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14日目 池鯉鮒宿~桑名宿

今日もひたすら歩く。気温もだいぶ下がり、朝夕は寒いくらいであるが、日中歩く分にはちょうどよい。

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東京都内から見た富士山。いつの間にか雪化粧をしている。これは静岡県に入ったらとても良く見えそうだな~と思ってたら爆睡してて見逃した。

本日は池鯉鮒宿からスタート。鳴海宿、宮宿、桑名宿と進むわけだが、宮宿(現在の名古屋市、熱田神宮あたり)から先は七里の渡しといって渡し船で移動していた。また船旅を嫌う人は佐屋街道を通り、極力陸路を使って船に乗る距離を短くするような工程を組んでいた。現在は埋め立てがかなり進んで、佐屋街道の終点、佐屋周辺も陸地となっている。

宮宿~桑名宿間の移動に佐屋街道を使うかどうか悩んだが、旧東海道に極力近いかたちで進みたいので、鉄道を利用することとした。まあ船が鉄道に進化したってことで許して。

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今日も国道1号線に出たりそこから外れたりする。こう見ると名古屋も随分近くなったもんだ。東海道最後の宿場、大津もついに看板に現れた。

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ほどなく刈谷市に突入。いい天気だねー。この後豊明市に入るが、国道1号線沿いではなかったため案内板は見つからず。

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そして大都会名古屋に。まだ中心部ではないため都会感はないが、遥か遠くのイメージが強かった名古屋に徒歩でたどり着けるとは。感慨深い。

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1本道を外れると桶狭間の古戦場跡に着いた。この地で今川義元が織田軍に討ち取られたという。日本史は好きだが戦国時代には見向きもしなかったため、興奮するようなことはなかったが、その時代が好きな人なら大興奮なのかな。歴史好きそうな人と、東海道歩いてそうな人が何人かいた。相変わらず年齢層は高めだ。

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なんだか昔の雰囲気が残っている場所に出た。有松という場所で、池鯉鮒宿と鳴海宿の間の茶屋集落として栄えたらしい。お店もあるが基本的には個人宅のようだ。

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この蔵は結構古そうだ。

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ああもう光!!そしてどの家にも「ありまつ」の暖簾が。鳴海絞りかな?と思って調べたら有松絞りらしい。ただ有松・鳴海地域を中心に生産されるため有松・鳴海絞りとひとくくりにされることが多いとか。

名古屋にいながらも歴史を味わえるためか、有松は観光客で賑わっていた。名古屋市内にこんな場所があるとは知らなかった。次の宿場、鳴海宿はすぐそこだ。

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狭い道は怖い。車もビュンビュン飛ばしてくる。さすが名古屋。

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この不自然に折れ曲がった道は宿場の入り口だな?というわけで鳴海宿に到着。

㊵鳴海宿(愛知県名古屋市緑区)

40.鳴海

鳴海宿は現在の名古屋市緑区に位置する。正直なところ鳴海宿に関して調べても桶狭間古戦場や鳴海絞りのことばかりで、宿場に関しての情報はあまり得られなかった。次の宮宿が東海道最大の宿場だったことから、宿泊客もそれほど多くはなかったのではなかろうか。

現在の名古屋市緑区はその名の通り緑地が多く、のどかな住宅街が広がっており、非常に住みやすそうな印象を受ける。

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まあ道幅以外に当時の雰囲気を残しているようなものはなかったが。愛知県内の旧宿場町は、雰囲気を残しているところと一新したところに二分されている印象を受ける。静岡県内は割とどこも雰囲気を残していたのとは対照的だ。まあ都市計画との両立が難しいんだろう。

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笠寺の一里塚。とても立派で目を引く。これまで見てきた中で1番の大きさかもしれない。この大きさは江戸時代初期からのものじゃないか?

