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父と私

「老いる」とはどういうことなのか、最近よく考える。

社会でいう「高齢者」に父親が当てはまることが原因だと思う。数年前の病気は父を余計に「老い」させた。私は病気の前の父をあまり覚えていない。というのも性格が180度変わってしまったのである。まだ介護の段階ではないが、いつかは父もそうなるのである。また、私は娘としてそういう姿を見ざるを得ないのである。言葉で理解していても受け入れるのはとても難しい。

先日、アルバイト先のドラッグストアで直面したことである。レジにいると、一人の男性がやってきた。(おそらく認知症の方かと思う)その人はカイロ30袋セットの箱を7つ買って行った。(本当にカイロが必要だったのかもしれない。真相はわかりかねるが・・・もしそうならこの場をお借りして謝りたい)お会計の際に困惑している様子であったり、どこか不安を抱えているように見える男性の姿は私の父親を彷彿させた。お会計の小銭を時間をかけて探す姿を見て、私はそういう人の力になりたいと思う。「力になる」というといささか大袈裟かもしれないが、私にできること(「特権」とも言えるかもしれない・・・)は何だってしたいし、それが常に良い方向へと転ぶとは限らなくてもその場所を照らす光となり、力になりたい。

先程の男性の話に戻るが、きっとそのご家族も相当なサポートをしているのだと想像する。その苦しみはそのご家族にしかわからないものであり、誰とも比較することはできない。だからこそ苦しい問題なのだと思う。でも、どうしようもできない。「老い」を止めることはできないし、誰かに手伝ってもらうわけにはいかない。この数年間で痛いほど感じてきた。「老い」には誰も逆らうことも抗うこともできない。当人の孤独さや不安感を理解した上で、家族はサポートしていかなくてはならない。しかし、これだけでは家族はサポートするためにいるようなものになってしまうと私は思う。つまり、そんなに大変で息抜きする暇も心の余裕もない時には自分の楽しみや休息を忘れてしまう。しかし、一度そうなってしまうと負のループから抜け出せなくなる。先日、私はある方(その方もパートナーのサポートで日々身を削っている方である)の発した一言にガツンとやられた。

家族は家族でも所詮他人なのだ。一見当たり前のことである。しかし父のことで悩んで負のループへ陥っていた私と母にとってこの言葉は救いだった。父親に夢中で周りが見えなくなっていた私はこれを聞いて、少し楽になった。
だからこの言葉で、少しでも多くの苦しむ人の心が、少しでも軽くなってほしいと祈るばかりである。


最後に、ミッションスクール時代に自分の好きだった聖書の箇所を多くの人にも読んでいただきたい。


あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

コリントの信徒への手紙一 10:13 新共同訳


今回は(いつも?)何だか偉そうなことをダラダラと言っていますが、ここ最近よく考えていることなのでここに記しておこうと思います。


自分より家族のサポートに力を捧げている人たちに癒しがあり、報われますように。祈ります。


明日も素敵な日になりますように。おやすみなさい。


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