「江戸味噌」について
〈目次〉
1.江戸味噌とは
2.江戸味噌の成り立ち
3.大都市の事情が育んだ「みそ」
4.なぜ江戸味噌は「幻のみそ」となったのか
1.江戸味噌とは
江戸っ子たちが食べていたこのみそは、江戸で生まれ、街中でつくられていました。
第二次戦前には、白みそ、仙台みそ、田舎みそ(麦みそ)、八丁みそ(豆みそ)とならぶ「5大みそ」として知られていました。
残念ながら、明治の終わりごろから、少しづつ衰退をはじめ、さきの戦争での製造禁止をきっかけに世の中から姿を消してしまいました。
2.江戸味噌の成り立ち
それまで、味噌は自家醸造が一般的でした。
しかし、江戸庶民にとって、みそは買うものでした。人口増と慢性的な土地不足。せまい家。そのため、江戸では味噌を自製するのは難しかったのです。
一方、江戸には毎朝みそ汁を飲む習慣があり、みそは大量に消費されていました。
(対して、京阪地方の朝は茶がゆ、みそ汁は月に数回でした。)
江戸も初期には、様々なみそが各地方から持ち込まれましたが、だんだんと街中の醸造家によってつくられるようになりました。
3.大都市の事情が育んだ「みそ」
庶民と同様で、醸造家にとっても、大量のみそを時間をかけて発酵させる従来のみそ作りは、江戸の住宅事情には不むきでした。
そのため、江戸味噌は短期間で作られます。
塩をへらし、蒸した大豆の温度が高いうちに、多量の米こうじを加えまぜ、発酵を一気に進めるのです。約2週間〜20日、夏ならわずか10日でみそが出来上がります。
雑菌の繁殖をおさえながら、短期間で良質のみそをつくるというもので、きわめて合理的かつ洗練された技術でした。
ただし、一つ問題がありました。こうして出来たみそは、通常のみその様には長期保存が出来ないことでした。
そこで、江戸のいたるところに小規模のみそ醸造元が出来ました。その数約180軒もあったといわれています。
庶民には、みそを近くのみそ屋で毎日少量ずつ買ってはすぐに消費する、当用買いのスタイルが定着したのです。
濃いかっ色をした江戸味噌は、江戸では単に「赤みそ」と呼ばれました。
4.なぜ江戸味噌は「幻のみそ」となったのか
江戸庶民に広く愛された江戸味噌ですが、明治以降は徐々に衰退の道をたどりました。
明治2年。明治政府が版籍奉還を強行すると、江戸(東京)から藩邸がなくなり、多くの武士たちが郷里へと去っていきました。
その時、人口は半分近くにまで減ったともいわれます。
有力藩の一つ仙台藩も同様に仙台へ戻っていきました。大井にあった広大な下屋敷はひき払われ、そこで働いてきた味噌づくりの職人たちは、郷里に戻ってみそを作り、やがて、そのみそを広く販売しはじめたのです。
仙台味噌は、東京の人々の好みに合っていたようです。米こうじが少ないため原価がおさえられ、また塩が多く保存性が高いので広域への流通が可能。大規模製造・広域販売にも適していました。
そんな仙台味噌の製造技術が明治中期に公開されました。そこで当時の大資本家達がこぞって先代味噌業に参入しました。
歯抜けとなった江戸の藩邸跡地に、大規模な仙台味噌の醸造所を建て、製造販売を始めていきました。こうして東京では江戸味噌は淘汰され、消えててきき、東京では主に仙台味噌が消費されるようになったのです。
参照元: 「東京江戸味噌」Webページ
以上