その後は遠くに名駅付近の高層ビルが見え始めるなど、都市部に近づいている感が増してきた。地下鉄の駅を目にすると一気に都会感が増す。

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そして宮宿に到着。都々逸発祥の地らしい。

㊶宮宿(愛知県名古屋市熱田区)

41.宮

宮宿は現在の名古屋市熱田区に位置する。熱田神宮の鳥居前町、港町、中山道へ至る美濃路や佐屋街道との分岐点であるなど、多様な性格を持った宿場である。それもあって東海道では最大の宿場だったようだ。天保14年(1843年)における東海道の宿場の平均人口は3,693人であるが、宮宿では10,342人と、平均の3倍近い数字を誇っている。まさに大都会。

現在でも名古屋市は中部地方の中心地であるだけでなく、日本有数の都市であることは言うまでもない。とりわけ第二次産業が非常に盛んである。宮宿周辺の見どころは明治創業のひつまぶしの名店、あつた蓬莱軒。お昼ということもあってかなりの行列ができていた。

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こちらが七里の渡し船着場跡。昔はここから舟に乗って桑名を目指した。今はJR関西本線、近鉄名古屋線がその役割を担っている。当初は本日の目的地を宮宿としていたが、佐屋街道を使わず鉄道で桑名に行くことにしたので、休憩の後金山駅へと向かった。

ちなみにJR東海道線、東海道新幹線はここで旧東海道と別れ、岐阜県を経由して京都に至る。旧東海道と別れた理由には諸説あるが、この先の三重県と滋賀県にまたがる鈴鹿峠の急勾配を避けるため、またすでに鉄道が開業していた区間を利用するため、これらの理由が有力だそうだ。

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さすが大都会、片側4車線である。信号が赤に変わった途端にアクセルを踏み込む車、減速も巻き込み確認もせず左折する車、間違いなくここは名古屋だ。

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熱田神宮。三種の神器の1つである草薙剣を祀る神社として知られる。七五三詣での客で溢れていたため、さっと見ておしまい。

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金山駅前にあるANAクラウンプラザホテル。IHG会員なのでここに泊まろうと思っていたが、なぜかやけに強気の価格設定をしていたのでやめた。それはさておき金山駅から名古屋駅までは東海道線、名古屋駅から桑名駅までは関西本線の快速みえを利用。乗り換え時間も含めて1時間ほどかかった。

㊷桑名宿(三重県桑名市)

42.桑名

桑名宿は本多家や松平家が藩主を務めた桑名藩の城下町、また伊勢国、伊勢参りの玄関口として栄えた。そのため、東海道では宮宿に次いで2番目に規模の大きい宿場だったようだ。繰り返しになるが、宮宿との間は海路で結ばれていた。焼きはまぐりが名物。

現在の桑名市は名古屋市のベッドタウンとしての役割を果たす。またナガシマスパーランド等の観光資源にも恵まれ、名古屋からのアクセスの良さもあって割と人は集まるようだ。まあ街の規模は名古屋や四日市にだいぶ負けてしまっているが。

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マンホールの絵柄は七里の渡しとはまぐり。

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木曽三川のひとつ、揖斐川いびがわ

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木曽三川とは図にあるとおり、木曽川、長良川、揖斐川の総称である。この3本の川は古くから合流・分流を繰り返して周辺に水害を引き起こしていた。また治水工事も難航したため、川を避けて海を渡る「七里の渡し」が主要路となったようだ。新幹線に乗っているとよく目につくが、実際に間近で見るとまた迫力があって良い。

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桑名側の七里の渡し船着場跡。奥に見える櫓は浮世絵「東海道五十三次」でも描かれており、旅人が必ず目にする桑名のシンボルだったそうだ。

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時間帯によっては中に入ることもできるらしい。

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桑名城城壁跡。明治維新後も堀を活かして水運に利用していたのだろうか。

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東海道を模した公園があった。歴史を語る公園という名前らしい。初日は30km歩いただけでかなりダメージあったのに、今では1日30kmだと短い部類となっている。慣れってすごいね。

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日本橋の次が富士山(原宿)。すごい省いたな。

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そして三条大橋。あと5回くらい歩けばたどり着くと思う。

日も傾いてきたので、このあたりで桑名宿を後にして名古屋のホテルに戻ることにした。

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途中立ち寄った商店街。ほとんどの店が開いているものの、人通りは少なかった。

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養老鉄道養老線。桑名駅はJR、近鉄、養老鉄道が乗り入れる比較的規模の大きな駅だ。東海道徒歩旅が終わったら地方私鉄の旅をしても良いかもしれない。

本日の総歩行距離は32.2km。なんだかんだ歩いてるな。

以上


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