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469 ソ連のロケットデザイナーセルゲイ・コロリョフ、ヒンドゥー・ナショナリズムWikipediaが面白い。



先日のホリエモンの雑談より。ソ連のロケットのチーフデザイナー。

セルゲイ・コロリョフ

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セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフウクライナ語: Сергій Павлович Корольов, ロシア語: Сергей Павлович Королёв; 1907年1月12日旧暦1906年12月30日〉 – 1966年1月14日)は、ソビエト連邦の最初期のロケット開発指導者。コロリョフは、アメリカのヴェルナー・フォン・ブラウンとともに米ソ宇宙開発競争の双璧を成した人物である。

第一設計局 (OKB-1) の主任設計者として世界初の大陸間弾道ミサイル (ICBM) であるR-7を開発した。R-7はペイロード核弾頭から宇宙船に替えて宇宙開発にも使用され、1957年に世界最初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、1961年には世界初の有人宇宙飛行としてユーリイ・ガガーリンを宇宙に運んだ。

人物・来歴[編集]

エンジニアとなるまで[編集]

コロリョフは当時ロシア帝国領だった(現在はウクライナ領)ジトーミルロシア人の父とウクライナ人の母の間で生まれ、若い頃はオデッサで、その後はキエフで学び、1920年代前半にはキエフの航空研究会に所属してグライダーを設計した。1926年にモスクワ最高技術学校(現在のバウマン・モスクワ工科大学)に進み、有名な航空機設計者のアンドレイ・ツポレフの指導を受けながら1930年に卒業した。その後は爆撃機の設計に従事しながら、航空機ジェット推力を使う事を構想し、1931年にはジェット推力研究グループ (GIRD) に参加した。

シベリア流刑[編集]

1933年にはソビエト連邦で最初の液体燃料ロケットの打上げに成功し、新設されたジェット推力研究所の所長になった。1938年7月22日、新ロケットの開発に難航する中、他の研究所メンバーと共にソ連内務人民委員部 (NKVD) に逮捕された。先に逮捕されていたヴァレンティン・グルシュコの告発による冤罪である。

容疑はテロ組織への関与と研究遅延・怠慢による国家資源浪費であった。尋問の際には顎をひどく骨折するほどの暴行を受け、自白を強要された。10年の刑を受け、シベリアコルィマ鉱山にある強制収容所に送られた。過酷な環境の中で壊血病を患い、症状はひどく悪化したため全ての歯は抜け落ち、心臓病に苦しんだ[1]

コロリョフはその後、師であるツポレフの嘆願などにより8年へ減刑され、モスクワにある科学者刑務所(シャラーシカ、Sharashka、Шарашка)に移され、かつての同僚でコルィマ送りのきっかけとなったグルシュコと共に再び戦闘機・爆撃機開発に従事した。コロリョフの罪が免除されたのは1944年だった。

後にコロリョフは、自分を収容所に送った元凶がグルシュコの虚偽の告発と知り、グルシュコもまた、常にコロリョフの陰に置かれる立場が気に入らず、死ぬまで相互不信が続く事になった。ソ連首相フルシチョフは2人の不仲を非常に気にかけ、コロリョフとグルシュコを夫人同伴で自宅に招いて仲直りさせようとしたが、成功しなかったという。フルシチョフはまた、コロリョフの人間性をあらわすエピソードとして以下の話を回想記に記している。コロリョフは、自分が当初反対した酸燃料(自己着火性過酸化剤燃料)を用いたミサイルのプロジェクトがミハイル・ヤンゲリの主導で成功しはじめたのを見ると、そのプロジェクトを自分に回してくれるようにとフルシチョフに直訴した。フルシチョフは、「そんなことをしたらヤンゲリに対する侮辱になる」とコロリョフをたしなめた上で、「天才にも弱点があるものだ」と回想記に記している。

ロケット開発への参加[編集]

