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Liv side 2

部屋には、うっすらと消毒液の匂いが漂っていた。淡いグリーンと白を基調とした家具や壁紙が病院を思わせる。
なんとも清潔感のある、パトリック家らしい部屋だ。

消毒液に混ざって、温かな紅茶の香りがやってきた。

「コーヒーの方が良かったかな」

テーブルで待っていたプラチナブロンドの初老の男性が優しげに微笑んだ。
白い布手袋を付けた手はこれから手術に臨む医者のよう。

パトリック氏だ。

物腰柔らかく、カモミールティーのような声音の一見害のない人物が、今のこの世界を実質牛耳っている人物だ。彼の逆鱗に触れ、もしも医療業界に一声かけられてしまえば、新型ウィルスはおろか一生医療機関と縁のない生活になってしまう。

K「パトリック先生、まさかお客様がいるとは思っていませんでしたよ」

クラウスの人好きする笑顔。
精一杯の抗議だが、パトリック氏は微笑みを崩さずに謝った。

P「すまないね、彼との話は突然に決まったんだ。娘がどうしてもと言ってね」

E「エドガーです。失礼をお許しください」

P「いいや、構わないよ。こちらはクラウス君だ、新型ウィルスのワクチン研究をしてくれている」

先ほど、ドアノブで握手は交わしていたが二人はもう一度握手をした。
パトリック氏の方から見れば穏やかな握手のようだが、反対側のこちらから見るとなんともヒヤヒヤする握手となっている。

K「エドガーさんのことは雑誌などで拝見しています。お会いしたいと思っていました。光栄です」
E「そんなふうに言っていただけるなんて、私の方こそ大変光栄です」

光栄合戦を2回ほど繰り返したところで、パトリック氏が本題を切り出した。

P「君たちが仲良くなれそうでよかった。…では、早速本題に入ろうか」

空気が変わった。
看護師のような服装のメイドが出した焼き立てのスコーンすらも、湯気を立たせるのを控えそうな、そんなピリついた空気だった。

P「研究はどうだい、クラウス君」
K「…お伝えしている通りです。最前線の治療に手一杯で、予防策となるワクチン研究に充分な手が回っていると言えません。今日は資金の増額をお願いしに来ました」

パトリック氏が紅茶を一口。
まるで、最近流行りのスイーツ屋の話でもしてるのかと思うほどゆったりとした動きだ。空気は相変わらずピリついているが、パトリック氏だけが浮いて見える。

P「そうだね…その点については私も同じ意見だ」
K「ありがとうございます」
P「エドガー君は、先ほど娘から聞いた限りでは資金援助の相談だとか」

クラウスとは対照的な深いロイヤルブルーのスーツのエドガーが襟を正した。
不敵な笑みを浮かべている。
クラウスは人好きのする甘い顔をしているが、このエドガーは正に悪人面と言うべきか。
スッと切れ長の目と薄い唇、通った鼻筋は気難しそうで、近寄りがたい印象を受ける。

E「えぇ。正しくは援助してほしいではなく、ぜひさせていただきたい」

クラウスが思わずエドガーを見た。
彼は自信たっぷりに背筋を伸ばした。後ろにいるフランキーという軽薄そうな男も、自信たっぷりにパトリック氏を見ている。

P「このご時世に、なんとも心強い提案だね」
E「ハッキリ申し上げて、旅行業界はもうダメです。この事態がいつ終息するか分からない、娯楽は後回し。今するべきは一刻も早いワクチン開発、そして予防接種です」

その通りだ。
だが、資金がなければ何もできない。
ワクチン開発も、予防接種だって初期費用はバカにならない。対象が国民全員となれば尚更だ。
副作用の把握のために治験の人員確保も必須。薬開発は金と人が大量に必要なのだ。エドガーは続ける。

E「不幸中の幸いか、私には金と人手はある。クラウスさんは天才科学者、パトリック先生は製薬業界そのもののお方だ。私たちがクラウスさんの研究に共同出資すれば、ワクチン開発は飛躍的に進むと思いませんか」

パトリック氏の雰囲気が変わった。
初めてきちんとエドガーの方を見た気がした。

P「…三人寄れば文殊の知恵、かな」
K「?」
P「いや、なんでも。エドガー君の提案、クラウス君はどう考えるかな」

後ろからクラウスの表情は見えないが、おそらく葛藤しているだろう。エドガーの言う通りではあるがエドガーの手を借りたくない。なんとなく気に食わない、と。
しばらくしてクラウスの肩が下がった。世界の人々の健康と自分の意地を天秤にかけたのだろう。

K「…願ってもない提案です。私から政府に共同出資の話をしておきます」
P「では、よろしく頼むよ、エドガー君」
E「こちらこそ、よろしくお願いします」

クラウスは今夜ウィスキーで溜飲を流し込むのだろうな、となんとなく思った。
隣のメイソンは相変わらずパソコンの画面と睨めっこしている。

P「ちなみに、エドガー君の人手というのは?」

パトリック氏は先ほどよりも空気を緩めて話し始めた。大きな議題があっさりと終わり、皆それぞれ肩の力を抜いている。

E「旅行会社ですから、搭乗員や窓口勤務の者も含め多くの者が働いています。会社として補償は出していますが、どうしても収入は減る。治験の仕事は高給ですし、社員は喜んで受けますよ」
K「自分の社員を提供するのか」
E「そうですが、何か?」

思わず非難めいた声音になったクラウスに、エドガーはきょとんと首を傾げた。端正な顔立ちだからだろうか、悪気のない少年のようで恐ろしい。

K「新薬の開発だ。マウスで実験するとはいえ、何があるか分からない」

エドガーの表情に一瞬たじろいだクラウスだったが、すぐにいつもの毅然とした態度に戻った。

エドガーの言うことは合理的だが、冷酷だ。
副作用で後遺症が出るかもしれない、何があるか分からない治験に、自社の人間を使うと言う。クラウスが苦虫を噛み潰したように伝えたのも、当たり前の人間らしい反応だと思う。

E「科学者らしくないですね、もっと合理的に考えなくては。何のための同意書ですか?」
K「…一生、後遺症を背負っていくことになるかもしれない。そうなれば君のところの労働力も無くなるし、世に知られれば新規で雇用を目指すものもいなくなるだろう」

クラウスはこういう時、自分の考えを通すよりも相手の考え方に沿ったデメリットを提案する。
科学者よりもコンサルタントなどに向いていそうだ。

E「…一理ありますね」

エドガーが顎に手を当てた。困った、という顔をしているが取ってつけたような感じがする。読めない男だ。

E「では、戸籍のない人間を使っては?」


それは、悪魔の囁きだった。