見出し画像

楽しい対話のシンプルな法則とは?

人との何気ない対話は、人生におけるスパイスのようなもので、なくても生きていけるけど、あると日常が味わい深くなる。

ここでいう「対話」とは、日常的な会話やお喋りとは違う。仕事などでの意思疎通で必要とされる会話とも違う。ここでの対話とは、二人の人がお互いに話を行き来せる行為であり、そのインプットとアウトプットを繰り返すプロセスから、知的な面白さが感じられる行為とする。それは大真面目な哲学的な問答もあるだろうが、仕事や日頃の生活から感じたことを語り合う場も含まれる。僕はそういう場が結構好きなのだが、それはその人とではないと生まれないような気づきが得られるからだ。

ただ、その対話が楽しい時もあればそうでない時もある。その違いを考えてみた。それは話す相手との相性や相手との関係性によるものなのか?それとも話す内容なのか?それらのどれにも要因があると思うが、いずれもとてもややこしい。「相性」にしてしまうと、身も蓋もない。相手との関係性も「上司・部下」といっても、その間柄の親しさは異なるし、話す内容も、愚痴の中に相談があったり、相談の中に近況報告があったりする。なので、対話の楽しさを人や内容で区分するのは難しい。そんな中、最近とてもシンプルな条件を思いついた。もちろん仮説レベルなのだが、それは、「時間」である。つまり、

【仮説1】楽しい対話は、お互いの話している時間が半々

というものである。
この場合、対話する相手との関係はどうでもいい。職場の同僚同士でもいいし学生時代の友達、あるいは会社の上下関係のある間柄でも良い。「話す時間が半々」になっていれば、それは「楽しかった」と思える対話なのではないだろうか。これは逆説的かもしれない。多くの場合、人間関係にヒエラルキーがあると、上の人が対話の主導権を握るようになり、上の人が話す時間が長くなりやすい。「上司との会食がつまらない」のは、上司の自慢話や愚痴を「聞かされる」からであり、つまり話している時間が必然的に上司が多くなるからだ。またこちらが話しても相手の反応が弱いと「こちらが話す一方」になり、それもあまり楽しくない。話す内容はなんでも良い。愚痴を散々聞かされても、こちらも何か言いたくなるような話ができると、その「愚痴を聞く」時間は悪いものではないのだが、どれだけ聴いても、こちらが口を挟めないような話だと、やはり対話は辛いものとなる。

先日、年下の知人と会食した。彼は後日「まとまらない話を聞いてくれてありがとうございました」と言ってくれたが、僕はその会食で彼の話の聞き役だったとは思っていなかった。むしろ、とても楽しい対話だったと思っていたので、その反応が意外だった。そこで思ったのは、彼はまとまらない話をしたのかもしれないが、それを聞いていて、僕の方も「そういえば」とか「それを聞いて思ったけど」など、自然と話したい話が思いついてしていたのだ。なので、「楽しく対話した」という実感があった。

この時を振り返ると、お互いの話す時間は半々だったのではないかと思ったのだ。

一方で、その1ヶ月ほど前に別の人と会食したのだが、その人もまとまりのない会話をした。それは近況報告なのか、相談事なのか、あるいは頑張っている自分を知ってもらいたかったのか、またまた単に口にしたかっただけなのか、、、、僕は見当がつかなかった。話の核心が読めず、時折質問してみるものの聞く一方で、会食が終わったあと妙に疲れた。おそらくあの時間は、お互いの話す時間が8:2や7:3になっていたのではないだろうか。

この対話の楽しさは「話す時間が半々」仮説を思いついていい気になっていたら、次の仮説が浮かんできた。それは、

【仮説2】人は自分が思っているよりも長い時間、話している

というものだ。
先に楽しかった会食と疲れた会食の事例を紹介した。楽しかった会食は、お互いの話す時間が半々だったのでは?と書いたが、本当は、僕が多く話していて6:4だったかもしれない。疲れた会話も実際は僕も喋っていて、4:6くらいだったかもしれない。だけど、人は自分が話している時間の長さを過小評価しがちなのではないか。

