った。
 バーキャルクは声の主へと首を向けた。
 人垣の中から、若者が出てきた。
「安心してくれ、私が見ている。そんなに青い顔をしなくても平気だよ」
「とにかく墓荒らしが来て、竪穴に入っていったんですよ」
 摂政の返事にも構わず、若者は声を張り上げた。
「その話をいまから聞くところだ」
「いま俺が申し上げたことで十分ですよ」
「君のお婆さまは、不十分と思っているようだぞ」
「うちの婆さんを返してください。早く」
「急かさなくても大丈夫さ」
 バーキャルクは微笑すると、老婆の手を取り、若者のもとへ向かう。
 改めて群衆を見渡す。当然ながら不安げな表情のものばかりだが、人々の視線は摂政や大穴に向けられるばかりではない。老婆への視線も多い。
「みんな。頼むから全て話してくれ。私は陥没を止めに来た。ここにきたのは私一人だ。何を話しても、全部私一人の胸にしまっておける。だから、秘密は無しだ。天と剣に誓ってもいい」
 摂政が大音声で呼ばわると、先ほどの老婆が再び口を開いた。
「あの『バルク』なのですよ。墓荒らし共の筆頭が」
 バーキャルクは苦笑しながら頷いた。
 宰相の息子が行方不明とは、叔父の報告には無かったことだ。
 助けてやれば貸しを作れる。もしもくたばっていたら借りになるだろう。
 叔父はそういう奴だと、バーキャルクは知っている。
「宰相は知っているのか?」
「ご存知ないでしょう。私共はみな口裏を合わせたのですから」
 老婆が答えると、人々の顔が青ざめた。
「告げ口なんてしないよ。叔父貴には結果だけ伝える」
 バーキャルクは、腰に下げた新月刀を叩いてみせ、にこやかな表情を無理矢理に作って語りかけた。
 従兄弟のおかげで、穴を見るだけではなく、穴に入ることは、運命づけられたも同然だ。
「摂政殿、どのようにすれば陥没は止むのですか。ここが五件目だと伺ってますよ」
 群衆の中から、誰かが質問した。
 堰を切ったかのように、他の者たちも同様の問いを投げかける。
「正直に言おう。私にも分からない」
 よく通る声でバーキャルクが答えた。
 群衆の間に動揺が広がる。
 バーキャルクは無言だ。
 ざわめきは収まらない。音の波が干渉しあって、増幅されていく。
 傍らにいるガジャルクが、音を立てて唾を飲んだ。
 そのとき、バーキャルクは剣を抜き放った。
 鞘走る音が清寒を貫く。
 人々は静まり返った。
 摂政は、黄金と紅玉を備えた、摂政位を示す短剣を中天に掲げる。
 白日が剣を燃え上がらせる。
「天と剣にかけて誓う。必ず陥没の原因を断ち切ってみせる」
 寄り集まっていた者たちは、若き摂政の宣言に熱狂した。
 バーキャルクは細く息を吐きながら剣を下ろし、鞘へと静かに収めた。
 摂政のこめかみに冷や汗が浮いている。
 平原育ちだからというわけではないのだが、バーキャルクは閉所恐怖症である。

 いよいよ窪地に下りる時間だ。従兄弟を連れ帰り、陥没の原因を突き止め、断ち切るのだ。
「崩れるといけない。下がってくれ」
 バーキャルクは窪地の縁に留めてある縄梯子を見て、周囲の人々に呼びかけた。
「崩れたら摂政殿は真っ逆さまです」
「私たちが支えます」
「ご安心を」
 人々は、怖がるどころかむしろ率先して、窪地の縁で陥没穴がよく見える場所までやってきて、縄梯子を握りしめた。梯子に手が届かないものは、梯子を握る者の腰を掴んでいるようだ。寝物語に聞いた大蕪の収穫を思わせる光景である。
 バーキャルクは苦笑交じりに感謝の仕草をする。縄梯子をつたって板橋に降りるのは容易い仕事だ。
 群衆は摂政の身軽さに、感激の声をあげた。
 陥没穴の底では、崖に切り取られているとは言え、まだ青空が見える。板橋も体重を十分に支えているし、怖いものはない。あたりを見回すと、窪地の側壁のいくらかの部分を、薄茶色の塊が占めていることに気がついた。
 塊の正体は氷であった。日差しを浴びて、つやつやと光っている。溶けているのだ。
 バーキャルクは、凍りついた土中の水分が溶けたから陥没が起きたのではないかと、いう可能性に思い至る。なぜ溶けたのか。真相を突き止めるのは、自分の役目だと信じている。
 穴の縁から、人々がバーキャルクを見つめている。
「大丈夫だ。どうか、仕事に戻ってくれ」
 摂政は民衆へと呼びかけ、手を振った。
「頑張ってください」
「ご武運を」
「煮込み作って待ってますよ」
 声援が返ってくる。人々はその場を離れようとせず、期待の眼差しを摂政に注ぎ続ける。
 バーキャルクは、音を立てずにため息をつくと、板橋を歩んでいき、木組みの端に至った。
 木組みが形作る四角い竪穴を覗く。
 先は見通せない。
 摂政は、泥の上に横たわっている石碑を見つめた。
 他の仲間ならいざしらず、キウードには狭いところが苦手だと明かしたくはなかった。英雄にも平凡な人間的な弱点があることを教えて、若者を失望させたくなかった。宰相については言うまでもない。
「殿下。梯子が危険でしたら、代わりをご用意いたします」
「わしの梯子は丈夫ですよ」
「うちのだって」
 再び人々が声援をよこす。
「大丈夫そうだ。安心してくれ」
 バーキャルクは笑顔を作って答える。
 実際のところ、盗掘者たちが用意した縄梯子は、頑強な作りに見える。
 バーキャルクは深呼吸して、縄梯子に取り付いた。顔に浮かぶ冷や汗を、人々が緊張の汗だと思ってくれることを願いながら、一段ずつ降りていく。自分の心臓の音が聞こえてきたような気がする。下りるたびに空が狭くなっていき、最後には四角く小さい窓から、空を見上げるようになった。
 まるで地下牢だと思う。
 日が傾いていく。