1945年にコロリョフは初の栄誉勲章を受け、赤軍では大佐の階級を与えられた。同年、第二次世界大戦直後のドイツに飛び、ペーネミュンデ研究所で作られていたドイツのV-2ロケットの情報収集を行った。1946年には5000人のドイツ人技術者をソ連国内に移送させたが、この技術者達は比較的良い扱いを受け、彼らは1947年にV-2の改良型のR-1多弾頭型ロケットを打ち上げた。しかし、同年にコロリョフが設計したR-2ロケットはV-2の倍の飛行距離を記録した。ドイツ人技術者達は1954年から1956年にかけて東ドイツに帰国する事になった。その後、グルシュコの設計したエンジンが信頼性を持てずに開発が難航したが、1953年にはR-5で射程1200キロメートル中距離弾道ミサイルの開発に成功し、さらに1957年8月にはR-7の実験に成功し、模擬弾頭をカザフスタンバイコヌールから極東カムチャツカ半島に到達させた。R-7は射程が7000キロメートルと長距離で、早速ICBMとして配備され、ソ連は太平洋北極海)を超えてアメリカ本土を直接攻撃できるようになった。

なお、コロリョフは1950年4月カリーニングラードの第88研究所 (NII-88) 内に設置された第1設計局 (OKB-1) の主任設計者に任命され、1952年にはソ連共産党に入党して研究開発に必要な資金が国家から援助されるようになり、1957年4月には1938年の逮捕と裁判が不当と認められて名誉回復にこぎ着けた。一方、1930年に結婚した妻クセニアとの間は一女が生まれたが、強制労働中は引き離され、解放して再会した後の1948年には離婚して、若いニーナと1949年に再婚した。

宇宙開発への貢献[編集]

スプートニク計画」および「ソ連の宇宙犬」も参照

1957年10月4日に、R-7ロケットにより世界最初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げた。コロリョフは1953年ソ連科学アカデミーの運搬を含めた人工衛星打ち上げの可能性を主張したが、軍や党の反対で実現しなかった。しかし、1957年国際地球観測年で、アメリカが世界初の人工衛星の打ち上げを計画している事を西側の新聞で知ったコロリョフは、アメリカ政府が巨額の費用を理由に凍結したのに対して、ソ連がアメリカに先駆けて世界最初の人工衛星を打ち上げることの意義を説いて、人工衛星の打ち上げにこぎ着けた。そして、コロリョフの計画は完全に成功し、重量83.6キログラムでシンプルなデザインの人工衛星が大気圏外に打ち上げられた。ニキータ・フルシチョフ第一書記がソ連の社会主義科学の成果を誇り、アメリカの科学技術の権威が失墜するスプートニク・ショックが世界を駆けめぐった。

続いて、ロシア革命40周年記念日(1957年11月7日)直前の11月3日スプートニク2号が打ち上げられた。これは重量が500キログラムを超え、中にライカという犬を乗せて宇宙に運んだ事がより衝撃的だった。ただし、この時点ではコロリョフの開発チームにはこの犬を周回軌道上から地上に生還させる技術はなく、予定の10日後よりももっと早い数時間後に犬は死亡した。

続いて有人宇宙船ボストークボストーク計画)を開発し、1961年に世界初の有人宇宙飛行としてユーリイ・ガガーリンを宇宙に運んだ。

さらに有人月旅行を目指して大型宇宙船ソユーズや大型ロケットN-1の開発を進めるが、1966年ガンの手術中に心臓停止し、死去。59歳没。若年期のシベリアでの強制労働が原因で身体は弱り果てていたという。国葬で送られ、赤の広場の壁にソ連の歴代要人と並んで葬られた。

コロリョフを追悼したソ連の切手

コロリョフはその開発が高く評価され、レーニン勲章も授与されたが、宇宙開発技術者の身元を明かさないというソ連当局の方針によって、その死まで彼の名前が西側に伝わることはなかった。アメリカのヴェルナー・フォン・ブラウンと共に、米ソ宇宙開発競争の中心人物であった両者は一度たりとも対面したことはなかったばかりではなく、ブラウンがコロリョフの存在を知ったのは彼の死後であった[2]

