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2kmの孤島 1日目 2020.04.15

無意識にFBを開こうとした回数8回

起床6:41
近頃乾燥しているのか、目の端が切れかけていることに気付きながら床にて目覚める。
今日も外は快晴で、自分の中で出来上がっていてアイルランドの印象をガラリと塗り変えるような天気がここ最近続いている。
今日は目を覚ます前に二つの夢を見た。
一つは愚直な男が無実の罪を被せられ村八分を仕組まれてしまう夢
もう一つは、つい今時分まで目の裏に焼きついていたがどういう訳だか思い出すことができなくなっている。
おおよそそれ程悪い夢ではなかった筈であるが、嫌なことほどよく覚えていると言うことだろうか。

孤島入りして初めに感じたことは、寝ている時ですらちょっとしたことを知りたいと言う欲求に駆られたことが非常に面白い。
例えば、明日起きたらアイスバイン(ドイツの豚角煮)を作ろうと思い、はて香辛料は何が必要だったかな?とかシベリア鉄道のシャワー室の利用は150露円ということをはたと思い出し、日本円での換算したらいくらになるのだろうとか、そういったありとあらゆる知への欲求が限りなく湧いてくることに気が付いた。
日常的にこれらの欲求は即座に解消され、欲求であることすら気付かないが、いざこれらが知る術がなくなるとむず痒いような少しばかり居心地の悪さを覚えることで、ああこれは欲求だったのだなとさも世紀の大発見をしたような心持ちで知覚し、朝食の準備に取り掛かった。


朝食はおおよそ、コーンフレークにヨーグルトを乗せ牛乳を注ぐという至って簡素な朝食をとることがここ一ヶ月の慣しであり、腸内環境を崩すことが異国の地において最も過酷極まる時間を過ごすことは必至であるが故にとにかく乳酸菌などの如何にも胃の環境に対して協力的な方々をお招きするということに念頭を置いている。そして何よりこれらの組み合わせは財布にも優しく胃にも優しいという優しさでしかないということが簡素な食事をとることの意義をそれらしくしているのである。

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一頻り朝食を取り終わった後に気付くのは、この後に何かしらの情報を得ようとして、孤島入り前はSNSなどを閲覧しているということに初めて気付く。
決して意識的な行動ではなく、さも自然と息をするが如く携帯に手を伸ばす自分がいたが、全ての通信機器は航空機設定としてある為、通信することができず手に持った携帯はもはや何事も語ることがなく黙した昭和の厳しい一家の主人のようになってしまっていたのであった。
如何に昭和の奥様方が気を揉んでいたのか、非常に痛感をする心持ちでならないのは言うまでもない。
さて、しかしながらそうやって手を空にしたままでは何か心許ない気がして、読書をすることにした。
読書から得られる情報に幾分かの満足感を経て、書を閉じた。
情報が与えてくれる充足感は、ある種中毒性のある快感があることをこの時知ったのであるのと同時にあまりに簡単に快楽を与えてくれるこれらの事象に対して抗う術はないものではないのかなと殆ど諦めにも似た感情を想起させることとなった。
起床からおおよそ3時間程度ですっかり情報の持つ魅力と甘美な毒を思い知ることとなった。

そうやっているうちに外は快晴であり幸いにも風も肌に刺すようなものでもなく非常に陽気な気持ちになったので、椅子を外に出して読書を続けることにした。
不思議なことにいつもなら大体15分程度で一度の小休止を取るものだが、30分程度小休止を挟まず一気に読書に耽っていたことに気がつく、これも甘美なる情報の誘惑がもうどうしようもなく届かなくなってしまったから変わりに書物の中に同じ毒を探そうと試みた結果なのだろうか。

小休止の間に、昨晩仕込んでおいた豚肉を使ってアイスバインを作ることにした。
アイスバインとはドイツの豚スネ肉の煮込みのことをいうのだが、如何せん近頃家に籠る生活で少しでも知らないことを体験したい一心で、異国の食などにそういったことを求めるのである。
先週は東南アジアに想いを馳せており、今一度欧州に心を戻そうと彼の独国へと舞い戻ってきたのである。
アイスバインを食したことはないが、様々な料理手記を事前に読み込んでおいたので、情報源なき今でおいてもありありと出来上がりのイメージはついている。しかしながら豚スネ肉の調達は困難を極め、いか仕方なく豚バラ肉塊を用いて調理をすることとした。
昨晩塩各種香辛料を揉み込んでおいたその肉を玉ねぎ・人参・セロリといった欧州では基本的な香味野菜と共に深手の鍋に沈め、火にかけた。
おおよそ1時間からさらに30分か、とにかく時間は売るほどある。
火にかけた鍋から立ち込める異国の情景に想いを馳せながら、また読書に耽っていった。