 底に降り立った途端、眩い光がバーキャルクを包んだ。
 腰に提げた角灯の比ではない。目が痛むほどだ。
 全てが白く見える中で抜刀し、耳を澄ませる。
 息を殺して待つが、何の気配も無い。
 次第に目が慣れる。バーキャルクは鍾乳洞に降り立ったと理解した。
 出どころのしれない光源が、広々とした空間を隅々まで照らし出している。石筍と鍾乳石が並び、天井や岩壁には水が染み出したような跡がある。草木の匂いも動物の匂いもなく、空気は冷えていて静かだ。
 バーキャルクは角灯を点けたまま辺りを探る。
 鋲打靴の跡が四人分あった。
 いずれも同じ方角へと、途切れること無く続いている。
 盗掘者たちのものと見てよさそうだ。
 バーキャルクは先客の足跡をたどり始めた。
『カエレ!』
 途端に、空気を震わせること無く、声が響いた。
 時同じくして、矢頃にある大石の陰から何かが飛び出す。
 鋼青の羽を持った蝶のような存在だ。大きさは熱地の虫に匹敵する。
 バーキャルクは、背中の角弓を手に取ると二股の矢をつがえ、絹の弦を引き絞って放った。
 弦音が窖に響き渡る。
 矢は相手の胸を射抜き、頭と胴とに両断した。
 蝶らしい存在は地面に落ちると雲散霧消した。
 弦音の余韻と、勢い余った鏃が岩に当たる音が洞窟のなかで響くが、バーキャルクは顔色一つ使えない。眉間に皺を寄せて矢の落下点に目を凝らしている。
 奥に控えているのが何であれ、自分が鍾乳洞に降り立った時点で侵入に感づいていることだろうと、バーキャルクは思った。
 襟巻きで鼻と口をおおい、落下した矢弾のもとへ向かう。
 獲物を貫いた鋼の鏃は、黒鉄色から緑青色に転じつつあった、見つめる間にも色彩は変容していき、数呼吸のうちに塵と化した。
 刀ではなく矢を使ったのは、正解だったようだ。
 バーキャルクは、塵を舞い上げないよう慎重な足取りで、再び歩き始める。
「大人しくしていてくれよ」
 キウードとハンバルク叔父の間で厄介事が起きるまえに、陥没を止めたいと思う。

 やがて、バーキャルクは急な上り坂、あるいは緩やかな崖とでもいった地形に遭遇した。斜面には大人の腰丈より高い水晶が、剣山のように密生している。煌めく林のなかに一本だけ、人ひとりが通れるだけの隙間がある。
 上方に目を転じる。斜面の天井およびそのさきしばらく、巨大な鍾乳石が無数に垂れ下がっている。
 左右を探るが、迂回路は見当たらない。
 決められた通路と、天井の巨石をみて、バーキャルクは顔をしかめた。
『カエレ!』『カエレ!』『カエレ!』
 ふたたび鋼青の蝶らしきものが現れた。
 バーキャルクは三匹とも難なく射抜く。
 鏃は緑青色の塵埃と化す。
 周りを見渡すが、他に動くものの気配はない。
 登攀にかかる前に、バーキャルクは鏃の先で水晶を小突いた。鉄に変化はない。次に、仔羊の革手袋越しで水晶に触れた。異常は感じない。堅木で作った刀の鞘で叩く。何も起こらない。
 バーキャルクは腰にさがる邪魔な角灯をしまい、再び鍾乳石を見上げてから、狭い歩幅で登り始めた。