会議の発言や会合のスピーチなどで、制限時間を告げられることがある。このような場合、制限時間より短く話す人よりも、時間オーバーする人の方が圧倒的に多い。きっと人間は、聞いているより話している方が夢中になるのだと思う。なので夢中になる時間は早く過ぎ、3分喋っても30秒しか話していないと過小評価してしまう。

ちなみに、先日妻に「僕ら二人の会話の時間の割合はどうなっていると思うか」聞いてみた。彼女は、2:8で僕が多く話していると言ったのだが、これは同じというか真逆というか、僕も2:8で彼女が圧倒的に多く話していると思っていたのだ。誰か間に入って判定してもらいたいと思う。真実はおそらく「お互いに自分の話している時間を過小評価している」のだと思う。

ここまで考えてみて、個人差を考慮する必要性が浮かんだ。誰しも思い当たるだろうが、口数の少ない人と、口数の多い人がいる。それは時と場合にもよるが、えてして相対的によく喋る人と寡黙な人はいるものだ。こういう個人差にかかわらず、仮説1の「話す時間は半々」が成り立つのか。

ここから数字で考えてみよう。寡黙な人とは、話す時間が半分以下が楽しい人と定義する。例えば、4:6や3:7がいい人であり、1:9が心地いい人はかなり寡黙な人となる。一方で、お喋りな人とは、自分が話す時間が半分以上が楽しい人と定義する。6:4や7:3であり、9:1という人は相当なお喋りな人と言える。

先ほどは、「自分が話す時間は半々」という仮説を立てたが、これはいわば経済学で人を合理的な判断をする「ホモ・エコノミクス」と定義するようなもので、マクロで合計すると近似値だとしても、個別に見ると人それぞれ異なる。この個別性を考慮すると、新しい仮説は、

【仮説3】楽しい対話とは、対話時間における自分にとって望ましい割合で話すこと

となる。
つまり、4:6の寡黙な人にとっては、4割くらい話す時間があった対話を「楽しい」と感じ、それが2割やあるいは6割でも楽しいと思えない。6:4のお喋りな人の場合、自分が6割くらい話していた対話を楽しいと感じ、5:5や7:3でも物足りなさを感じるのではないだろうか。

ここで自分の「好ましい時間割合」を考えてみてほしい。寡黙だと思っている人は、それが4:6なのか3:7なのか。そして「仮説2:人は自分が思っているよりも長く話している」を思い出し、自分の考える話している割合を上方修正したものが、実際にあなたの好ましい対話における話す時間割合なのだと思う。自分で5:5だと思っている人は、本当は6:4が最も好ましいのではないだろうか。

その上で、では、寡黙な4:6同士の人が対話するとどうなるか、あるいは、お喋りな6:4の人同士が対話するとどうなるのだろうか?

ここでさらに数学的に考えてみたい。答えは、対話時間の総量が80になり、お互いが40ずつ話すのではないか。なので、対話はゆったりとしたものとなる。相対的に見ると4:4と半々なのだが、お互いが無理せず話しているので心地いい。寡黙な人同士の会話を横で聞いていると、どちら話さない「間」があるものの、当の本人たちはそれに困っていないに違いない。逆に二人とも6:4の人だったら、お互いに60ずつ喋り対話の総量が120まで膨れ上がるのではないか。なのでその対話はかなり活発に(騒々しく)なるだろう。

こうして話す量の個人差を考えてみると、対話の上手い人の条件が浮かび上がってくる。それは、

【仮説4】対話の上手い人は、相手と自分にとって望ましい「話す時間割合」を瞬時に見抜いて調整する人

これは、人間関係の上手い人と似ている。人間関係の下手な人は、相手が困惑するような近い距離にきたり、あるいは遠い距離のままだったりする。逆に人との関係の上手い人は、相手との関係に応じて適切な距離感をとることができる。これと同じように、相手の心地いい割合を直感的に理解し、その割合を無意識のうちに実現してしまうような人が時々いる。話を振るのが上手いばかりか、効果的な間合いで自分の話を突っ込んで来る。こう言う人が、対話の上手な人なのではないだろうか。