アイスバインも程々に出来上がりつつある中でここまで、無意識化にFacebookを開こうとした回数を振り返ってみた。何とここまでで6回も無意識にアプリを開こうとしていた。
いやはや習慣とは恐ろしいものである。

ちなみアイスバインの主たるスパイスはクローブである。
クローブは甘い香りを放つ香辛料であり、独国ではナツメグに並び必需の香辛料と言える。
甘い香りの反面山椒を思わせる非常に強い刺激を持っており、食後に清涼剤として使用することなどもありクローブ味の歯磨き粉もある程に生活に密着している。
日本におけるダシのように欧州諸国では、この香辛料をダシのように使い分ける。
もちろんフランスのブイヨンのように野菜を長時間煮込むことで甘く深みのあるダシを取ることもあるが時間がかかる上に非常に手間がかかるので、基本的には香辛料で香り付けなどして調理を行うということが一般的である。
その為アミノ酸による旨味を出すという工程を現地調理手記からは見つけられない為、如何に旨味を現地料理の根底を崩さずに組み込みことができるかという部分には明けても暮れても考える余地があり面白い。

昼を過ぎ、八つ時に差し掛かるが存外不安に感じることや不便に感じることはまだ明確に説明はできないでいる。
情報を得られない代わりに、その分こうやって振り返る手記を書いてみたり、全国マン・チン分布図という奇妙奇天烈な文庫に感銘を受けたりと、心を動かされることに満ち満ちていることに驚かされるほか、同居人達から情報を得てみようという試みをしてみたりと行動にいくばかの変容が認められる。
ただし、得ようという情報はあくまで現状世界的な情勢であったり、そう言った情報海でも上層に浮かぶ事象について少しばかり議論をしてみたりと、おおよそ代わりのない生活を送っている。
これは自分だけが世間から取り残されているという不安などではなく、熱気球にでも乗って地平線遠方のその先を想像で話しているかのような心地である。

そういえば、近頃めっきり雨が降らないせいかやはり少しばかり肌が乾燥している。
肌が気になるお年頃でもあるので、ニベアを定期的に塗ることで何とかやり過ごせないものかと思案をしている。

同居人のジョーに誘われて、自転車で散歩に出掛けることとなった。
近頃ジョーとは二日に一度くらいの頻度で散歩に行くことが習慣になっている。
特に当ては無いものの、とにかく海に行くという正体不明の意欲が双方において無言の合意形成がなされている。
始めこそ散歩に行くだけで目新しい気がして楽しんでいたが、しかして4回ほど散歩となるとお互いに新しい変化を求めることは想像に難く無い。
そこでいよいよ自転車という選択をしたのだった。風は強くなく気温もちょうど良く乾燥した気候はまさにサイクリングをするのに最適な気候と言える。
久方振りの自転車に少し興奮を覚えたが、あくまで2kmの孤島そう遠くへはいけない。
行く先はもちろん海岸線であるが、その道中に始めて警察官による検問に遭遇した。
飲酒運転を確認するように一台一台行き先を聞いているようだった。その光景に委縮して立ちろいでいるとジョーは如何にも自然に、一陣の風が如く警察官の横を躱して行ったのだった。
呆気に取られるのも束の間、この好機逃してなるものかと懸命に後に続く。
してやったりとニヤついていると、後から続く自転車や向かい側の自転車も一様としていとも簡単に警察官を躱している。
どうやら自転車は運動の一環としてみなさているようで、警察官も気に留めない様子なのであった。
落胆とも安堵ともつかない妙な居心地の悪さを感じ、早々に目的地まで自転車を走らせた。
後になって聞いた話だが、ジョーも検問は初めてだったようだったのがあの毅然として姿勢には些か驚いた。

帰宅し、シャワーを浴び、夕食の準備を行う。
夕食は昼間に作っておいたアイスバインに蒸したジャガイモとザワークラフトそして、500mlで50円という破格のビールにて独国料理にて異国情緒を堪能した。