 足元にも、天井にも、左右にも、動くものはない。
 頂上まであとしばらくという時、なにかの気配がした。
 頭上ではない。
 背後だ。
 バーキャルクは両脇の水晶に手をかけ、大弩のような勢いで跳び上がる。
 後ろから来た何かが、耳の横を飛び抜ける。
 片方のふくらはぎには刺された痛み。
 腹ばいになって頂上に着地した。もう水晶の林はない。ありがたいことに、足場が悪いなりに十分動き回れる広さがある。
 膝立ちになり、目だけを動かして上を確認する。
 鍾乳石はびくともしていない。
 痛みの源を改める。
 水晶でできたような紫色の針が、厚手の下袴を貫いて肉に達している。
 深いが、傷口の径は小さい。
 バーキャルクは眉一つ動かさずに、棘を引き抜いた。
 広間には血痕がいくつも散らばっているが、詳細な検分をしている余裕はなかった。
 何かが道を登ってくる。
 ヤマアラシのような見た目だが、大柄な猟犬よりも大きい。背負っている針は、先ほど引き抜いた棘と同じ見た目をしている。
 膝立ちのまま、バーキャルクは三角鏃の矢を二本放つ。
 両方ともヤマアラシらしい存在の頭蓋に飛び込んだ。
 獣は宙を舞い、崖下に消える。
 息を継ぐ間もなく、二頭目が登ってきた。
 再び矢を放ったが、一射で止める。
 結果を見る暇も無い。
 敵が煌めく針を振りまいたからだ。
 バーキャルクは伏せて転がって躱す。
 棘の雨が、矢を逸らしたのだろう。
 まだ獣の動く気配がする。
 バーキャルクは、即応の姿勢をとり、敵に殺気を放った。
 挑戦に応じるかのように、獣は睨み返してくる。
『引き返せ』
 聞き覚えのある声がした。
『邪魔立てするな』
「ごもっとも」
 バーキャルクは囮の歩法をとる。
 獣は期待通りの反応を示した。
 誤った向きに放たれた針が空を切る。
 バーキャルクは稲妻のような動きで踏み込む。
 相手が向きなおるより早く鞘を払う。
 紫電一閃。
 倒れ伏した獣を見て、バーキャルクは瞠目した。
 確かな手応えも、斬った痕もあるというのに、全く血が流れ出ないのだ。先ほどの蝶のように、雲散霧消することもない。
 バーキャルクは得物を構えたまま飛び退く。
 刀身はきれいなままだ。
 周囲を見渡すが、新手の気配はない。
 今度は慎重な足取りで、倒れている獣へと近づく。
 横目で坂の下を探ったが、一頭目の死体は見つからない。
 二頭目の傍らに、バーキャルクが腰をかがめた刹那、頭上で何かが弾けるような音が走った。
 一つではない。複数だ。
 縮めていた膝の撥条を最大限に伸ばす。
 踏み切った瞬間、棘に刺されたほうの足に痛みが走った。
 空中で刀を鞘に収める。
 目をかばいつつの後方宙返りだ。
 地を揺らす轟音とともに、何本もの鍾乳石が、先ほどまでバーキャルクがいた一帯に降り注ぎ、石の欠片と粉塵を辺り一面に撒き散らした。
 咳き込みながらバーキャルクは辺りを探る。
 獣が倒れていたところには、石の山が出来上がっていた。死体はもう見えない。抜いて捨てた水晶の針も見当たらない。
 獣達との戦いが幻覚ではないことを示すのは、ふくらはぎの脈打つ痛みだけだ。

 バーキャルクは傷口を改める。
 足には見たこともない様相の膿が生じていた。少しずつ痛みが広がる。
 摂政は声を出さずに悪態をついた。荷物の中から強い酒を取り出して傷口にかけ、薬草もあてがったが、効くかどうかわからない。
 広間にある血痕が、再び意識にのぼってきた。
 宰相の息子を含む四人の盗掘者達も、あの獣の同族と交戦したのだろう。
 赤い線が洞窟の奥へと続いている。
 先客は生き残ったらしい。今の時点でなんともいえないが。
 バーキャルクは痛む足に鞭打って先を急いだ。
 血痕を辿り、いくつもの鍾乳石と石筍が立ち並ぶなかを通り過ぎていくと、ひときわ大きな石筍の周りに、四つの石塚が並ぶ場所にたどり着いた。血は塚の根本で終わっていて、出血の総量は少ない。
 バーキャルクは石塚の頂点にある石へ目を留めた。見慣れた印が刻まれている。自分たち草原の民が葬送に使う印だ。印のある石は全部で四つあり、四つの塚にそれぞれ一つずつ置かれている。
 石筍の向こうに動くものがある。印を刻んだ者に相違ない。

