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「発達障害」に対する個人的見解

 今回は初めて上げる記事なので、自己紹介もかねて発達障害についてどう考えているか、どう向き合っていけばいいか、どう関わっていきたいかについて、個人的見解を述べます。※誰かの意見を否定するためのものじゃないよ。「ふーん、すぷりんとはそう考えるんだ」って感じで見てね。

 まず、私は発達障害は発達凸凹と環境のミスマッチによって引き起こされる現象や状態で、個人だけの責任や問題じゃないと思ってる。
 例えば、よく言われるASDのコミュニケーションが苦手という特性にしたって、そもそもコミュニケーションが活発に行われていない環境では目立った問題は発生しないし、ADHDの衝動性だって、すぐに行動に移すことが求められる環境では問題にはならず、むしろ重宝されるかもしれない。近年になって「大人の発達障害」が取りざたされているけど、これも学校という空間では問題にならなかった発達凸凹が社会に出て問題にされてしまったから発覚するというケースが多いからだろう。だから、私は自分の発達凸凹に対して「無くなればいいのに」とは思わず、自分の一部というスタンス。
そのため、薬もあまり服用していません。
「あまり」っていうのは、「発達障害なんだからしかたがないでしょ」と他人に迷惑かけていいとは思わないから、必要に応じて飲んでるよということ。

 大切なのは、発達凸凹発達凸凹と環境とのミスマッチによって発生した問題を分けて考えるということ。
 問題については、ミスマッチが原因なので自分にも周囲にも責任があり、そのために当事者である自分は必ず対処しなくてはいけない。しかし、発達凸凹についてまで「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」みたいに感じて、排除や矯正の対象にしたくないと私は思っている。というのも、凸と凹は表裏一体で、凹を克服するのではなしに無くしてしまおうとすると、得てして凸まで失くしてしまうことになりかねない。例えば、注意力をコントロールできるようになると、過集中で苦しむことは無くなるが、過集中で目覚ましい成果を生み出すことも無くなってしまうだろう。それはもう自分と呼べるのだろうか?
 だから、自分の一部である発達凸凹まで否定する発達障害当事者(以下、当事者)に会うと、自己を否定しているようで悲しい気持ちになる。

 では、どうすれば発達凸凹とミスマッチによって発生した問題を分けて考えることができるだろうか。
 私の考えでは、ポイントは自己肯定感の回復にあるように思う。まず、自分(発達凸凹)について知り、自己肯定感を回復することで凹も含めて受け入れられるようになることで、はじめて問題と自分とを切り離して考えられるようになるのではないだろうか。つまり、「問題は自分自身だ」という考えから脱却し、「なーんだ、方法を間違えていただけだったのか」と気づくことが肝要なのである。そうすることで、今まで自分を苦しめていた問題を冷静に見つめることが出来るようになり、周囲の人々や物事といった環境を知り、発達凸凹との因果関係を分析することで原因を特定し適切に対処できるようにもなる。
 だから、私にとって「発達障害は治す(消す)ものじゃなくて、受け入れ、克服し、活かすもの」なのである。

 そして、来年から発達障害児支援を行うものとしての私の目標は、発達障害を持つ子供たちが正しく発達障害と向き合っていけるように心のサポートをして、凹をカバーする方法を一緒に考え、凸を育てて強みにすることで自分(発達凸凹)に誇りを持て生きていけるようにする事である。

なんか所信表明みたいになっちゃったな(笑)

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