コロリョフの死後、第1設計局 (OKB-1) の主任設計者は、長年に渡り彼の首席補佐を務めたヴァシーリー・ミシンが引き継ぐ事となった。

彼の設計したR-7はその後も仕様変更などを重ね、2008年現在でも運用され、1500回以上の打ち上げに成功している文句なしに世界で一番安全なロケットであり「ロケット界のフォルクスワーゲン」と言われている。

現在[編集]

  • ロシアの主要ロケット・宇宙機器製造会社・エネルギアがコロリョフの名称を付けている。

  • 上記エネルギアがあるモスクワ北東郊外の街カリーニングラード[3]コロリョフと改称されている

  • サマーラのロシア国立航空宇宙大学に「コロリョフ記念アカデミー」の名前が付されている。

脚注[編集]

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注釈・出典[編集]

  1. ^ 心臓病の後遺症は最終的にコロリョフの死因となっている。

  2. ^ この一方、コロリョフはマスコミに頻繁に登場していたブラウンの存在を知っていた。

  3. ^ バルト海に接する港湾都市(旧称ケーニヒスベルク)とは違う街であることに注意。

参考文献[編集]

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、セルゲイ・コロリョフに関連するメディアおよびカテゴリがあります。

セルゲイ・コロリョフ
Сергій Корольов

1934年

生誕1907年1月12日

ロシア帝国ヴォルィーニ県ジトーミル死没1966年1月14日(59歳)

ソビエト連邦モスクワ業績勤務先ミサイル設計者受賞歴社会主義労働英雄 (1956,1961),レーニン賞 (1971), 3 レーニン勲章, 特別栄誉章, 「労働英雄」のためのメダル

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ヒンドゥー・ナショナリズム

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ヒンドゥー・ナショナリズム: Hindu nationalism)とは、主にインドにおいて有力なヒンドゥー教に基づく政治思想で、インドの歴史における精神的、文化的伝統に基礎を置くナショナリズム的な考え方である。

注意すべき点として、日本のマスコミ報道では、後述するヒンドゥトヴァ(हिन्दुत्व)と一体となって「ヒンドゥー至上主義(supremacy of Hindu beliefs)」と呼ばれることが多いが、日本以外の国では「ヒンドゥー民族主義」(Hindu nationalism)が一般的である。特にヨーロッパ諸国がインドを植民地化し英領インド帝国に至るなかで、これへの疑問として形成[1]されていった経緯をもち、その活動にはイギリス当局への武装闘争[2]から非暴力市民的不服従まで[3]を広く含んできた。現在もマハトマ・ガンディーとは別系統の社会思想として無視できない数の支持者・支持団体を有している。

語源[編集]

「ヒンドゥー」 Hindu の語源は、サンスクリットインダス川を意味する sindhu が古代ペルシアで転訛したもの。「(ペルシアから見て)インダス川対岸に住む人々」の意味で用いられていたものが、インドに逆輸入され、定着した。インド植民地時代に大英帝国側がインド土着の民族宗教を包括的に示す名称として採用したことから、この呼称が広まった。

歴史[編集]

バクティ運動[編集]

シヴァージーの像

ヒンドゥー教では、解脱へ三つの道を説いており、それは知識(ジャニャーナ)の道、宗教的義務を遂行する行為(カルマ)の道、そして信愛(バクティ)である。バクティとは、もともと夫と妻のような、契約や約束によらない人間同士の信愛を示した言葉であり、これを神との関係にまで拡大し、最高神に帰依すれば最高神の恩寵によって救われるとしたのがバクティ運動である。7世紀頃に南インドから始まり、インド全土にひろまったバクティ運動は、伝統的な宗教儀式を無視し、カースト制度にも無関心なためにバラモン階級を悩ませ、そのため長い間バラモンに反対されていたことは疑いない。後代にはバクティ運動自体がより正統的なものになり、ヒンドゥー教の主流となった。