 現れたのは「兄」ダームダルクだ。
 バーキャルクは胴抜きの要領で兄を斬り捨てた。
 踏み込んだ勢いのまま、地を蹴って前に跳ぶ。足の痛みがひどい。
 背中に不可解な気配を感じる。
 空中で後ろに向き直る。
 斬ったはずの兄の傍に兄が立っている。
 死に追いやったはずの兄が現れた。兄にもう一度引導を渡したら、生きている兄が現れた。手応えはあったのに、どこにも血がない。変わり身というやつか、それとも真正の妖術か、バーキャルクには判断がつかない。
 兄の腕からは何本もの鎖分銅がぶら下がって、それぞれ別の周期で振り子のように動く。分銅同士が打ち合っては記録し難い多拍子を奏で、バーキャルクの混乱に拍車をかける。
「帰り道が分からんか?」
 兄は腕を動かしてもいないのに、弟めがけて幾連もの鎖分銅が飛来する。
 避けるには足の痛みがひどい。剣で受ければ、回転する鎖の端にある分銅が、胴や頭を打ち砕くに違いない。
 バーキャルクは得物を抜く。
 利き手ではない手で鞘を掴み、飛来する鉄蛇の群れへ投げつける。
 木刀同然の長い鞘に、帆桁すら受け止める弟の膂力が加わる。鞘は旋風を巻き起こし、鎖を次々と絡め取りながら突進する。
 堅木と黒金の衝突する音が洞窟に反響する。
 ほどなくして、鎖は尽き、鞘も力を失い、全ては奇々怪々なる一つの塊となって、両者の中間に落ちた。
 双雄は睨み合った。
「久しぶりだな、兄者」
「おぬしこそ」
「どうやら本当の魔法を手に入れたと見える」
 バーキャルクは目だけを動かして、倒れている兄と、生きている兄が提げている鎖を見た。
「おぬしの目にも分かるように演出してやったのよ」
「目か。『紫の目』の塔で干からびたとばかり思っていたが」
 バーキャルクは吐き捨てた。
「会えて嬉しかろう?」
 兄は薄笑いを浮かべている。
「嬉しいさ。兄弟殺しは自分でやるに限る」
「同感じゃ。さあ、いくらでも斬るがいい。わしほどの大魔術師になれば、殻を三つ四つ用意するのは造作もないがな」
 鼻を鳴らすと、弟は武器を下ろした。
 兄の分銅も止まった。
 洞窟に静寂が戻る。
「おぬしの仲間か」
 兄は石塚に目線を向けた。
「一人、生かして連れ帰る必要があった」
「おぬしはわしの、わしはおぬしの邪魔をしたと、いうことじゃな」
「そうだとも。貸し借り無しだ」
「おぬしのせいで仕事が難しくなったことにかわりはない」
「知ったことか。こっちは手間が省けた」
 バーキャルクは新月刀を捨てて弓を構え、逆棘つきの矢をつがえる。
「待て。封印が解けると、おぬしも困るぞ。いまのおぬしは、民を預かる摂政だろう」
「解ける?」
 バーキャルクは弦を引き絞ったまま尋ねた。
「地の中の氷が溶けているのを、おぬしも見たはずだ」
 先ほどから兄は、自分を邪魔者扱いしている。邪魔といっても、王位継承の意味合いではないようだ。兄はバーキャルクのことを、封印とやらについての妨害者とみなしているらしい。
 バーキャルクは首肯した。
 頷いた拍子に、冷や汗が頬を伝う。
 足の痛みは悪くなる一方だ。
「氷が溶ければ封印も解ける。おぬしもわしも困る」
「手を貸せと?」
 バーキャルクは狙いを逸らした。
「足を癒せと?」
 兄は見透かすような視線を飛ばしてきた。
「俺は協力する、兄者は治療する。貸し借りなしだ。嫌なら帰るぞ」
 バーキャルクは強いて笑顔を作りながら、舞踏の足さばきをしてみせた。
「取引成立じゃ」
 兄は頷くと、両手が空になっているのを示しながら近づいてきた。
 弟も頷いて、武器を収めた。

 バーキャルクは、兄が自分の手当をするさまを注視した。洗浄に使ったのは匂いからして酒だ。包帯も巷に出回っているものと大差ない。
 唯一珍しい点は、布に何らかの文字が書いてあることだ。バーキャルクの知らない文字であり、陥没穴の底で見た石碑の字と似ている。
「歩いてみろ」
 痛みは薄れつつある。
 バーキャルクは足に力を入れて、いくつか新月刀の構えをして、射撃の姿勢も試した。
 ついでに摂政位を示す短剣も、これみよがしに振り回した。
 問題ない。もっと派手な動きもできそうだ。
 兄のダームダルクは、鞘に絡みついた分銅鎖を解きほぐしては、一本ずつ体に巻き付けている。
 全部で何本あるのか、数える気になれない。
 最後にバーキャルクは、鞘を拾って長大な新月刀を収めた。
「どうやってこの洞窟に入った」
 道案内に立った兄の背中へ、バーキャルクが尋ねた。
「魔術師は、いろいろと道を知っている」
 兄は早足だ。
 遠くで大きな音がした。大太鼓のような音が、兄弟の骨に響く。
「また陥没じゃ」
「せっかく摂政の座を射止めたというのに…」
 弟は天井を見上げた。
 再び、骨を揺るがす重低音が響いた。先ほどよりも近い。七度目だ。
 兄弟は頷きあい、先を急ぐ。

