【マネジメント連載企画vol.14】マネジメントできないマネージャーたち~介護経営の陥穽(おとしあな)~」
第3章 介護現場マネジメントの方法②
「根」に求められる誠実さ
管理者は職場環境そのもの
介護現場には介護現場用のマネジメントが必要である。それを説明するために、前回、ひとつの事業所を「介護事業樹」に見立てて、根(管理者)〜幹(リーダーシップ)〜枝(マネジメント)〜葉(職員)というマネジメントの連動性について解説した。ピラミッド型で運営されていない組織に上意下達の管理は不向きだ。管理者は介護現場が自律的に動くことを第一に考え、指示・命令よりも「根」の立場からの支援を重んじる。それが介護事業所向きのマネジメントだと考える。
同じような意味合いで、組織を逆ピラミッドに見立てて管理職を最下層に位置付ける人がいるが、あれはセンスがない。職員ファーストを掲げつつも、結局ピラミッドという形から逃れられていないので、おそらく現場には「それは口先だけで、本音は逆でしょ?」と見透かされている。これも一種のピラミッドの呪いだろう。図形を逆さまにした程度の取り繕いは、現場にはすぐバレる。人間をみることを生業にしている彼ら彼女らを侮ってはいけない。
職員たちは、黙って管理者を見ている。自分たちのリーダーとして相応しい人間なのかどうか、現場の役に立つのか、少なくとも邪魔をしないのか、見きわめようとしている。
それは当たり前のことだ。なぜなら、職員にとって管理者の人間性や振る舞いは、職場環境そのものだからである。気にするのも、値踏みするのも、警戒するのも、当然といえば当然だ。
やせ我慢で誠実を演じる
リーダーにとって最も大切なのは「誠実さ」だといわれる。その通りだと思う。しかしながら、誠実さというものは持って生まれた資質であって学ぶことは難しい、という声も根強い。では、自分の誠実さに自信がないにもかかわらず管理者になってしまった人間は、どうすればいいのだろうか。誤解を恐れずにいうと、「やせ我慢」を続けるしかない。
資質を持っているリーダーは、過ちを認める、逃げない、自分のことを後回しにする、といった誠実な行動が自然にできるが、そうではない人間は「そう見えるように」振る舞うしかない。ミスをごまかしたいという気持ちをこらえて、素直に謝る。怖かったり面倒臭かったりしても、問題に向き合う。ほんとうは自分の仕事を優先したいけれども、職員の支援を優先する。こういった行動を、平静を装って積み重ねていくことで、「リーダーに望まれる誠実さを表現すること」は可能なはずだ。
不誠実な管理者も、天性の誠実さを持つ管理者も、おそらくは少数派だ。実際は、不誠実ではないものの、自分の誠実さに自信が持てない管理者が大半なのではないだろうか。
それでも、管理者である以上は一定以上の誠実さを求められる。自分は「天然」ではなく「養殖」だという自覚があるならば、やせ我慢で誠実さを演じ続ける以外に手だてはない。そのやせ我慢を不誠実だとは誰にもいえないと思う。
誠実さの正体
身も蓋もない話になってしまったが、これが現実だろう。天然・養殖の別なく、誠実さについて考えれば考えるほど、誠実さとは、質的・量的な、あるいは精神的・物理的な、「手間」のことなのではないかと思えてくる。たとえばそれは、日常業務の中の次のような行動なのではないか。
職員が報告や相談に来たとき、一旦自分の仕事の手を止める。気になる表情や態度の職員に声をかける。邪魔にならないタイミングで、主任クラスから現場の状況について話を聞く。先月入社した社員のOJTの状況をエルダーに確認する。職員から話を聞くときは必ずメモを取る。職員から何か要望を受けたら、可否はともかく必ず答を返す。美化・設備点検の視点だけで施設内をラウンドする。誰も掃除していない場所を見つけて自分で掃除する。職員間の人的対立を耳にしたら、日常業務を調整してできるだけ早く対応する。
どれも難しくはないが、日常業務の中で上乗せして行うには面倒なことばかりだ。養殖組の管理者にはまさに我慢でしかないだろう。だが、実はこれが、誠実さの正体ではないのか。目立たない、特別感もない、地味な「ひと手間」。そこに共通しているのは、あらゆることについて、自分を勘定に入れていない点だ。人のために行動する人に、人は誠実さを感じる。それは介護という仕事の本質であると同時に、そこで働く人が共有している揺るぎない価値観でもあるのではないだろうか。