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思想書や哲学書はなぜ読みにくい?

以前私は思想書、哲学書に類するような本を何冊か読んだことがあります。
今でも何冊かは私の本棚に残っていて、時折開いてみると、あちこちに赤い線が引いてあって、我ながら勉強熱心だった時期もあったのだなぁと感心したりしてます。

自分ではよくわからないのですが、そういうカテゴリーの本に一時夢中になり、言語学の本やら物理学の歴史に関わる本、西洋文明に関わる本、などなど数は大したことはありませんが、1年くらいはよく古本屋さんに通って面白そうな本を探したものです。そう、その頃アマゾンはなかったので。

そして、それらの本は日本語に翻訳されたものが多く、基本的に素養がない私にはとても読みにくいものが多かったと記憶しています。

学者が書いたものを学者が翻訳したような本ばかりだったのかもしれません。

ある本が仮にフランス人の著者により執筆されたとしましょう。私はフランス語を解さないので、その本のフランス語版ではなく日本語に翻訳されたものを読みます。

そうしてその日本語訳を読んであまりに難解な場合、こう思ったものです。「これ訳す前もこんな難解なフランス語で書かれているのだろうか?」と。

もともと難解に書かれているものなのか、それとも翻訳が難解になってしまっているのかわかりませんが、あるとき全く歯が立たない本に出くわして10ページほどで読むのを辞めてしまったことがあります。

思想書とか哲学書はどうしても抽象的になりがちで、著者が自分の考えをわかってほしい、あるいは訳者がこの考えをぜひこの良書を日本に広めたいと思っても、どうしてもアカデミックな世界の人々対象になってしまうようです。

仮に「この本で社会を変えたい」という思いで本を書いたとしても、それはできるだけ多くの人に理解し、行動してもらうようなスタイルでなければ意味がないかもしれません。

今、ありますよね、「マンガで学ぶ○○論」という感じの本。実際私はそういう本を読んだことはないのですが、わかりやすく、噛みくだいて、より多くの人に読んでもらうという目的からすると、とても意味があると思います。難解な訳を苦労して読むよりよっぽど理解の助けになりますし。

識字率って日本ではそう意識することありませんが、仮にある思想書が100年前に書かれたとして、その頃の識字率、印刷技術、書籍の流通などなど考えると、その本を読んで理解できる人はほんのわずかだったのではないでしょうか?

ここまで書いて思ったのですが、宗教って難解な思想書よりもずーっと多くの人々に浸透しています。
それは、きっと、書物というより語り言葉で、多くの人に分かりやすく伝える努力を長きに渡って続けてきたからなのかもしれません。


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