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青信号は青いのか?

二部構成のこちらの本では、第一部で色名に関する考察がなされている。

それは古代ギリシア文学の叙事詩として有名な『イリアス』『オデュッセイア』の作者とされるホメロスの「色の描写」に始まる。

中でも特に有名な表現が「葡萄酒色の海(ワイン・ダーク・シー)」というもの。

海の色とワインというのは後世の人々にはちょっと結びつきにくい表現だ。そこから様々な考察が行われていき、ホメロスを含む古代人は色弱であったのではないかという話に進んでいくのだが、それは本書に譲るとして。

現代では、古代人と現代人の視覚能力はほとんど同じであり、違いが生じる原因は「心の目」とも言える「文化的背景を伴った語彙の違い」であるとされる。

通常、色を見分けるためには三つの属性がある。

『色の辞典』から定義を引用すると、

色相 ー 赤、黄、緑、青など、その色を特徴づける色みのこと

明度 ー 色の明暗

彩度 ー 鮮やかさ

以上の三つである。

従って、人によって見える色は無数にあり、あなたが見ている色が僕の見ている色と同じであるかを言葉で表現することはかなり難しい。というか厳密には不可能である。

そこでごく一般的な伝達表現として虹に代表される色の七原則が用いられる。

たとえば海の場合は青色というように。もちろん時間帯によって海の色も変わるが、ここでは分かりやすい一例として進めていきたい。

そこで冒頭の謎に戻る。

なぜホメロスは、海の色を青色と表現せず葡萄酒色と記すのか。

視覚的には先ほどの3つの属性が認識されているはずである。にもかかわらず、何が差異を生じさせるのか。

そこで持ち出されるのが、グラデーションの境界である。

現代人にとって、色の種類がたくさんあることは自明の理である。

赤はグループとして分けるならレッドかもしれないが、朱色とワインレッドを同じ色だと言う人はいないだろう。

しかし、緋色やマゼンタと言われてすぐに的確な色が思い浮かぶ人はいるだろうか。もちろん色に詳しい人なら可能だろう。けれど僕のように美術に疎い人間には、聞いたことはあってもカラー見本から選ぶ自信など到底無い。

仮に学生時代に美術部の人達とポスターを共同で作成したとして、僕がその色を誰かに伝える時は「赤色」と表現するだろうが、それでは周りの学生は納得しないだろう。

ちなみに前出の『色の辞典』には様々な色の種類が日本名で掲載されているが、古人の表現の豊かさには感動すら覚える。

そこにあるのは日本人が日本語を使って表現した色の名称である。従って、日本語を使わない人には見えていない(と日本人には思われる)色も存在する。もちろん逆に外国語を用いる人から見れば同じことは起こりうる。たとえ身体的に問題がなくても、脳が言語で色をどう認識するかには違いがあるのだ。

色ならまだ分かりやすいので、この話を「絵」に変えてみるとどうだろう?

ここでも絵に詳しい人なら、誰々みたいな作品と表現することはできるに違いない。しかし、絵自体を言葉で誰かに伝えることは色に比べると格段に難しい。色には色名の他にもカラーコードというものが存在するが絵にはそれが無い。

食べ物やファッションも同様である。

匂いや味、音、素材、思い出や体験、映像などは言葉で表現するには限界がある。歴史が勝者によって改ざんされるという例を持ち出すまでもなく、同じ映画を観ても帰りに交わす感想は個人によって異なる。

音楽家同士の音に対する会話と素人が表現する音では同じ音を指していたとしても通じないことだって十二分に起きうる。楽譜に書かれた音符が楽曲の全てを再現するものでもない。

数字が無ければ個人の表現は異なり、重量や温度、速度、サイズなどおよそ数字で表される基準値というものは生まれない。

つまり、そういうことである。

我々はたまたま色に関しては、古代人より洗練された語彙を持っているに過ぎない。

食レポの難しさを見ても分かるように、味については曖昧な語彙しか持たないが、それを当たり前のこととしているのは、生まれた環境や時代がそうさせているのだ。

もしかすると、後の時代の人達には、先のホメロスの色の表現に首をかしげた私たちの様に、今度は我々自体が謎とされても何らおかしくはない。

例えば新しい文化ができると、それまでに無かった言語表現や語彙が生まれる。しかし、その文化が一時的なもの(ブーム)であれば、それは死語となり、世代が変わればもはや通じない。美男美女の定義だって時代によって異なる。

人間の能力に大した差が無いならば、後の世代から見れば不思議に思えることでも、それは文化の違いでしかない。

特に言語は使用する人間の文化によって差が生じる。今我々が当たり前に言語で認識しているものは、語彙が変わればあっさりと覆る。

病気が祟りであるとされた時代を笑えても、脳のメカニズムの謎は我々にとっては依然として謎のままだ。

視覚的に認識していることと言語で色を表現することには文化的な隔たりがあるのだ。 それは、ある特定の表現や語彙を頻繁に用いることで培われる習慣から築かれる文化の違いだ。

色の言語表現が黒と白しかない人には、青を表現する時、便宜上「青」という言葉を使って表現するとすれば、それは「黒寄りの青」であったり、「白寄りの青」であり、青という言葉が存在しない場合には、それは「黒」か「白」のどちらかでしか表現できず、その場合、空は「青空」ではなく、「黒空」か「白空」と表現するしかないのだ。

黒寄りの青を紺色と言えるのは、紺色という言葉を知っている世代人だけなのである。

もしも、ホメロスの「葡萄酒」という表現が色の明暗を指したものだとすればどうだろう?

水の色は透明だろうか?あるいは常に透明だろうか?

海の水をコップにすくったとして、それは青色なのだろうか?

白い雪、青い海、緑の山、あまりにも単純化され、使い古されたこれらの表現を万人に共通の色だと断言できるだろうか?

山育ちの人がイメージする海と逆の環境にある人とではグラデーションが異なっても仕方ない。

言語とはこれほどに曖昧であり、多分に文化と密接に関係しているのだ。

信号の色が青か緑か、それは視覚の認識の違いではなく、文化に根付いた語彙の違いである。日本人にとっては元々青と緑を含んだモノが青であったので、green lightよりも緑を青と呼ぶ文化が優先するのだ。

新芽から連想される新しさは緑であり、青でもある。このフレッシュさは一方で未熟を想起させるため、新入社員に対して「君はまだ青い」や若さゆえの考えや行動を「青い」と言ったりもする。青田刈りや青田買いという言葉もある。

しかしながら、道路標識には国際基準があるため、日本の信号機にある青色は緑色に変えるわけにもいかず、青色に近い緑が選ばれている。

「青い空」を「碧い空」と表現する時、そこにはその語彙を使う文化が存在する。

だから、現代の感覚を持ってして、一見奇妙に思える言語表現に白黒をつけることはできないのである。

「白って200色あんねん!」というアンミカさんの発言が笑えなくなる時代には生きていないだろうけど。

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最後まで読んで頂いてありがとうございました。ちょっと面白いかもと思った方はゴールデンウィークを利用して読んでみてはいかがでしょうか。

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素敵なゴールデンウィークをお過ごし下さい。

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