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2kmの孤島 二日目 2020.04.16

無意識にFBを開こうとした回数0回

起床 6:30
やはり近頃乾燥している。
ニベアを2倍にして塗らなければならない。しかし乾燥した肌にニベアは良くないと何かで読んだことがあるようなないような、早速これについて調べてみたいがいよいよ知る術がないことにはたと気付きながらの起床である。
この状態を如何に自身の体自身に感じ、どう向き合っていくかを考えて自身で答えを出す必要があるが、自分の乏しい知識ではとにかくクリームを塗り込むことしか解決策を見出せないような気がしてならない。
しかしながらよくよく考えて見ると、肌の手入れなどは言い換えてしまえば革靴や財布など革製品の手入れの工程と類似しているのではないかとふと浮かんだ。
皮の手入れは、簡単に言えば乾燥していく皮に水分を与え、水分が逃げないように油を塗るという工程になる。
肌も皮も大凡違うことは無いだろう。保湿に前に、水分を肌に与えてやる必要がある。

そうこうしている間に、腹が空いたのでいつもの朝食をとることにした。

朝食を取り終えて、日の光も昇りきらないものだから少しばかり肌寒いことに気付き、こんな日はお天道が刺すまで布団に今しばし潜り込み雲が切れるのを待つのである。
こういった外の気温によって活動の有無を決定するのは、日常生活においては些か怠惰と呼ばれ憚れることがしばしばであるが、啓蟄前の虫が如くこうして巣蔵からジッと日和見をして日が刺すのを心待ちにすることもこれはまた豊かなことだなと感心していると、緩やかに微睡の手がまた夢の中に誘い込むこともこれまた吝かでは無いのであった。

怠惰と呼ぶのか、豊かさというのかは他者からの目に任せるとして、とにかく二度目の微睡からようやく日が刺したことを誰かが開け放った窓から流れ込む風を鼻先に感じ目が開いた。

驚くことに、今し方腹に収めた朝食は見る影もなく腹がまたもや何者かを求めていたので、二度目の朝食を作ってやった。
昨日のアイスバインに飯を炊いたものをぶっかけて、大凡茶漬けとも似ても似つかないが、それらしい物を用意して掻き込んだ。
腹の機嫌もようやく満足したようで、貴重な情報源である読書を始めた。

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全国マンチン分布考、関西が誇る人気番組である探偵ナイトスクープ番組ディレクターである著者が、最も身近な存在である人の陰部の名称由来について個人の資産3000万円を掛けたその研究成果をまとめ上げた書籍であり、日本語研究の極めて未開の地と言えるその領域に果敢にまた、真正面から切り込むその姿勢には在野研究の雄としてまた、一人のテレビマンの意地と誇りを掛けたこの一大書籍からヒシヒシと痛感できるのである。
ああかくもこのような好奇心を持ってして生きることもはたまた情報海の海の底に魅了された一人の姿なのかもしれない。誠天晴である。全てのマンチン考察家並びに方言学・言語学者は一度は手に取るべき名著である。
もちろん卑下の意味ではなく、その呼び名の出始めはなんと愛情に満ちた始まりであったことかは、ぜひ著作の中で感じていただきたいのである。

かの名著に感嘆の意を感じている間に、同居人のルーカスが降りてきてどうやら昼食をとる様相をなしている。
普段食卓にて万年陣取る形で孤島の更に孤島に我が陣は鎮座しているのだが、当然食事を撮る際には対面する形になり、さながら対談番組の体を取るかのように何気なく会話が始まるのである。
何やら今日は10年来の友人との関係性が途切れたとか何とかで、陽気が良いのに関わらず少しばかり気持ちは沈み気味であった彼であるが、とはいえこちらも数少ない情報源であるから、弾む会話に自身の孤島旅行について説明をして、大きな出来事は無いかと聞いてみると、至って自然に特に無いとの返事であった。


「良いニュースは遅れて届くが、悪いニュースは早く届くもんだから心配するな」とルーカスは言った。


なるほど確かにその通りであるなとふと思う、悪いニュースであれば、同居人からの知らせが一番に自身の身に届くだろう。つまりそれほどまでに今まで生きてきた中での情報の糸は途切れずこの孤島まで届いているのである。
ただし、魚が掛かったとかそういう身になることを教えてくれることは稀であり、糸が切れているぞなどそう言った心配になるような事事に関して周りは気付き伝えることになるのだなということに安心感を覚えた。
何もなければ何も無いし、悪いことは知らせとともに伝わってくるのだからそう心配になることもないのである。

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少しばかり本へ対する情念を傾けすぎたこともあり、のぼせ気味の頭を気分転換させるために自転車を走らせることを思いついた。今日も天気は頗るよく少し遠乗りしてダブリン随一の港町であるハウスへ向かうことにした。
港町は通常多くの観光客などで賑わいを見せているが、非常事態の最中であるため閑散としていた。
しかしながら、巣蔵に籠るだけの生活に鬱屈として更にこの陽気である。外に出るなと言う方が酷であると言わんばかりにそれぞれ慮りながらの距離を保ち散策を楽しむ姿を散見した。
特にアテもなくきたものであるから何をしようかと、灯台まで歩いてみたり、停泊中のヨットなどを数えてみたりとあれこれをしてみた。
情報海へ船を漕ぎ出していれば、きっとこの状況下では救難信号を出すかのように情報の共有を行なっただろう。ある意味一種のビーコン的なものであり広大な情報海においては、自らの居場所を知らしめる重要な役割を果たすが、このビーコンは一定の間隔で出していなければ遭難船として扱われているなとふと思いつき、そんな遭難船の一隻として外野からその光景を思い、一人しめしめと思ってみたりした。

