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勇気をなぜいま語るのか?――内田樹著『勇気論』を読む

「いまの日本人に一番足りないものは勇気じゃないだろうか?」
内田樹さんのこんな投稿を見て、異常に反応した編集者がいた。この言葉に、何かが引っかかったその編集者は、内田先生に会いに神戸まで出向く。そうして出来上がったのが、本書『勇気論』だという。

そんな出版の裏話のような背景のみならず、本書はその制作過程そのままを表に出している。使った手法は、往復書簡だ。編集者の古谷勝彦さんが、内田さんの投稿を見て思わず反応した、抱えていたモヤモヤを内田さんに伝える。そこから本書が始まるのだが、返信する内田さんは、編集者のモヤモヤにある背景を読み取ろうとし、そこから浮かんだご自身の考えや、数々の文献の一節を紹介する。その返信は、編集者をさらに刺激させ「そういえばこんなことを経験した」とご自身の過去をどんどん開示していく。開示するというより、「開示してしまう」という表現の方が相応しいかもしれない。何しろ、内田さんの返信に答えようとすると、通り一遍の常識的な感想を打ち返すのを躊躇うような「見透かされ感」があるのだ。本書を読むと、きっと読者もそう思うだろう。思わず、自身の内面を吐露せざるを得ない状況になっている。本書の魅力の一つは、この不思議なやりとりに、読んでいて引き込まれてしまうところだ。

勇気とは何か。内田さんの明確に本書で述べているが、それをここで書いてしまうのは面白くない。その勇気の話から、友情、信用、直感、と話しはどんどん展開していく。「日本人は意地悪になった」という話が中盤で出てくるが、これは勇気とどう関係するのか?それこそが本書を読み進めることの醍醐味だ。

登場する人物も、スティーブ・ジョブズから、孔子、伊丹万作、ユーミン、大滝詠一と実に多彩である。具体を紐ときながら、抽象の「勇気」という概念に迫ると思いきや、話が跳躍して、飛び地からもう一度、勇気の正体をえぐろうとする。ぐるぐると回りながら中心へと近づいてくると今度はまた離れていく。そして離れたところで得た知見を持って、一層力強く中心へと戻ってくる。こんな思考法があったのか!と。

普通、「深く考える」とはその対象に対し、穴が開くほど根気よく観るイメージなのだが、本書は、軽やかに飛躍し、軽やかに舞い戻る。遊びのような飛躍は、知見を持ち帰る役目も果たし、離れた知見の洗礼を受けた思考はさらなる核心へと迫る。

この本は「書籍づくり」としては異例だと思う。「内田樹著」となっているが、編集者である古谷さんの「吐き出された知見」が、箸休めではなく、欠かせないコンテンツになっている。そして、計画された構成がない。どう着地するかわからないままの離陸であり、どのルートを回って、どこに、何時ごろ着地するかを決めずに作られた本である。しかも、そのプロセスを、そのまま(おそらく)最低限の化粧直ししかせずに出版されているのだ。編集者が書籍を作る前に力を入れる「構成づくり」を平気でスルーしている。そんなセオリー度外視の作りながらこの本が「読ませる」のは、勇気という語るべきテーマへの認識が幾分かもブレないからだろう。「そこに何かある」と確信した編集者と、「そこがどこだかわからないが、掘り下げる価値がある」と直感で思った著者の見事な調和だと思う。これは、書籍づくりにかかわる人間としても、とても刺激的である。本来、問いたいテーマが確かにあれば、それで本は出来上がるのだろう。

この編集者と著者との往復書簡は、期せずして、読者を巻き込む力がある。編集者の個人的な体験の吐露に対し、想像を超えた領域からの著者の返答。こんなやり取りを読まされると、「自分なら、次にどんなことを聞きたくなるだろう」と勝手に内省が始まる。その意味で、著者の内田樹さんはもちろんのこと、編集者の方の、本づくりへの勇気には頭が下がる。

「勇気」とはなんと使い古された言葉だろうか。「勇気を出す」「振り絞る」など定型的な語句もある。勇気の大切さや重要性は、いまさら考えもしないと思う、そこのあなた! 僕もその一人だったのだが、本書を読み進め内省を始めると、勇気の見え方が変わる。それは内なる声との対話から生まれるのだと思った。




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