たとえAIがどんなに進化しても僕は読書をやめない。なぜならー
ChatGPTが話題だ。
対話型のAIでいろんなサポートをしてくれる。
これまでにも絵を描いたり、音楽を作ったり、単純作業を担ってくれるものが話題になってきた。
人間に取って変わるのではないか?というシンギュラリティの問題は今後もますます加熱するだろう。
早送りで情報を摂取するのが若い世代らしいけど、
最近は本を要約するチャンネルやサイトも増えてきた。
いずれAIが人間が作ったものと大差ないクオリティで自動生成し、企業と提携して宣伝やサイト収益のビジネスとなっていくのは間違いない。
しかし、僕はどれほどAI技術が進化し、完璧に近い要約サービスができるようになっても読書はやめない。
なぜなら、僕は読書に情報や知識だけを求めているのではないからだ。
もちろん僕もそういったサービスを利用している。
ある時は難しい本の基礎知識として、もしくは全体像を掴むために、読書のきっかけにするために。
しかし、どんなにうまくまとめられていても、僕は興味がわいたら自分の目で確かめて読み、考える。
そして、誰もまとめていないような所が自分の中に残っていく。
どこかの本の一節がどこかの本の一節とつながる。
それが僕の単純作業なのだ。決してAIが肩代わりできるものではない。
誰かの喜びが自分への喜びへと変わる。そして僕も笑顔になる。
そんな日常を重ねて生きていきたいと思う。
言ってみれば、今のまとめサイトも自分以外が作っている時点でAIのそれと変わらない。
あるゲームで周回プレイ前提のやり込み要素をAIに任せる機能が実装された。
評価としては芳しくなかった。
そりゃそうだ。
たとえば僕もしているゲーム実況動画というのがある。先ほどの話に重ねれば他人のプレイ動画を見ている点でAIがするのと変わらない。きっとそういう動画も出てくることだろう。
しかし、人は単なる攻略だけを目的に見ているわけではない。自分の感性に合う人がそのゲームをどう評価するか、あるいは癒しのような目線で見ている場合もある。友達が隣でプレイしているゲームを眺めるのと自分で買ってプレイするゲームは違う。
画面の向こうでひたすら効率よく作業を繰り返すAIのキャラをただボタンで促して放置をしているのならプレイする必要は無いし、そもそも購入する気も失せてしまうだろう。
それなら自分でやればいいとあなたは言うかもしれない。
しかし、人間は楽な方に流れてしまう。
もしかしたらあなたは要約動画を見て読んだ気になってはいないだろうか?
読まないよりはマシかもしれない。
けれど、分かることと分かったつもりになるのは違う。ましてやそれを受け売りのまま、誰かに話してしまったら相手に間違ったことを伝えてしまう可能性もある。
三省堂書店の名前の由来にもなっている言葉が論語にある。
野中根太郎さんの訳で意味を紹介してみると、
AIが導き出す答えは最善手かもしれない。しかし、その責任を持つのは自分だ。自己発言に責任の無い人間には魅力がないし、信用もされないだろう。
人にはバイアスがあるが、AIにもある。なぜならAIは無数の手を生成する。それはつまり、毎回見方を変えるということだ。
その一部の見方を我々人類がさらに歪曲して理解し使用する。
自分を無知だと認識できない人と議論するくらいなら、AI同士の議論の方が間違いは少ないかもしれない。
しかし、間違いを認められるからこそ人間であり、また人は失敗から学んでいく。
たとえ理解が浅くとも、その人独自の意見には学びや気づきがある。
もしかしたら、それすらもAIが再現してしまうかもしれないけど、そこにAIはあるんか?
実にくだらない。
でも、これが僕という人間なのだ。
あなたが笑顔になったのなら、僕の日常はモノクロではない。
読んで下さってありがとうございました。
論語に興味がわいた方はこちらもよろしくどーぞ↓
スキはログインしていなくても押せます!ワンちゃんでも押せるほど簡単です。励みになりますので、ここまで読んでくれた記念に押して下さい。いくつになっても勉強は楽しいものですね。サポート頂いたお金は本に使いますが、読んでもらっただけでも十分です。ありがとうございました。