デリー・スルターン朝によって北インドイスラーム化が進むにつれ、南インドヴィジャヤナガル王国は隣接するイスラーム王朝ビジャープル王国などとも闘いながら、ヒンドゥー教意識を強めていった。

ムガル帝国の下ではアクバルが宗教に対して寛容な政策を採ったこともあったが、アウラングゼーブのヒンドゥー教はじめ他宗教への厳しい弾圧政策がかえって反発を呼び、シヴァージーによるヒンドゥー教徒のマラーター王国建国やラージプートの抵抗などを招き、のちに彼らは衰退していくムガル帝国よりも新たな征服者であるイギリスに対抗するようになっていく。

19世紀のヒンドゥー教改革[編集]

スワーミー・
ダーヤーナンダ

19世紀に入ると、そうした武力抵抗ばかりでなく、ヒンドゥー教を通じた精神的・文化的な社会改革の運動が起きるようになる。その初期のものがブラフモ・サマージであった。

ベンガル人ラーム・モーハン・ローイによって開始されたこの運動は、古代ウパニシャッドを時代に応じた合理主義的なものに再構成することに努め、偶像崇拝や宗教的習慣を欠いた一神教を信じ、カースト差別女性差別を批判[4]

続いてアーリヤ・サマージスワーミー・ダーヤーナンダ英語版)によって設立され、キリスト教イスラム教、さらにはヒンドゥー教内部の幼児婚の習慣やバラモン批判に踏み込み、団体そのものは社会改革を目的としていたがインド独立運動革命家政治的リーダーを輩出した。

ヴィヴェーカーナンダ(中央のターバンの人物。1893年の世界宗教会議にて)

そしてラーマクリシュナの主要な弟子であるヴィヴェーカーナンダ普遍宗教を説いて物質主義を批判、ヒンドゥー教の新境地を開いた。

この思想はマハトマ・ガンディー社会思想であるガンディー主義サルヴパッリー・ラーダークリシュナン(後の第2代インド大統領)の思想の基礎となったが、いっぽう今日におけるヒンドゥー・ナショナリズムの源泉ともなった[1]。ある民族義勇団(RSS)の活動家は「ヴィヴェーカーナンダはRSSの『バガヴァッド・ギーター』だ」と言ったという。

20世紀初頭のヒンドゥー・ナショナリズムの創始[編集]

インディア・ハウスが活動した建物(ロンドン)

具体的にヒンドゥー・ナショナリズムが始まるのは1905年、イギリスの著名な社会主義ヘンリー・ハインドマンが発起人[5]となったロンドンの活動家グループインディア・ハウス英語版)においてであり、ここはヒンドゥー・ナショナリズムとインドの共産主義との接点となった[6]。ここを基盤にヴィナーヤク・ダーモーダル・サーヴァルカル英語版)はラーマヤーナを引き合いに暴力・武力を含んだ独立闘争を説き、いっぽうガンディーは非暴力社会改革運動を主張した。

サーヴァルカルは自らの概念をヒンドゥトヴァ(हिन्दुत्व)として提唱し(パンフレットを刊行したのは1923年)、また政治団体(政党)ヒンドゥー・マハーサバー英語版)(हिन्दू महासभा、ヒンドゥー大会議 といった意味)を創始している(1915年)。

Lal-Bal-Palと呼ばれた3人、左からラーイ、ティラク、パール

またインド国民会議派においてもLal-Bal-Pal英語版)と呼ばれた3人、アーリヤ・サマージの影響を受けたパンジャーブ人ラーラー・ラージパト・ラーイ英語版)、インド中部のバール・ガンガーダル・ティラク(それまでにガネーシュ・フェスティバルシヴァージー祭典の組織化に成功していた)、ベンガル人ビーピーン・チャンドラ・パール英語版)らの急進派が台頭してスワデーシー(国産品愛用)運動や、1905年ベンガル分割令[7]などに激しい抗議運動を展開した。オーロビンド・ゴーシュが政治活動をしたのもこの時期である。