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さて、ここまででほぼ1日の生活ルーティンは終わり後は床に入り目を閉じればいよいよ孤島生活最終日という形になるのだが、情報海から無限なる情報を引き出せずにいるこの状況において多少の手癖的にアプリケーションを起動させる動作を取ったものの、意識的に情報を引き出そうという欲求は強くは湧かなかった。
朝の時点では、甘美なる毒のような中毒性を認めていたのだが、今しばしその中毒から絶ってみるとものの半日程度で情報を得られない生活に順応することができた。中毒性の半減期は長期間にわたるものでは無いようだ。
しかしながらこの状況は誰しもが享受できるものでは無い、たかだか2日であるが現に自分の置かれている状況においては大凡誰にも迷惑をかけることなく自由気ままな生活を謳歌しているからである。
現段階において重要な役割についている立場の人間であれば、易々とはこの情報の海から上がることは、まさに肺呼吸器官が整っていない魚類が陸上に突如として打ち上げられてしまい呼吸ができないようになってしまうというような状況と言っても過言ではないだろう。
情報の海から陸へ上がるためには、それ相応の呼吸器官が必要になるのである。
突然の進化は日常では起こり得ないことは、この生物進化の歴史を見るに明白である。しかしてそのような長時間もかけていれば自ずと次世代にバトンを渡し、そういった生活を夢見ながら老いていくのである。
如何にこのような呼吸器官を手に入れるかは、各人の創意工夫やたまたまの状況にかかっている。

すぐに連絡などができない状況においては、いろいろな人に今度会ったら、こんなことがあったのだよと伝えたい気持ちが強く湧いた。
しかしこれが100年前と同じ心持かと言われれば、決してそういう訳では無いだろう。
あくまですぐに連絡をできたという事実を経験として知ってしまっている以上、できたことが出来なくなるという妥協的な思考に行き着くのであって、出来たらいいのにという希望的な思考とはまるで意味が違ってくるのである。
思考観点から論じることは、双方において公正な考察という点においては非常に難易度が高いため、思考面での比較は今回は対象外として100年前との比較を考察する。

まずはここまで感じている事実情報を整理してみる。

1、情報源は人媒体によるのみである。
2、自身の生活圏内にて情報発信基地等がなければ、情報伝播は人伝いであるため遠方への伝播は困難を極める。
3、即座に連絡を取ることが出来ないことが一般的であるため次回伝えるべき情報量の総量が増大する。
4、個人での情報を発信する術が著しく少ないため、情報の取り扱いは基本的に受け身の姿勢で受け取ることになる。

インターネットを介した情報の行き交いに関しては、特に特筆すべきはその伝播速度の速さと相互での発信機能があることである。
情報発信機能が乏しい場合、情報発信は一部の大きな情報集約機関を必要としそれを通じて情報は発信され一方的に受信者はその情報を受け取るのである。もちろん受信者は情報を発信すること可能であるが、広報を
行う機能は各個人には付随していない。したがって著しく情報の拡散力に乏しく情報発信力は皆無と見做すことができる。いわば情報海に乗り出していく船がないような状態なのである。
それに対し、100年後のインターネット普及後の情報海成立により誰でも簡単に船を持ってして果敢に情報の海に乗り出していける、いや正確には情報海位上昇により陸が消滅したのである。
すなわちほぼ全ての人間が情報海に浮かぶ船の上で生活をしている状態が100年後の姿なのだ。
そして人々は情報海の豊かな恵みにあやかり来る日も来る日も船から釣り糸を垂らして日がな一日を過ごしている。
なるほどこうして見ると、情報を得ようという行為自体は欲求という枠を超えて生活するための様式に変貌していることが分かってくる。つまり船上で生活しているだけであれば欲求ではなく生活機能として情報を得て生活をしていることになるため欲求という発想には繋がらないわけである。
しかしながらその情報海奥底に潜む宝物を見つけようと果敢に情報海に飛び込み潜水をする者の行動は欲求が付随する行為であると言える。
潜水は下手をすると二度と陸の光景を拝むことが出来ないかもしれない危険な行為であるにも関わらずその魅力に魅了された者は後を絶たない。
情報の持つ甘美なる魅力の毒に潜水者は軒並みやられてしまっているのである。その潜水深度が深ければ深いほどに毒は強くなると同時に得られる快感も大きくなるという訳だ。
こうした生活様式に変貌した100年後の世界を取り残された100年前の孤島から見つめるとそういう風に世界は映ってくるのである。
その大きな変化は驚きを隠せないでいるが、同時にやはりその生活に積極的に居場所を探そうとしている100年後の自身も確かに存在することを認めざるを得ない。

と言った誠か現かもさも分からないふやけた夢心地の中でこれを記している。
大凡先ほど飲んだ安酒がそうさせたのだろう。
そろそろ床間に入り来る最終日に期待を膨らませることにしよう。

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