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学校教育で、視覚障がい者の方のサポート方法を教わった記憶がない

以前私は「学校教育で救急車は呼べない」というnoteを書いたことがあります。
そこで視覚障がい者の方についてもちょっと言及したのですが、やっと先日You tube で探し当て、もし駅で視覚障がいの方を見かけたらどうすればよいか?を学びました。

積極的に声をかけるべきかどうか悩んでいたのですが、様子を見て、もしどうすべきかご本人が迷っていらっしゃるようであれば、声をかけるというのが基本のようです。
ちょっとすっきりしました。

でもこれ学校で教えればいいのにとやっぱり思ってしまいます。

ただ、今回はちょっと違う視点から書いてみます。

私たちの社会は様々な形で分断されています。
障害という言葉を例にとると、障害のない子供たちが通う普通の学校と、視覚障害、知的障害など、おそらく障害の内容によってカテゴリーがあるのではないでしょうか?

私たちはそういうカテゴリーのどこかに分類されて生きてます。

思うに、この分類が良くないのではないかと?

例えば同じクラスに視覚障害のクラスメートがいたとしたら、そのクラスメートと接することで、自然とどうサポートすればよいか身に付くような気がするんです。

では、なぜ私たちの社会はなぜ障害のある人々とそうでない人々とを分類し、棲み分けるに至ったのでしょうか?

ここからは私の想像です。

社会が発展していくにしたがって、生活やモノの生産、移動、等々様々な場面で飛躍的に速度が上がっていきました。

学校の授業にしてもある一定の基準を設けて、時間内に習得することが求められます。

しかし、なんらかの障害を持った方々はこの一定の基準にのっとった生活をするのは困難です。

例えば視覚障害の方は、視覚障害のない人に比べて移動時間がきっとかかるはずですし、本を読んだり何かの情報を視覚的に得るためには障壁が多く、その情報にたどり着くまで、そして理解するまでに時間がかかると思うのです。

産業や経済の発展が重要視される時代が長く続き、こうした何らかの障害を持った方々はそういう方々の生活のペース、スタイルにあった施設などで過ごすことになったのではないでしょうか?

そして社会は障害のない方をベースに産業や経済の発展のために突き進んでいったと。

もしこうした棲み分けがなかったとしたら、きっと社会のスピードはかなりスローダウンすると思います。

スローダウンはするかもしれませんが、もしかしたら、今までとは全く違く社会の在りようが待っているような気もします。

開発や発展、前進だけが優先されるない社会。

ありきたりかもしれませんが、”思いやり”とか”やさしさ”そういった概念が優先される社会になっていくような気がしてなりません。



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