自殺しても良いんです

あなたは自分の命の重さを知っていますか?
僕はハッキリと知っています。

子供の頃、何度か自殺を検討したことがあります。
最初は5歳の時でしたが、あれは興味本位だったので割愛するとして、もっとも真剣に死に迫ったのは15歳だったでしょうか。

自分の活力と知能と精神力と"視点"では、悟ることは出来てもその向こう側へ行けないと悩み、自身の存在を"純化"して解決しようと試みました。
結局母に泣きながら制止され、活力と精神力のなさ故に死ぬ事を諦めました。死を望んだ理由によって生かされたことで、僕は己への失望をより強くしました。

まあ、もう5年も昔の話です。
現在は当時より元気がないので、あの激情はもう僕のものではないかもしれません。

そして何より、今回の話に僕の個人的経験はあまり関係ありません。
それよりもっと手前、ずっとずっと前段階の話です。

世の人の大半は「死への向き合い方」を誤っているように思います。
死を過度に忌避しているか、死を舐めているか、その両方かです。
どちらにせよ適切な距離感で死と接している人間は稀でしょう。

改めて申し上げます。
「自殺しても良いんです」。

人生を真剣に生きていると思い込んでいる人間ほど、視野狭窄に陥っている傾向があります。
そして大抵彼らの"真剣さ"は、俯瞰性や想像力の欠如と、人から借りた価値観で出来ています。

そのような方はむしろ一度くらい自殺を検討した方が良いのかもしれません。
人生における選択肢というのは、世間で語られる何倍も幅広いものなのです。

よく考えてみてください。
我々には「生きる権利」があります。
そして権利には常に「行使しない自由」が付随します。
ただそれだけのことです。

死は悲劇でも救済でもありません。
ただ人生の終わりに佇む"無"です。
もしかしたら天国や地獄もあるのかもしれませんが、生きている間に認識できないものは生者にとって無いものと同じです。
リンゴが地面に落ちるように、死もまた自然現象としてもたらされる"結果"でしかないのです。

その程度の話であるが故に、生ける者には選択の余地があります。
自発的に命を天秤にかけることはむしろ推奨されるべきです。(※注釈あり)
そうして命の重さを具体的に知った時、他者存在や古来の道徳は消え去り、等身大の自分が見えてくるでしょう。

自分の死を真剣に見据えれば、「自殺はもったいない」などの傲慢な発言も、軽々しく「死にてー」などと口走るメンヘラ的死にたがりな発想もしなくなるでしょう。
命をもって殉ずるべき問題とそうでない問題の区別がついているからです。

そして一見矛盾するようですが、死を知っていた方が実際に自殺する可能性は低いでしょうね。


注釈:ただし、他者の命は天秤にかけられない事に注意してください。命の価値は本人のみが決定するものだからです。「あなたから見た他者の価値」はあなたのものであって彼らとは一切関係ありません。
もし他人を排除しようと思ったなら、その存在が自分に与える影響のみを考慮するべきです。どれだけ無惨な姿にしても、彼の価値は微塵も傷付けられません。
あくまで「自分の人生にとって総合的にプラス」だと判断した時のみ、他者に影響を与えるようにするべきです。

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