ガンディー(左)がヒンドゥー・ナショナリストと名乗ったことはない。いっぽうチャンドラ・ボース(右)は社会主義の源泉をヴィヴェーカーナンダに求めた。

サーヴァルカルや「Lal-Bal-Pal」と呼ばれた3人は激しい反イギリス的な姿勢をみせたと同時に、インドの土着性としてヒンドゥーの側面を強調したのが大きな特徴であった。しかしこうした急進派の態度は1906年に結成されたムスリム連盟などと軋轢を生じさせる。さらに第一次世界大戦の後に独立運動の主導権を握り、独自の指導で国民会議派の統一を回復したマハトマ・ガンディーが自らをヒンドゥー・ナショナリストと位置づけたことはなく、ダルマ(Dharma, धर्म, )と「ラーマ・ラージヤ」(Rama Rajya, राम राज्य, 「ラーマの支配」の意味)を自身の社会的・政治的哲学として信じたうえでアヒンサー不殺生)に基づく非暴力かつ平和主義的な市民的不服従路線を採り、また広げていた[8]。こうしたガンディーの姿勢に飽き足らないひとりにスバス・チャンドラ・ボースがいたが、彼はインドの社会主義の源泉をヴィヴェーカーナンダに求めていた[9]

インド独立から現況まで[編集]

民族義勇団と印パ分離独立[編集]

RSSの創設者、
K.B.ヘードゲーワール

インド独立後のソムナート寺院の再建

荒廃したソムナート寺院(1869年)

パテール副首相は1948年にソームナート寺院の再建を命じた。

そうしたなかでサーヴァルカルの思想を発展させ 民族義勇団(Rashtriya Swayamsevak Sangh(RSS)、राष्ट्रीय स्वयंसेवक संघ, 民族奉仕団 とも訳される)を設立したのがナグプール医師ケーシャヴ・バリラーム・ヘードゲーワール英語版)であった。一時期、国民会議派に所属した彼だったが1925年に離脱しRSSを創設。

しかし以後しばらくは親イギリス的なムスリム連盟に対し、国民会議派主導の反イギリス闘争に足並みをそろえて参加することが多かった。とはいえRSSがカーストを克服しヒンドゥー教徒の統合をめざすには共通の敵を必要とした。それがムスリムであった[10]

こうして先のムスリム連盟との軋轢もあり、RSSそしてヒンドゥー・ナショナリスト全般に反ムスリムの色彩がさらに強くなっていき、政教分離世俗主義でムスリムとの融和を方針とする国民会議派との溝も次第に深まっていく。

ガンディー暗殺で訴追された人々。中央が実行犯のN.ゴードセー、その左の帽子をかぶった人物がV.D.サーヴァルカル。

このようななかでヒンドゥー・ナショナリストを大きく動揺させ、また彼らの不安が的中する形となったのが第二次世界大戦後1947年インド・パキスタン分離独立であった。サーヴァルカルやヒンドゥー・マハーサバーらはガンディーをジンナームスリム連盟に妥協し、インドの分裂を招くと激しく批判した[11][12]。また、サーヴァルカルは当時イスラエルを建国してイスラム教諸国の反感を買っていたシオニズムを支持してムスリムへの対決姿勢を強めた[13][14]

しかしガンディーが翌48年暗殺されると、実行犯のナートゥーラーム・ゴードセーがヒンドゥー・マハーサバーの党員だったため、今度はヒンドゥー・ナショナリストが轟々たる非難にさらされることとなり、RSSも結社禁止となった。しかしRSSとしては暗殺計画に加わっていなかったことが証明され[15]、同団体への禁止措置は撤回されている。またゴードセーは死刑となり、サーヴァルカルは釈放されたものの、その活動は事実上制限された。

こうしてヒンドゥー・ナショナリストはインド政界において陽の当たらない位置に追いやられたが、いっぽうで国民会議派政権は一定の配慮も示し、シヴァ聖地でありながらアウラングゼーブの弾圧により荒廃していたソームナート英語版)(現・グジャラート州)の寺院をジュナーガド併合の際にヴァッラブバーイー・パテール副首相の主導で再建するなどもしている。

