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朝倉未来、、、裏付けのある『生』


登場しても、世間という辞書に、その名が単語として登録されるのは、至難の業である。


「生きる」ということを、朝倉未来を見る度に考える。そしてある瞬間、腑に落ちる。

RIZINのPVは誰にでもある。RIZINの入場シーンも誰にでもある。RIZINの試合も幾多も繰り広げられている。でもなぜ、彼のものだけが、目を引き付けられるのか? 魅力がある、華があると言ってしまえば、それだけだ。では、こう問うことにしよう。ではなぜ、彼には魅力、華があるのか?と。その源泉は?

多分、その解答は、彼の辿ってきた「生」と結びついている。

「生きる」には、1+3つの段階がある。日本には「生きる」には生きるという言葉しかないから、想像が難しいが、こうだ。

【依存】の生、1つ
➊親・地域から与えられた「生」

【自立】の生、3つ
➋生き残っていく「生」
➌生を活かしていく「生」
➍生み出す「生」

英語でいうと、更に察しが良いはずだ。
➊→「生長」 grow

➋→「生存」 survive
➌→「生活」 life
➍→「生産」 generation

今を生きる人の生は、どこに当てはまるのだろうか?
こう書いてみたものの、該当するものが見当たらない。
ほとんどの人が、➊依存の生から➋以降の自立の生へ、行かないからだ。

強いていうなら、➊を経て➋をパスして、➌へ行く感じか。

ヒトの文明は、常に物質的に、それを隠しきたし、ヒトの文化も、常に精神的に、それを隠してきた。道具、機械は、人から野性を見えないようにし、知識、幻想は、人から、不条理、カオスを見えないようにしてきた。でも、それは、野生・自然・カオスを、隠してきただけで、隠すことはできても、無にするこはできない。

透明・透徹な視力を持っている人間には、無理なのだ。野生・現実を文明・文化というベルトコンベアーを使ってすり抜け、パスすることを、不誠実として見てしまうのだ。彼には、生存という生を見て見ぬふりすることは、できない。それは生きることではないからだ。そんな卑怯な生は、自分にはできない。

それにそうであるなら、生きることが、退屈なものとなってしまうのだ。自分の生を賭けない人生など、生ではない。生き残って初めて、自分を活かす舞台に立てるのに。いや、そもそも、死ぬかもしれないという生の、圧倒的な充実感がない生など、退屈でしかない。誰かに頼って、文明に頼って、文化に頼って、楽に、次の次元に行けて、且つ、そこには、自分がなく、ただ誰でもいい、生きてしまっている「誰」かがいるだけなのだから。

野生から切り離された言葉を教える「学校」を抜け、自分ではなく、社会の部分になるための予備軍たる「友達社会」からも抜け、自分だけが頼りの、自分を賭けていくしかない、否、自分を賭けていい人生が充溢する「路上」へと彼は、歩を進めただけなのだ。

生長から生活(単なる暮らし、文明的・文化的な生を活かすという意味ではなく、自分の生を活かすという意味での)へ至る道で、彼は、生存を選択した。

裏付けのある生とは、生存、サヴァイブの裏付けがある生ということだ。彼が人々を魅了し、彼に我々がどうしようもなく魅入られてしまうのは、生存した人間、自分だけの嗅覚・腕力を頼りに生き残ってきた男だからだ。

そういう個人史を持つ生だからこそ、活き活きとしているのだ。
まだ未明だが、でも確実であることではあるが、彼は、生活を経て、生産へも至るだろう。
生存という歴史(he・story)を持つ者は、生活・生産と、その道を行くのだから。

朝倉未来は、願っている。自分と同じように、自分の生に賭けろ、自分の生を生きろと。自分の生に喘ぎ、呻吟し、吠える生だけが、朝倉未来に、本当の意味に触れることが出来る。

でも、殆どの人は、朝倉未来を、ベルトコンベアー上の消費物としてしか味わうことをしない。

ベルトコンベアーを降りる勇気を持つことが出来る者だけが、彼を知ることが出来るし、自分を活かし、自分を産むことができるだろう。

敬具








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