余談だが、こんなことを考えながら思ったのは、対話している時間をモニターし、どちらが何%話したかがわかるソフトがあればいいなということだ。音声認識の技術を考えると既に技術としてはあるだろう。会話を録音して終了したら「Aさんは45%話しました、Bさんは55%話しました」と表示してくれるアプリがあったら面白いなと思うが、あまり実用的ではなさそうだ。

話す量における個人の嗜好性まで考えて、楽しい会話を考えると、冒頭の「【仮説1】楽しい対話は、お互いの話している時間が半々」を修正したくなる。ここで修正された仮説は次のとおり。

【仮説5】楽しい対話は、その場がフラットであること

そう、「話している時間が半々」を最初に思い浮かんだのは、それがお互いのフラットさの象徴に思えたからだ。フラットな関係なら、話す時間も同じようになるに違いない。そして、対話は自由な場である以上、その場がフラットであることがお互いにとって心地いい。

「対話の場のフラットさ」は、二人の上下関係に依存することが多いが、それを超越することもある。上司と部下、先生と生徒であろうと、フラットな対話が実現することもあるし、普段の上下関係を引きずることもある。そこは当事者の意識の問題だ。

逆に、フラットな関係の人同士でも、対話の場がフラットでなくなることもある。以前、友人にランチに誘われ、彼の仕事の愚痴を散々聞かされたことがある。その時、彼はこちらからのアドバイスを求めていない。聞いて欲しかっただけ、吐き出したかっただけのようだった。それだけ余裕がなかったのであろう。あの時は友達関係であっても、あの対話の場はフラットではなかったと言える。

対話がどちらかの意図に偏り、それがどちらかにとって心地悪いのであれば、その対話に上下関係が生まれているとも言い換えられるかもしれない。この上下関係は、話す時間の多い側が上に立つとも限らない。事情聴取ではないが、いわゆる「言わされる」という場面では、関係性があって下の人が多く話すことを強いられるのだ。僕にも思い当たる節がある。部下の話を聞こうという名目で、尋問していたこともある。こちらより部下の話す量が多かったとしても、それは相手にとって心地いいとは限らず、楽しい対話ではありえなかっただろう。

このように、仮に対話の楽しさがその場のフラットさにあるとしたら、話す時間の割合はどこまで重要になるのか。お互いにフラットだと感じていれば、話す時間割合は関係ないのではないか。それをもう一度考えてみたが、やはり「時間割合」は一つの大きな要因になっていると思えてならない。それは、人の本性に関する洞察なのだが、ここで最後の仮説である。

【仮説6】人は基本的に聞くより話す方が好き

以前ある雑誌記者がこんなことを話してくれたのを覚えている。「どんな人だろうと、その人の話を聞かせてほしいと取材を依頼すると、だいたい承諾してもらえる」。これは僕も多くのインタビュー経験から実感できる。「話すことはあまりないですが」と前置きされても、実際にはよく喋ってくれる。時間が決められていても、早めに切り上げる人はおらず、多くの人は延長してくれる(中には、移動しながら、話を続けてくれたりもする)。

人は基本的に話すのが好きなのだ。
「聞く」のも楽しいが、話すのはやっぱり楽しい。だから聞くのが苦手であり、それを自覚している人がいてその手の本に需要がある。この「話すのが好き」同士な人間の対話は、お互いが自由に話せる場でも一方、必ず相手が「聞く」ことになる。つまり、対話とは、相手に(本来苦手な)聞く行為をお願いしている場あり、「話す時間をもらう」場なのだ。基本自由である。それでも僕らは、相手への想像力を働かせる必要がある。そう、僕らは対話において話す際、その時間を相手から「もらっている」のだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?