他人がくれた優しい言葉に上手く反応できない

人からのちょっとした善意や軽い称賛、また友好の証という感じのそっとした好意を上手く受けとめることが出来ない。

まぁ当然といえば当然ではありますね。

真っ直ぐすくすく育った向日葵のような人には、打たれ捻じ曲げられながらフェンスに絡み付いてやっと伸びても直ぐに枯れてしまう朝顔の気持ちを理解できないでしょうね
でもいいんです、みんな違うのが当然だから。


夾竹桃のように毒性を秘めていたら強かになれるのかも知れない
その予定はないが。


卑屈さに向き合うために自分だけのゲーム動画を撮り始め、はや2ヶ月が経ちました。
一人で喋って一人で笑って一人で収録、勿論一人で編集して全て非公開動画にしています。

鬱ゲーをプレイし擦り減った精神を破壊し尽くしダメージを敢えて受けに行っている。
愚痴も、酷い言葉も発することなく編集を入れているのに非公開。
良いのです。私の全てはただ私だけのために存在する。 
何故そう頑ななのでしょうか、表題のとおりです。


世界を拒絶しているわけではありません。
自分自分ってサルトルの嘔吐がバイブルなのか?排他することで実存を認識したいのか?

違います。
タイトル通りです。

良くも悪くも自分が真面目で、反社会的になれないことに疲労する。

アランの幸福論が何十年も骨幹にあって、先日のnoteで哲学の本語りだったらいいかな…と宣ったように私なりの幸福論を書いては居るんですが上述の通りです。


生まれも育ちも國も言語も違う沢山の、本当に沢山の、ただの人たちが平等に好きだ。
誰にも彼にも自分だけの秘密の真実がある。
嘘でも誇張でもおべっかでもなく、そういうみんなを尊敬する。


私は私に微笑むことができないけれど、他人へは笑顔を向けていたい。
そうしていればいつか自我が壊れるときだって、何があったって私は幸せだろうなと思考する。



ひさしぶりに オシマイ! です。


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