「何が封印されている」
「古のもの、とでも言っておこう」
「名付け親になる気はない」
「またとない機会だぞ」
 弟は舌打ちをして、次の問いを投げつける。
「足は何本だ」
「二本じゃ」
「飛ぶのか?」
「羽はない」
 だんだんと、二人の足音に、反響が遅れて返ってくるようになった。
「人形、傀儡のたぐいか」
「わしが糸を引いていると?」
 兄弟の視線の先、しばらくのところで、洞窟は左に折れる。
「人型か?」
「鶏かもな、ちぃっとばかし大柄じゃが」
 石筍と鍾乳石が居並ぶ広大な地下広間に、重厚な足音が響き渡る。
 前方の曲がり角からだ。
 古のものが現れる。
 ワニの骨格からガニ股の四足を取り払い、鳥の脚の骨を二本、真っ直ぐに挿したような存在だ。鳥といっても、水鳥の足のように長く、それでいて人の骨よりも遥かに太い骨だ。
「鶏ガラにしてはでかいな」
 バーキャルクは首を上に向けて呟いたが、相手の咆哮が声を掻き消した。
 骸骨は、虎すらも丸呑みしそうな大顎を、天井に向けている。
 体高は、大人の男三人半といったところだ。
 見えざる腱と筋肉によって形を保つ骨格が、石筍を砕きながら襲来する。
「封印を引きちぎりおったわい」
 ダームダルクが嘆息した。
 猛禽の爪を思わせる前脚に、文字の書かれた包帯がぶら下がっている。
「布切れなんて使うな」
「鎖じゃ可哀想じゃろう」
 兄は文字入りの包帯を取り出し、片端を石筍に結びつけている。
 何が書かれているか、バーキャルクは確かめようともしない。
 弟は、転がってきた大振りな石を、敵の脛骨へ豪腕をもって投げつけた。
 微塵に砕けたのは石のほうだった。
「骨太じゃ。元気で何より」
「骸骨に元気も何もあるか」
 弟のバーキャルクは膝めがけての切り上げを諦めて間合いをとった。
 肋骨めがけて二射するも弾かれる。
 兄のダームダルクは包帯を持って広間を横断するように走っている。
 古のものは、再び天井に咆える。
 長大な尾骨をふるう。
 鍾乳石を立て続けに叩き落とす。
 破片と粉塵が飛散し、石礫の山が出来る。
「日の目を、…ゲホッ、…見たがっとるんじゃ」
「骸骨も…ゲホッ、狭いところが苦手か?」
 朝靄めいた景色に、兄弟の咳音がする。
「広い草原、青い空、いいところじゃろう」
「冗談じゃない。家畜を食われでもしたら…」
「だから封印するんじゃ。土の下に」
「早くやれ。俺は摂政だぞ」
「わしは臣民じゃない」
 ダームダルクは包帯のもう一端を、別の石筍に結びつける。
 徒競走の終着点を示す帯のような代物が出来上がった。
「そいつは効くのか」
 バーキャルクが、なおも矢を放っている。
「すぐわかる」
 兄は岩陰で骸骨を待ち受ける。
 古のものは包帯めがけて突き進む。
 骸骨の脚が包帯に触れたとき、足取りが重くなった。
 ほんの一瞬だけ。
 布の裂ける音に、石筍と鍾乳石の砕け散る音が続いた。
 石つぶてが散乱し、足場は悪くなる一方だ。
「俺たちを封印するにはうってつけだな、ええ?」
「生き埋めを封印というのが、最近の流行りか?」