サン・パリヴァール[編集]

インドの首相となった
A.B.ヴァージペーイー
(パジパイ)

RSS団員の正装

その後、RSSは代々のインド国民会議派政権の影で野党的勢力として拡大し、またヒンドゥトヴァの理念を深めていった。そして活動を社会運動宗教政治に広げ、政党としては1951年インド大衆連盟英語版)を結成(のちジャナタ党への参加を経て現在のインド人民党となる)、宗教としては世界ヒンドゥー協会英語版)、その他労働運動学生運動スワデーシー運動や農民協同組合団体、シンクタンクなどを有し、総合的な陣容をそろえている。これをサン・パリヴァール英語版)(संघ परिवार, 英訳は Family of Associations で「諸団体の一家」といった意味)という。

ヒンドゥー・ナショナリストは国民会議派が紡いできたガンディーからジャワハルラール・ネルーインディラ・ガンディーの線に沿った独立インドの歴史に対し、これに右派タカ派的な立ち位置から異議を唱えてきたグループである。そして、むしろ近年になって1992年アヨーディヤーバーブリー・マスジド破壊事件および連なる暴動や、1996年(ただし13日間のみ)と1998年から2004年にかけてアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー(パジパイ)がインド人民党から首相となったように、その動向に世界から注目が集まるようになっている。

備考・出典[編集]

[脚注の使い方]

  1. ^ a b Peter van der Veer, Hartmut Lehmann, Nation and religion: perspectives on Europe and Asia, Princeton University Press, 1999

  2. ^ Li Narangoa, R. B. Cribb Imperial Japan and National Identities in Asia, 1895-1945, Published by Routledge, 2003

  3. ^ Mahajan, Vidya Dhar and Savitri Mahajan (1971). Constitutional history of India, including the nationalist movement (6th edition). Delhi: S. Chand

  4. ^ Thomas R. Metcalf, A Concise History of India, Cambridge University Press, 2002

  5. ^ India House | Shyamji Krishna Varma Memorial Society

  6. ^ Radhan 1997, p. 35。のちにインド共産党の設立に加わるM.P.T.アチャルヤも参加していた。

  7. ^ 分割令は1911年に撤回されるものの東ベンガルで多数派となれるムスリムには有利であり、さらに国民会議派を分裂させたため、ここにヒンドゥー・ナショナリズムとムスリムのあいだにくさびを打ち込むイギリスの狙いは一定の成功を見せたともいえる。

  8. ^ もっとも、こうしたガンディーの路線はムスリムからは「あまりにヒンドゥー的である」として警戒されて後の印パ分断の要因となり、またアンベードカル不可触民からも「ヒンドゥーの欠陥を脱しきれていない」と批判され、新仏教運動につながる。

  9. ^ P. R. Bhuyan, Swami Vivekananda, Published by Atlantic Publishers & Distributors, 2003

  10. ^ 「カースト制度を克服し全ヒンドゥー教徒の統合を目指すが、組織は上位カーストの文化に拠ると言う矛盾があり、これを克服する為に共通の敵が必要だった。それがイスラム教徒であり、それを敵と叫ぶことでヒンドゥー社会の統合を推し進めようとした。」原理主義に関する考察 5.ヒンドゥー・ナショナリズム

  11. ^ http://www.boloji.com/opinion/0022.htm

  12. ^ http://www.kamat.com/kalranga/itihas/partition.htm

  13. ^ Savarkar, Vinayak. “GLAD TO NOTE THAT INDEPENDENT JEWISH STATE IS ESTABLISHED”. Historic statements - Veer Savarkar. www.docstoc.com. 2014年11月12日閲覧。

  14. ^ Hindu-Zion

  15. ^ Report of Commission of Inquiry into Conspiracy to Murder Mahatma Gandhi, By India (Republic). Commission of Inquiry into Conspiracy to Murder Mahatma Gandhi, Jeevan Lal Kapur, Published by Ministry of Home affairs, 1970,page 165

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]



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