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ネットは人の思考を前進させているかーー書評『遅いインターネット』

初めて宇野常寛さんに会ったとき、「ただのオタクです」と自己紹介された。
自分のことを一ミリもよく見せようとしない、偽悪者である。
出会ったのは「風の谷を創る」というプロジェクトであり、このものの言い方、それと笑顔がデフォルトではないところを含め大好きになった。

実際にプロジェクトを一緒にしていて思うのは、空気に流されない姿勢だ。似たような意見が続いて、コンセンサスが形成されようかという場面でも、それまでになかった意見を口にする。根っからの天邪鬼なのかわからない。そもそも、空気を読む・読まないという軸が宇野さんにはない。だからなのか、人や空気に惑わされない天才である。このプロジェクトは宇野さんがいることで、広域な視点が確保されているのだ。

そんな宇野さんの新刊が『遅いインターネット』である。これは通信速度を落とそうという話ではない。本書はインターネットから自由になろうと呼びかける。「インターネットの本質はむしろ、自分で情報にアクセスする速度を『自由に」決められる点にこそある」という一文が象徴的だ。

検索すればすぐに答えが得られるインターネット。いち早く届く情報に、SNSで反応すれば、すぐにその反応も得られる。このインタラクティブ性に慣れてしまうと、「書き込みへの反応」こそが中毒的な楽しさとなってしまう。自分のコメントがどう社会に受け入れられたか。

これは、「いいね」の数を競うかのような様相になり、インスタ映え現象にもつながり、ネットの記事はますます「釣り」の見出しのオンパレード。Youtubeの動画は、見られてなんぼ。キャラの演出、過激さ、エキセントリックさなど、ますますエスカレートする。

「見られてなんぼ」は広告収入に紐づいていることもあり、さらに厄介な「目立とう競争」につながる。つまり、膨大なコンテンツが流れるネットの中で、一人でも多くの人の注目を集めたら勝ち。そのためには、瞬時に反応してもらいやすい情報の出し合いになる。

宇野さんの忌み嫌うインターネットの「速さ」とは、これらの現象だ。世界中の情報にアクセスできるインターネットの使い道とは、果たしてこんなものなのだろうか。この「見られてなんぼ」の世界の先に、どんな希望ある世界があるというのか。

ここで宇野さんは、吉本隆明氏の「共同幻想論」を持ち出す。戦後イデオロギーが共同幻想であったように、今日のインターネットではSNSのタイムラインが共同幻想を形成している。かつてのイデオロギーは同調圧力に取って代わった、と。

そう、この同調圧力が僕らを不自由にさせてはいないか。しばしば、インターネットは「共感のつながり」に価値が置かれる。SNSの「いいね」の数は、共感の量。共感されればされるほどいいかのようになると、共感される書き込みが世の中でいいものとなってしまう。果たして、それだけで新しいものは生まれるか。本書での宇野さんの言葉を使えば、「価値の転倒は、『いいね』の外側にある」。つまり、共感を得ようとすることは、僕らの本当の思考であるはずがない。

宇野さんは次のように語る。

現在のインターネットは人間を「考えさせない」ための道具になっている。かつてもっとも自由な発信の場として期待されていたインターネットは、今となっては、もっとも不自由な場となり僕たちを抑制している。それも権力によるトップダウン的な監視ではなく、ユーザーひとりひとりのボトムアップの同調圧力によって、インターネットは息苦しさを増している。(P.184)

ここで宇野さんの言う「考える」とは何か。それは、本文の至るところで表現されているが、例えば、2016年、「アメリカ第一主義」を掲げるトランプが大統領に選挙に勝利した時のことが描かれている。この日、ニューヨークやシリコンバレーに住む著者の知人らの嘆きの書き込みが舞い込んできた。開かれたグローバルな世界を志向する彼らが、保護主義を掲げるトランプに対し絶望を感じるのは理解できる。そんな彼らが「アメリカが自由を失うなら、ロンドン、パリ、シンガポールに行けばいい」と書き込む。それらの発言を見て、宇野さんは「この発想が、分断を生んでいる」と感じる。この感性こそ、自分で考えていない人からは出てこないであろう。

インターネットが登場したころ、「情報リテラシー」という言葉が散々使われた。膨大な情報網の中から必要なものを瞬時に取り出し、それらファイルを必要な人とやりとりする。つまりインターネットを使いこなすスキルの重要性が問われた。

いまの時代、そのスキルは、人に惑わされない力なのではないか。誰かがこう言うから自分も発言する、多くの人から共感されるための書き込みをする。意識的にこういうことをしている人は少ないかもしれないが、無意識のうちにこういう行動に陥っている人は多いのではないか。正直に言うと、僕もこれらの無意識の行動に思い当たる節がある。

ところで、宇野さんのプロフィールを見ると「批評家」とある。これまで深く考えなかったが本書の一文で、なぜ宇野さんが自信をこう名乗るかがわかった。

批評とは自分以外の何かについての思考だ。(中略)それは、対象と自分との関係性を記述する行為だ。そこから生まれた思考で、世界の見え方を変える行為だ。(P.202)

対象とは自分が出会った「何か」である。その何かについて、深く自分で考えること。そこにオープンな空間はいらないし、つながりもシェアもいらない。自分というひとりの存在が対象と対峙することで、新しい見え方が生まれる。そう、新しいものはこうやって生まれるのだ。

一人ひとりが、このように世界の新しい見え方を提示できたら、世界はどれだけ多様性に満ち、またどれほど新しいものが生まれるだろうか。そこから初めて、つながること、シェアされることの価値が生まれる。インターネットを使いこなすとは、こういうことであろう。

かつてインターネットが登場した頃、グローバル・ブレインとして、世界中の知がつながることが期待された。それから30年、ネットでは同調圧力が進み、人を考えなくてすむツールになった。そのスピードに反射的に反応するだけでなく、人の思考が深まる装置になるために何が必要か。宇野さんはそれを本書で主張するとともに、自ら「遅いインターネット計画」と称し、今後、ウェブマガジンの創刊や発信スキルの向上などに取り組むと言う。本書は自ら新しい運動論を立ち上げる宇野さんの覚悟ある宣言書でもある。


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