 兄弟は不安定な石の上を、蹴って飛び回り、常に動き続けた。
 古のものは、天井の鍾乳石を砕くことに忙しく、兄弟のことは気に留めてないようだ。
「こいつで片を付ける」
 バーキャルクは、相手を睨みつけ、新月刀を鞘走らせた。
「仕方がない」
 ダームダルクは包帯を捨てて、一本の鎖分銅を両手で握りしめた。
 片端には一際重そうな分銅がある。
 兄は槌投げのように旋回し、古のものの胸骨めがけて鎖分銅を放った。
 鋭い音に、骸骨の悲鳴とも思える雄叫びが続いた。
 洞窟の床に、折れた右前脚が落下した。
「やるなら二つともやれ」
 股下に飛び込もうとするバーキャルクに、残った左前脚が迫る。
 弟は巧みな足さばきで魔の手をかわす。
 お返しに伸びてきた前脚を叩き切る。
 両手に衝撃。
 歯を食いしばってこらえる。
 脛骨に斬りつけるのは諦めた。
 得物を握りしめたまま後ろ足の間をくぐり抜ける。
 岩山に身を投げ出し、尾骨の一撃を躱す。
 尾が唸りを上げ、バーキャルクの頭上、拳一つのところを薙ぎ払った。
 崩れた岩石が、本来の地面の上に、新たな地層を築きつつある。
「腹ペコみたいだぞ」
「そんなことより、刀を見せろ」
 ダームダルクは弟のもとへ駆けつけて、新月刀を改めようとする。
 兄の手には血がついている。岩の破片で切ったのだろう。
 弟の剣に刃こぼれが生じていた。
「貸せ。何もせんと折れるぞ」
「構うな」
 弟は手元に愛刀を引き寄せた。
「俺は俺の力でやる」
「なら、わしはわしじゃ」
 兄弟は別々の方向へ跳ぶ。
 ダームダルクは、平衡をとる腕の動きとは関係なく、鎖を宙に浮かせた。
 個々の鎖は空中で一直線となり、なにもないところで止まった。さながら横木だけの梯子を、宙に浮かべたかのようだ。
 兄は雲梯の要領で鎖を掴み、高さを稼いでいった。
 古のものの膝の高さを超えたところで、骸骨が尾骨をふるう。
 ダームダルクは手を離し、落下して躱す。
 兄の苦戦をよそに、バーキャルクは骸骨が作り上げた岩山のなかで、一番高いものの頂上に立っていた。
「俺がやるんだからな」
 バーキャルクは高台から跳躍する。
 古のものは、大顎で兄を狙っている。
 一瞬のすきに、弟は肋骨に取り付いた。
 牙も尾も届かず、膝も届かない位置の骨だ。
「やってみせろ」
「やってやるさ」
 兄が宙に固定した分銅を使って縦横無尽に逃げるなか、弟はとうとう肋骨をよじ登り背骨に到達した。
 揺れが酷いが、暴れ馬なら慣れている。
 裂帛の気合を発し、バーキャルクは骨砕きの一撃を繰り出す。
 骸骨の咆哮すら上回る衝撃音が響く。一拍の間。
 超自然の結合を解かれた骨格が崩壊し、骨の山へと転じる。
「一つ貸しじゃ」
 ダームダルクは、足場を失いつつある弟へ、一番長い鎖分銅を繰り出す。
「要らん」
 バーキャルクは鎖を打ち払い、大きな骨を蹴って雪崩から抜け出す。
 大人の男三人半の高さから落ちる衝撃は、猫のように四本脚で着地することで殺した。鞘と刀身が、前脚代わりだ。
 骨と石とが混じった土煙が晴れるには、しばらく時間がかかった。

