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恋愛も仕事も阿波踊りも楽しさは同じ


僕は「サプライズ」が好きだ。月刊誌の編集長をしていたころ、エイプリルフールの日に全社員に向けてのメールで「今年から、週刊誌にします」と送ったことがある。営業部門や広告部門が大慌てとなり、終日、謝罪と釈明に追われた。これは失敗例だが決まると楽しいので、部員の結婚や退職などのイベントがあると、サプライズパーティをまず考えた。

ある著者が4年近い連載が終わった時に、担当編集者などと一緒にサプライズパーティを緻密に計画した。大規模にやろうと企画してみたら、解決しなければならない課題が山盛りであった。

・どうやれば主役を喜ばせる人を集められるか?
・パーティ当日の主役のスケジュールをいかに抑えるか? 
・多くの関係者に声をかけて主役にバレないか? 
・パーティ自体の中身で驚かすにはどうすればいいか? 
・当日いかにバレないように主役を会場に連れてくるか?・・・・。

これら無数の課題に対処法を考え抜いた結果、迎えた当日は100人を超える人が集まり、主役はまんまと騙され、参加してくれた人と一緒にとても喜んでもらえることができた。

このパーティの企画はもちろん無報酬で、準備に結構な時間と労力を費やした。フリーランスになったばかりだったので、パーティの後には、あの労力を仕事で使っていたら、どのくらいチャージできるんだろう?などと考えたものだ。むしろフリーランスだからこそ、自分の時間を好きに使って、こういう企画に無駄な労力を注ぐことができたのだが。

でも思った。これが仕事でクライアントから依頼されて、知らない人のサプライズパーティの企画をしたら、あれほど楽しいパーティが実現できただどうか?と。あるいは、もらう金額の多寡で企画内容は変わるのだろうか?と。
またこのパーティも主体的に企画したのだが、もし誰かに対価を払うから企画してほしいと依頼されたら、その対価を受け取っただろうか。受け取ってしまうと、パーティを企画したいと思った根本が揺らいでしまうような不安があるのだ。

なぜ対価をもらうと揺らいでしまうのか。これは人を愛することに共通しているかもしれない。異性を愛するのは、誰から対価をもらうわけでもなく、相手からの見返りも期待していない。むしろ、「対価を払うからあの人を愛して欲しい」と依頼されても受けられない。

もう少し考えてみると、サプライズパーティは金銭的な対価は欲しくないが、なんらかの対価を求めているのではないか。その対価の正体とは何か。それは自分が楽しめることだ。サプライズパーティは参加するのも楽しいが、企画する側が一番楽しい。その対価が欲しくて、エネルギーはいるが好きで勝手に仕事を作っているのだ。

恋愛も一緒だ。愛されるより愛することの方が楽しい。片思いをされるより、自分が片想いでも好きな人がいるときの方が(苦しくもなるが)ドキドキする。人生でモテた経験はあまりないが、相手から好意を持たれて付き合い出したことがある。ちょっといい気持ちで始めた付き合いだが、自分も好きになり出したら、俄然楽しくなってきた。上げ膳据え膳より、自分で肉を焼く焼肉の楽しさのごとく、自分が前がかりになると楽しい。

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損ソン」は阿波踊りの言葉だが、サプライズパーティも恋愛も仕事も阿波踊りも一緒だ。仕掛ける側が楽しいのだ。

最近知り合った人は、子供の頃、宿題が嫌いだったという。しかし、夏休みの「自由研究」だけは好きで夢中で取り組んだと。テーマもやり方も自分で決められるからだ。宿題はこうはいかず、与えられた課題をこなすことになり、提出内容によって先生から評価される。自由研究をやっているときは、当たり前だがやらされ感はない。おまけに夢中になればなるほどどう評価されるかなど、気にならなくなる。

これぞ理想の仕事ではないだろうか。

やらされるとつまらないけど、自分で仕掛けると楽しい。
誰かがやってくれると楽しいことは、自分でやるともっと楽しい。

では、果たして自分が楽しいことが、他者や社会の利益につながり、対価をもらうに値するのだろうか。心配しなくてもいい。どんなことでも、自分が好きで夢中になってやった方が成功確率は高い。頼まれた仕事より自分で決めた仕事の方が燃える。夢中になって取り組んだ自由研究の評価が低いであろうはずがない。頼まれて愛するより、好きで愛するほうが圧倒的に相手を幸せにできる。

誰かのためにするからこそ対価が生まれる仕事の本質は、意外と「自分が楽しむ」という対価のためのエゴ的な行為かもしれない。仕事のボスは自分なのだ。

*この記事は、「『いい感じにはたらくTips』 アドベントカレンダー2019」に参加しています。目次や詳しい説明がありますので、ご興味あればぜひどうぞ。



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