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僕たちが東京とうまくやっていくための参考書(小説『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』感想文)

プロフィールに「1991年生まれ。」とだけ記されたTwitterアカウントの投稿が「タワマン文学」と呼ばれて人気を集めているーーー本書は「麻布競馬場」という正体不明のアカウントが、2021年から約一年の間にTwitterに投稿したショートストーリーを集めて書籍化したものだ。

全二十編の物語は、毎回出自や性別の異なる人物が登場し、基本的に各話独立したものになっている。主人公が一人称視点で生い立ちから現在に至るまでを独白する形式が多く、その経歴に共通するのは、年齢が三十歳前後であることと、いわゆる“中流”といわれる家庭環境で育ってきたこと。また、東京で暮らした経験があり、そしてことごとく「東京との関わり方」に失敗しているということだ。

子どもの頃から都内で暮らす者、大学進学や就職を機に上京する者など、関わり方は様々だが、彼らは東京と上手く関係を築くことができていない。ある者は挫折して地元に戻り、またある者は歪んだ関係のまま東京で暮らし続けている。

最初の物語で、高校教師が卒業生たちに向けて「誰もが苦しみながら生きている」と語り「それぞれの人生に地獄がある」と説く場面があるが、本書自体がまさに「それぞれの人生と地獄」を集めて構成されており、僕たちはそれを覗き見ることになるのだ。

さて、そんな本を題材に、ここでは「なぜ人は東京との関わり方に失敗してしまうのか」という問題について考えていきたい。

(以下、ネタバレを含みます。)

麻布競馬場の作品は「東京は、自分に価値があると錯覚させる機能がある」という理解に基づいて書かれている。

例えば、先に挙げた高校教師は、かつて東京で暮らしていた頃を思い返し、東京を「自分の特別な価値を証明してくれる、特別な場所」だと思っていたと話している。東京を特別視し、そんな東京に独力で辿り着いたという自負が、自分を生きづらくさせていたのだと。

また、品川区の実家住まいで、中学校からずっと学習院、いまは六本木一丁目のベンチャー企業で働いている港区女子は「私の価値を分かりやすく感じさせてほしい」と承認を求め、週末の合コンやクラブに足を運ぶ。不安をごまかし、驕心を満たしてくれる東京を愛してやまない。

あるいは、埼玉出身で都内の女子短大に進学した女性は、マッチングアプリでのハイスペ男子との出会いをきっかけに、高学歴な男性たちとのデートにのめり込む。東京の男たちに時間やお金を遣わせることで生きるよすがを得た彼女は、以前から交際していた携帯ショップに勤める彼氏と別れてしまう。「彼氏のことが急に価値のない男に見えてきた。というか、私が価値のある女に思えてきた」。

 

僕は、東京が「自分に価値がある」と錯覚させる構図は、SNSでフォロワーや「いいね」を集めることに似ていると思う。

物語に登場する固有名詞を拾うと、主人公たちが東京と深く関わったのは、2000年代後半から2010年代であることが分かる。スマートフォンの普及とともに、SNSが日常生活に溶け込みはじめた頃だ。作中でも、mixi、YouTube、Twitter、Facebook、Instagram、Tinderなどが活用される描写は少なくない。

東京で暮らしながら、SNSで東京の人々の姿を観察し、自分もまた東京のプレイヤーとしての投稿を繰り返す。東京で生活することとSNSの上で東京暮らしをプレイすることが混ざり合った彼らは、プラットフォームの中で醸成・共有される価値観に自身の生活が支配されてしまう。

東京というプラットフォームにアカウントをつくってフォロワーや「いいね」を集めようと腐心するうちに、当人は本当にただのSNSアカウントになってしまったのだ。判断能力をプラットフォームに委ねてしまった彼らは、もはや自分の目で世界を見ることができない。

本書を閉じると、表紙の宣伝文句が目に留まる。「Twitterで凄まじい反響を呼んだ、虚無と諦念のショートストーリー集」。登場人物らが三十歳を迎えて感じる虚無や諦念とは、プラットフォームの価値観ばかりに従い、自分の価値観を磨くことをして来なかったために流れ着いた地点なのだと思う。

実を言うと、僕は最初に麻布競馬場の作品を読んだとき、他人の人生を揶揄するばかりの下世話なポルノだと感じた。分かりやすいトラウマ、大味で直接的な人間描写に、特定世代のノスタルジアを刺激する固有名詞を散りばめる。SNSの攻略方法を体現したようなテキストコンテンツだ。これを読んで「共感した」とリツイートしている人には「なんてつまらない世界の見方をしているのだろう」と思ったし、麻布競馬場に対しても、その創作姿勢にあまりいい印象を持っていなかった。

しかし、本書の最終章を読んで、その見方が少しだけ変わった。

「すべてをお話しします」と題された最終章は「このたびは、集英社の稲葉さんよりお声がけいただき、これまで書き散らしてきた作品群を一冊の本にすることができました」という書き出しからはじまる、あとがきのような文章だ。

ところがそれは、両親への感謝を記述している最中にブツンと途切れ、唐突に別の物語(本当の意味でのあとがき)がはじまる。その物語の主人公「おれ」は麻布競馬場自身だ。そこでは、これまで彼が作品として描いてきた人々を「お前」と呼び、「おれ」が「お前」たちを執筆する動機が露悪的な表現とともに明かされることになる。

お前のあとをつける。お前の暮らしを見る。お前の人生を見る。見えないはずのそれらを想像する。それはつまり決めつけで、決めつけとはつまり暴力だ。

お前のことをただ見るだけの日々についに飽きたんだよ。お前を決めつけて、お前の地獄を分かった気になって、それを文字にしてインターネットに流すんだよ。

これまで他人の人生を遠巻きに揶揄してきたアウトファイターが、最終ラウンドでインファイトスタイルに転じ、猛然とラッシュを仕掛ける。そんな凄みのある文章だった。麻布競馬場はここで、他者に対して「決めつけ」の暴力を行使することしかできない「おれ」もまた、東京との関わり方に失敗した者の一人だということを切実に訴えている。

つまりこの本は、メタレベルまで含めて、東京との付き合い方のアンチパターン集になっているのだ。そこには、僕たちが東京と上手くやっていくために「お前」にも「おれ」にもなってはいけないという教訓が込められている。

僕たちはまず、各話の登場人物のような「お前」になってはいけない。それには、東京というプラットフォームに存在する「決めつけ」られた価値観から脱却することだ。東京タワーが見える部屋かどうかを気にするのではなく、自分が本当に見たいものは東京タワーなのかを疑い、そして見たい景色を探すための暮らしを考えた方がいい。

次に、僕たちは「お前」を見て分かった気になっている「おれ」になってもいけない。著者が自らの労作を「決めつけ」の暴力だと告白したのは、この作品を読んで喜び、心を満たしている読者に向けて警告を発するためだ。僕たちは麻布競馬場の作品を読んでリツイートや「いいね」をしている場合ではない。彼を見て、彼のようにならない方法を考えるべきなのだ。

自分の心を縛る「決めつけ」と、他者に対する「決めつけ」。これらの暴力を捨てたところに、僕たちが東京と上手く付き合っていく本当の道筋が見えるはずだ。

(初出:2023/01/23『ezeroms.com』)

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