幕間 尾行

 時は遡る。摂政バーキャルクが出発して数刻、未明のことだ。
 キウードは単騎で栗毛の馬を北へと進めていた。
 月は雲に隠れている。毛糸の襟巻きで顔を隠しても、夜風が鼻を突いて痛い。規則正しい馬の動きが太ももに伝わる。地面は凍りついているが、蹄音は響かない。「綿入れ」を履かせたおかげだ。
 地平線に黒い点が一つ。宰相ハンバルクだ。尾行に気付いた気配はない。北へ向かっている。駒の進め方に迷いは無い。
 キウードは、老宰相がまたもや単独で遠乗りに出るのを怪しんで、後をつけたのだ。
 ポポンと、何かが若者の耳を叩く。背嚢に腰掛けた長手鼠のエイチェだ。
「ありがとな」
 叩かれた具合に応じて、キウードは針路を修正した。
 雲の切れ間から月光が漏れる。
 キウードは鞍上で、短刀を掌の長さほど引き出す。自分でも幼いと思う顔が、刀身に映り込む。いくら表情を作ったところで、あどけない印象は消えてくれない。
 月が隠れるとともに嘆息して、刃を艶消し黒の鞘に収める。
 そうこうするうちに、宰相は丘を登りはじめ、尾根の向こう側に消えた。
 キウードは眉をひそめた。馬を早足にして丘の中腹まで登らせ、音を立てずに下馬する。
 ポポポポポポと、鼠が若者の両耳を幾度となく叩いた。
「大事な仕事なんだよ」
 押し殺した声で、キウードはエイチェをなだめた。
「っ!」
 エイチェが若者の耳に爪を立てた。
「邪魔しないでくれ」
 若者は低くつぶやくと、ポケットから木の実をいくつか取り出して、鞍の上においた。
「ほら、これでも食って待ってろよ」
 キウードが肩越しに呼びかけると、エイチェが身じろぎした。
 長手鼠は大きく飛んで、鞍上の餌に飛び付く。
 若者は、忍び足で丘を登り、向こう側を覗く。
 雲の切れ目から、月光が降り注いだ。
 反対側は窪地であった。南側は緩やかな傾斜だが、他の方角は勾配がきつく、馬には不向きだ。
 窪地の底に一本だけ、灌木が生えている。幾重にも枝分かれしたさまが、脂ぎって互いに絡み合った毛髪を彷彿とさせる。
 太い枝に芦毛を繋いである。
 宰相の姿は見当たらない。木の反対側にいるのだろう。
 若者は、稜線に隠れたまま左に回り込む。
 再び、尾根から顔を出す。
 案の定、老人の姿が見えた。相手は両手に一つずつ、何かをもっている。一つは人形で、もう一つは錐刀だ。
 若者は短刀の柄を握りしめた。馴染みの感触が返ってくる。
 もう片方の手で白い息を覆い隠す。
 宰相が何か唱えはじめた。
 呪文というやつかもしれないし、異域の言葉なのかもしれない。息継ぎの間がないかのように思える朗唱のなかで唯一つ、若者にも理解できる単語が出た。
「…バーキャルク…」
 摂政の名が唇から出た瞬間、老人は錐刀を人形に突き刺した。
「…バーキャルク…」
 再び、錐刀が人形を貫く。鋼が布地を食い破る。
 ブスリ、ブスリと、鈍い音がする。
 呼びかけと刺突は何度も繰り返された。
 老人の声は歓喜の響きを帯びている。
 若者にとって、あとは慣れた手続きだった。
 死角に入って急勾配を下る。
 駆け寄って間合いを詰める。
 宰相は背中を晒したまま詠唱を続けている。
 キウードは短剣を肋の隙間へ滑り込ませる。
 切っ先は過つことなく心臓に。
「私は勝った!」


 命が消えるはずの瞬間に、宰相が叫んだ。
 老獪なる妖術師の精髄が、心臓に食い込んだ刃を這い登り、無垢なる小姓の脳髄を掌握する。
 ハンバルクの体は、うつろな音を立てて倒れた。
 キウードの顔に、邪悪な笑みが浮かんだ。
 雲は月を隠した。

第三幕 妖術師

 凍土の下の洞窟では、骨と岩と鎖の山の間で、弟バーキャルクと兄ダームダルクが相対していた。
 二人は王子で、玉座は一つだけだ。
「陥没の原因は断ち切った」
 まだ弟は新月刀を鞘に収めていない。
「そう思うか」
 兄は笑顔で返事をした。
「俺と切り結ぶのが怖いか?」
「わしとやりあったら、一生知らないままだぞ」
「何?」
「陥没の原因じゃよ」
 バーキャルクは眉をひそめた。
「古のものなら、もう骨になってる」
「あの哀れなものは結果に過ぎん。凍土が溶けたから目を覚ましただけだ。古のものが地の中の氷を溶かしたとは、一言も言ってない」
 ダームダルクは、にんまりとしている。
 バーキャルクは、哄笑で応じた。古のものの咆哮にも勝るような、豪快な笑いである。
 ダームダルクもまた大笑いした。天井を打ち抜くかのような大音声だ。
「おぬし、大した器じゃ」
「兄者こそ」
 弟のバーキャルクは得物を収め、鍾乳洞の中を丹念に探ろうとした。

「摂政殿!摂政殿!」
 キウードの高い声が飛び込んできた。
 バーキャルクが声のほうを見やると、岩山のかげから血に染まった服を着たキウードが出てきた。
 足取りは軽い。
「誰をやった」
「宰相ですよ」
 バーキャルクの問いに、若者は臆面もなく応えた。
「ここに来るまでに、妙なものを見なかったか?」
「宰相が妙なのはいつものことでしょう?」
「妖術師という噂なら知ってるよ」
 キウードは人懐こそうな笑顔を浮かべながら近づいてくる。腰に海賊式の短刀を挿した姿だ。
「エイチェはどうした?」
 バーキャルクは血に染まった若者の肩を見つめる。
 兄はいつのまにか姿を消していた。
「はぐれたのです。一騒動ありまして」
 キウードは手短に答えた。
 バーキャルクは眉間にシワを寄せた。
「摂政殿こそ、誰とお話されていたのですか?」
「先にお前の話を聞かせてくれ。宰相は何をしでかした?」
 バーキャルクが、若者へ近づく。
「謀反ですよ」
「お前がいなければ、上手くいっただろうにな」
「この短剣がいい仕事をしてくれました」

