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「Responsible」の実践

Responsibleとは、何においても責任を持って全うするということではない。
Response(返答)をする責任であって、返答はYesでもNoでも、もしくはそれ以外でもいいんじゃないか。

昔ふとした瞬間に「Responsible (責任) 」について共有してくれたカナダ人の知り合い。
私は「責任」について考えるときに真っ先にこの考えを思い浮かべる。

何でも管理できて当たり前、成し遂げれて当たり前と、私にとっては少し厳しい「標準」が私を突き刺す。

もちろん予定通りことを進めるに越したことはないが、何時、何が起こるか誰も知らない。知る由もない。
社会的文脈のもとに背負わされている「責任感」ばかりに目がいってしまって、優先順位さえも機会的なものになってしまう。少し疲れる。

いつの間にか自分のままに生きることが、責任感を持って生かされることへと変わる。

それが社会だから、それが人生だからと。

周りを見渡す。「責任感の無い」輩が目に付く彼らが怒鳴り散らかす。
「責任感」という刀で平気で人々を突き刺す。何をもって生き続けているのかと罵る。

空を見上げる。冬景色すら鬱陶しく映る。

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子

深夜の親子の飛び込み自殺があったそうだ。
Noと言えなかった、これからのこの国での生き方が見えなかった、知らなかった、知る由もなく死を選んだ。

事の成り行きをそっけなく書いた文面から目を離した。

これでいい訳ない。これでいいはずがない。

「責任感を全うできなかったがために失われた命」はこれ以上出してはいけない。

Noと言っていいんだよ。自分の命を差し出すほど大事なことなんてないんだよ。
届かない言葉が出てくる。そのままの言葉が出てくる。
私たちは人間でしかないのだ。
何かを全うできたらそれは幸運なこと。できない時は幸運が少し足りない時なのかもしれない。そんなのコントロールできっこない。

こんなニュースばかりの社会、健康なはずがない。

荒んだ心、光のない瞳が隣を通り過ぎさっていく。
戦が終わって、発展が終わった世界の終焉は如何なるものかと悩む。

私は哀しむ。


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