向かってくる未来から目をそらさない努力を
小学校に上がったばかりの息子とキャッチボールをすることがある。昔は全然キャッチできなかったのに最近は多少強めに投げてもキャッチするようになった。実は、彼がボールを上手にキャッチできるようになる過程で、大きなポイントがあった。それは「目をそらさなくなった」ということ。
息子はちょっと前まで、ボールが来たら目を瞑ってしまっていた。これは人間の本能がそうさせるのだろう。目を瞑ってしまうから、結果としてボールが顔面直撃することもしばしば。しかし、最近は最後までボールを見る訓練をした。怖くても目を開けてみることでうまくボールをキャッチできるようになった。
私はよく講演でテクノロジーの話をする。特にテクノロジーの進化の加速を改めて実体験するような講演の中で参加者に問いかける。怖いですか?それともワクワクしますか?と。多くの人が「怖い、、、」と回答するのだ。それが人間の本能だ。しかし、同時にワクワクもすると多くの人が答える。
なぜ怖いのか、それは知らないからだ。人間の生存本能は知らないものを恐れるようにできている。
自動車が世の中に出てきたとき、多くの人間の目にはそれが脅威に映ったのだ。車の前を赤旗を持った人間に先導させ、人間に危なくないようスピードを調整するような馬鹿げた法律がイギリスでは実際に有ったのだ。
また産業革命において、多くの労働者が機械による影響を危惧した。彼らも知らなかったのだ。
その機会によって劇的に労働環境が改善し、生活が良くなっていくことなど想像できず、機械を恐れ、工場を襲っては破壊するというラッダイト運動につながる。
今から見ればすべて馬鹿げたことだ。何でそんなものを恐れていたのだろうか。しかし、人々は知らなかった。そしてもっと短期的な見返りへの影響を心配し、本能のまま恐れ慄き、批判し、それらの技術がもたらすであろう明るい未来を見ないふりをしてしまうのだ。
今から100年以上前、電話というテクノロジーが出てきた際、反応は一緒だった。空間を飛び越えて音声を伝送できる技術の行く末は「人類のコミュニケーションの崩壊だ」と喧伝されたのだ。しかし、今我々はこの技術によってどれだけ世界人類の生活が良くなったかを知っている。
テクノロジーにおける進化は本質的に怖いものなのだ。そして正面から我々にぶつかってくる。だから目を瞑ってしまう。何が起きているか本質を見極める前に、すごいスピードで向かってくるから反射的に身を屈めてしまうのだ。しかし、目を瞑ってしまうと顔面に直撃するというもまた事実だ。
例えば、中国はデータ駆動型社会を実現しつつある。しかし、それは中国のプライバシーの欠如であり管理社会の象徴として嘲笑し過小評価してしまうのか。
例えば、遺伝子編集による動植物の進化はかなり進んできた。実は今では人間の治療にも使われるようになってきた。しかし、それを恐ろしいことだと考え、批判してしまうのか。
そして、人工知能は人間を滅ぼすと信じるのか。
怖いから目を瞑ってしまう、これは間違いなのだ。これらのテクノロジーは「理解すれば怖くない」ものなのだ。理解しようともせずに批判をするのではなく、何が起きているのか正確に理解し、何がこれから起きるのか、テクノロジーの進化を俯瞰するチカラを身に着けるべきだ。
テクノロジーの進化を俯瞰するチカラ、これは理系、文系とかに関係なく、また、学生、社会人、経営者とかにも関係なく、現代社会を生きる我々には一様に必要なチカラ、一般教養であると言えよう。
理解すれば怖くはないのだ。そしてちゃんとキャッチし、受け止められるようになる。それこそが「エクスポネンシャル思考」であり、これからを生きるために必要なチカラである。
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