 キウードが腰の得物に手を伸ばした刹那、バーキャルクの背後から鎖分銅が音もなく飛来した。
 一瞬のうちに小姓を縛り上げ、手足の自由を奪い、横倒しにする。
「俺の仲間だ!」
 バーキャルクは、新月刀を鞘走らせて振り向いた。
「その小僧は敵じゃ。お前を殺しに来た妖術師じゃ」
 弟のもとへ兄ダームダルクがにじり寄る。鎖分銅を腕に提げて揺らしているだけではない。鎖鎌も構えてキウードに猛禽の視線を注いでいる。
「証拠を出せ」
 弟は怒鳴った。重心は低く、いつでも飛び出せる構えだ。
「わしの目には魔法が見える」
「証拠を出せと言ったんだ」
「証拠はおぬしが探せ。とにかくだ、わしには分かる。この小僧の中には、妖術師が入っている。おおかた、殺生反転の術で入れ替わったのだろう。術の準備のために、凍土から相当な力を吸い上げたに違いない。陥没が七度も起きたくらいじゃからな」
「陥没の原因が妖術なのは分かった。だが、術を使った証拠はあるのか」
「これまでに陥没が何度も起きた。これからは当分起きない」
「違う」
「なら探せ。わしが証拠を見せたら信じるのか?わしも妖術師だぞ」
 バーキャルクは舌打ちをすると、兄とキウードを見比べた。
 彷徨う視線が一点で止まる。
 若者が佩いている、海賊風の短刀だ。
 摂政は武器を置き、立膝を付いて、縛られた若者に問いかける。
「キウードよ、舵柄を進行方向右に動かしたら、船はどっちに曲がる?お前ならこんなの朝飯前だろう?」
「…右です」
 答えをきくと、バーキャルクの胃に重いものが落ちた。
 摂政は新月刀を杖にして立ち上がり、一歩下がる。
「お前は叔父貴だ。ハンバルクだ。キウードじゃない。仲間じゃない」
 臓腑から絞り出すようにして、バーキャルクが言葉を発する。
 兄は鎖鎌を構えたまま、無言でやりとりを見つめている。
「この悪党めぇ!」
 キウードの姿をした宰相が、ダームダルクにつばを吐きかけた。
 ダームダルクは顔色一つ変えずに後に飛び退き、鎖分銅の一本を宰相の鼻のすぐ横に打ち付けた。
「その顔、覚えがあるぞ。ダームダルクだろう。なぜ、私の邪魔をする?」
 鎖分銅が飛ばした破片に、歯を折られ、唇を切られながらも、宰相は喚き散らすのを止めない。
「お前にとっても、私にとっても、バーキャルクは共通の敵。王位を狙う邪魔者だろう」
 宰相は縛られながらも、憎悪のこもった視線を投げかける。
「お前に話しても分かるまいよ」
 ダームダルクは、縛り上げた男ではなく、バーキャルクの背中を見つめながら言った。弟は鎖鎌の間合いの中にいるが、兄は手を止めたままだ。

「兄者、どうすればもとに戻せる」
 バーキャルクは、兄に背を向けたまま尋ねた。
 弟の片手は新月刀を提げたまま、力なく垂れている。
 兄からの返事はない。
「摂政の勤めは果たさないとな」
 バーキャルクは新月刀を両手で構える。
「お慈悲を!生かしてくれとはいいません、せめて、どうか、お腰の短剣を!」
 血の混じった唾を飛ばしながら、縛られた男は叫んだ。
「お前に摂政の座を譲る気はない」
「とんでもない!違います」
「何がいいたい?」
 バーキャルクは切っ先を突きつけた。
「祖法はご存知でしょう」
「知っている」
 バーキャルクは相手を睨みつけたままだ。
「宰相には処刑の手順を定める権利があります」
「摂政には執行する権利がある」
「斬首は嫌です」
「縛り首がいいか?」
 弟の後ろで、鎖分銅が規則正しく揺れる音がする。
「心臓を貫いてください」
「短剣で、というわけか」
「左様でございます」
 バーキャルクは武器を鞘に収め、摂政位を示す短剣に手をかけて述べる。
「摂政には刑を執行する権利がある」
「宰相には手順を定める権利があります」
「摂政といえども祖法には逆らえない」
「仰るとおりです」
 縛られた相手は、満足げに頷いた。
 バーキャルクは短剣をゆっくりと逆手で抜く。
 死を待つ男の目が刀身を追う。
 バーキャルクは一歩踏み出すと、短剣を順手に持ち替え、投擲した。
 相手の心臓を鋼が食い破る。刃に繋がる手はどこにもない。
 若者の喉を借りた妖術師の絶叫は、須臾の間に途絶えた。
「心臓にこだわる奴なら経験済みだ」
 背後で小さな拍手がおこり、かき消えた。
 誰もバーキャルクの涙を見なかった。

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