家へ帰り着き、思いの外汗ばんでしまった体を浴槽で洗い流し、日はまだ高く風もそこそこに吹いていたので洗濯物を干すかのように髪をばさばさと荒く乾かした。
本日の夕食は、3割引きの触込みについつい手が伸びてしまった牛挽肉を思い出して冷蔵庫に眠る御仁をよくよくみてみると、今日までが賞味期限のようである。さすがに手放しで3割引はいくらこの状況下とはいえ売り手にすれば相当な痛手ではあるだろうと賞味期限の短さに適当な理由を付け落ち着いてみるように努めた。

こういう困った時は、とにかくカレーである。
カレーはその寛容な器の持ち主として、日本全国のお茶の間のみならず世界主要各国にてその名を轟かせている。
何事に対しても大らかな姿勢と、時には無理難題をもいともたやすく解決してみたりと値千金の活躍を見せる彼の姿には、屏風の虎を捕まえて鼻を明かしていた全盛期の一休の坊もが鼻布を噛んで悔しがるに違いない。
兎にも角にもカレーである。

冷蔵庫には、大量の牛挽肉、気持ちの残っている玉ねぎとほうれん草。いずれも歴戦の疲れが隠せない。
たったこれだけで、あの高名なカレーといえど苦戦を強いられるのではないかと待ったを掛けようとしたがそもそもそのようなことは杞憂であった。
ものの15分というほんの間であった。鮮やかにそれらの素材たちは濃厚に絡み合い、舌の上と言う戦場で縦横無尽の活躍を果たしていた。
あの落ち武者かぶれ達に活力を与え、一騎当千の武士へと戻してしまうカレー殿、いやカレー征夷大将軍様にはこれには感服、脱帽、畏敬の念を持ってしてこの孤島から声を大にして言いたい。

カレー最高

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さて、いよいよ残り数時間でこの孤島から旅立つ時がきたようである。
思い返してみれば、この二日の旅は非常に濃密な時間のような気がしてならない。
それがたかだか全ての携帯端末を旅客機設定に切り替えたのみであるにも関わらずである。

この二日間において、孤島の上では会いたい人そしてたくさん話したいことも浮かび、顔も不思議と写真を見るまでもなくありありと脳裏を走っていた。
普段からしてみればそのような情景はなかなか浮かばないかもしれない。しかしこの孤島の上ではそんなことが簡単に起きてしまうのである。

この孤島は人生の中で現れる機会は限られている。
何もない、何者でもない、そんな時に忽然とその島は現れるのだ。

十分な食料、寝床、親しい友も彼の孤島には十分に備蓄されている。
しかして孤島にないものは、ただ一つ「情報」だけが在庫切れを起こしているのである。

もしこの島が目の前に現れたのなら、一度は上陸してみると良いだろう。
情報海という大きな流れの中からでは感じることの出来ない隔絶された空間では、一人ひとりそれぞれの心にきっと違うものを見せてくれるはずである。

島への上陸の仕方はいとも容易い、ただ全ての通信機器の通信を切るだけでその島へは上陸することができる。
こうして家にいながら大冒険に出発することができるのだ。

自分はこれからまた大いなる情報海に船を乗り出すことにする。
この二日で世界は変わっているのだろうか?どんな知らせがあるのか?
サンタクロースからのクリスマスプレゼントを心待ちにしながら眠る童がごとく、目覚めた時に目にする情報に今から心を弾ませているのである。

情報は甘美なる毒であるが、その魅力に逆える者はいない。
だからこそ少しの隔絶は、よりその魅力を際立たせ、掛け替えのないものであることを気付かせてくれるだろう。
これでこの旅の記録を終わることとする。

2kmの孤島よありがとう。


あとがき
アイルランドでのロックダウンを期に、学生でもなく、社会人でもなく、なんでもなくなってしまったこのタイミングにふと島は現れました。
100年前の生活を追体験すると言うことを目的にしていましたが、果たして本当に追体験できたかは少々疑問ではありますが、何か人と話す上でこちらが何も情報を持っていない場合、新しい情報を他人から仕入れるプロセス自体に少しばかりのスリルと冒険の香りを感じました。
そう言った意味では、100年前は情報を得るのに現代とは少し違ったアプローチで人とコミュニケーションをしていたのかもしれません。
不便とか、無駄とかそう言う気持ちは浮かんではきませんでしたし、ここにインターネットがあればなどと言うこともそう多く感じる機会もありませんでした。
しかしながらインターネットが日々の生活をより豊かな生活にしていることは疑う事のない事実であります。
その技術は隔絶された距離と距離を結び、人々の距離をグッとそばに引き寄せている事で、人はより遠くへいくことも躊躇わずにより様々なことへのアプローチを容易にしてくれるものであります。
生身と電波上での自己意思の境界線を消していくこれからの現代社会の中で、個人個人がより自分にあった形でこの大量の情報を整理していくことが必要とされると強く言われるご時世ですが、今昔問わずに情報の整理技術は自身の意志を持つ上で基本的な技術であることは言うまでもありません。
数多くを見聞きし触り確かめ、その上で見極める。基本的なことですが何かとバランスが崩れがちになりますが、今一度見聞きするだけに留まらず触り確かめると言うことにも意識を傾けていくことが必要かもしれません。

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