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なぜ発想が行き詰まるのか?〜「Can」の呪縛

新しいアイデアが生まれなくなるとき

長く続いている雑誌は、鉄板の「特集ネタ」を持っている。何が当たるかわからない中で、「この特集をやれば当たる」というネタである。なぜなら、過去にそれで何度も当てた経験があるから。こんなネタを持っている雑誌は強い。頃合いを見計らって、その鉄板ネタを出すことができる。

一方で、どんな鉄板ネタも、時代とともに廃れるし飽きられる。そもそも、過去の成功を超えるのは難しい。慢心も出てくる。使い回しできるネタが、徐々に弱体化していくのである。

それ以上に深刻なのが、過去に築いた鉄板ネタに頼ると、企画を立てる足腰そのものが弱ってしまうことである。過去の成功体験は計算がたつ。それなりの数字となると分かっているので無用なチャレンジをしなくなる。この「過去から発想する」クセは、誰しも陥りやすい。

新しいアイデアや企画を考えていて、自分の発想が自分でもつまらないと思ったことはないだろうか。なんだか自分が過去に経験したことの焼き直しであったり、どこかで見たことがあるような。「自由な発想ってこんなに難しかったんだっけ?」と愕然とする。

なぜ、新しいアイデアが生まれなくなるのか?自分の発想が行き詰まるのか? この課題に、光を与えてくれるのが、ソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)副所長の暦本純一さんである。

妄想と「神との対話」

東京大学教授でもある暦本さんは、あのスマホのスワイプ技術をはじめ、VRやA Rなど今日では当たり前に使われている技術を開発されて来たヒューマン・コンピュータ・インタラクションの世界的第一人者として知られる。それらの技術は、スマホはおろか、今日のデジタル化された社会のはるか前に生み出されたものだ。

このような「今では当たり前」の技術を、時代を先取りしてこられたその発想はどこから生まれたのか。昨年暦本さんが出版された『妄想する頭、思考する手』は、これまでの技術開発の話を通して、暦本さんの発想の作法を語られた本である。

そしてこの本を元に、その発想の秘訣を暦本さんご自身の声で語ってもらった。それが音声コンテンツVOOXの「妄想がアイデアを生む」である。


暦本さんは、まず妄想からアイデアの着想を得るという。そして、その妄想が形になるか、実際に手を動かすことを厭わない。もちろん描いて妄想がすぐに実現性を持ちうるわけではなく、そこには失敗の山が築かれる。ただし、その失敗群は暦本さんにとって失敗ではない。それは、なぜそれができないのかがわかる学習のプロセスなのである。

その学習プロセスこそが、試行錯誤であり、そこでは科学的に見えなかったことが見えてくることがある。そして、試していなかった可能性に気づく。この手を動かしながらの思索を、暦本さんは「神との対話」と表現される。何ができて何ができないか。人間が知り得ていることはほんのわずかであり、未知なる知は山ほどある。その山を突き止めるかようなプロセスから、新しい知が生み出され、サイエンスの地平が広がるのだろう。

暦本さんの語り口は軽妙で、わかりやすい言葉使いなのだが、その語られている内容は本質的であり王道に思えてくる。

妄想が教えてくれる「できること」の罠

改めて「妄想」について考えてみた。「そんなの妄想だよ」という言葉は、アイデアの実現可能性のなさを指摘するときに使われる。さらにいうと「浮ついたことを考えていないで、現実的な答えを出せ」と迫られる。アイデアの斬新さより実現できる解が求められるのだ。この妄想軽視の発想は、「実現可能性」への過剰反応ではないだろうか。

よく言われるように、新しいことを企画する際、MustとWantとCanが求められる。Mustは「それをやる意義」である。それをやると、誰にとっていいことがあるのか。社会にとってどんな価値が生まれるのか、である。Wantは、それをやる意欲である。新しいことは「やってみたい」という願望なり、強い意思がないと成功しない。「やりたい」がない試みは、それがどんなにアイデアが優れていようとも、それ自体に根源的な力を持ち得ない。最後のCanは実現可能性である。それは、本当にできるのか?絵に描いた餅ではないのか。これらへの説得力のある材料が揃わないと、そもそも構想だけで終わってしまう。

この3つの条件を思い出しながら、暦本さんの「妄想」から考えてみると、僕らは「Can」の呪縛に囚われすぎていることに気づく。新しいことを考えるときに自分の「できること」の範疇で考えていないだろうか。「できること」は計算が立つが、なぜなら経験したことだからであり、新しいことではない。新しいことは未知なので、できるかどうかわからない。計画できないのである。

この「できること」だけで発想すると、そもそも新しいものが生まれるはずがない。それはアイデアの創出ではなく、蓄積されたデータベースからの応用にすぎないのである。何か、新しいことを考える際に、この「できること」の範疇で考えてしまう罠は無意識のうちに自分の頭の中に蔓延してしまうのではないだろうか。

妄想とは「やりたいこと」ではないか

暦本さんの発想の起点である「妄想」は、企画の条件に照らすと、Wantではないだろうか。「こんなことができたらいいな!」という世界観であり、その実現への願望である。その際、Canは問わない。

ただし妄想を妄想で終わらせるのではない。その実現性をどこから取っ掛かるのかを定める。そのために、暦本さんは自分のアイデアを言語化すると言う。この際、その言語化は「1行で言い切る」と実にシンプルだ。この言葉におろすことで、実現へむけて「どこから取っ掛かるか」が明確になる。ここから「神との対話」が始まる。つまり「できるかどうか」の試行錯誤が始まるのだ。ここでも暦本さんは、Canを既知のものとせず、未知なるCanを探し始めるのだ。そして「できること」が意外と多くあることに気づく。ここ妄想を実現させる方法論を持たれているところが暦本さんの最大のみだろう。

暦本さんの話を聞いて改めて思ったが、新しい発想を求める場に、「できること」の存在が大きすぎないだろうか。「できること」じゃないと計画できないという事情があったとしても、新しいことに計画を持ち出しすぎなのかもしれない。できないことを言い出す人間は信用されない。ホラ吹き、頭でっかち、アイデア倒れ、、、と辛辣な言葉はいくつもある。だからといって「妄想」が軽んじられると、生まれるはずのものが生まれなくなってしまう。少なくても、他者に認められないとしても、自分の妄想を塞いてしまうと「できること」からしか発想できなくなってしまう。

暦本さんの話し方は聞いているだけで楽しくなる。第3話などでは自分が妄想を掻き立てられた、数々のSF作品について言及されているが、失礼な言い方をすると、そこには第一線の研究者というより、SFに夢中な子どもの顔が丸出しである。言い換えると、子どものようなワクワクをいまだに持ち続けておられる。それは、今なお頭の中で妄想を膨らませていて、それを実現させることを考え続けているからではないだろうか。さらにいうと、妄想を実現させてきた経験が何度もあるので、それが自分の中で揺るがないのだろう。

「できること」から考えるのと、妄想から考えるのと、どっちが楽しいかは明らかだ。そのことを暦本さんは、言葉で、そしてご自身の話ぶりで僕らに伝えてくれる。


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