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【マネジメント連載企画vol.5】マネジメントできないマネージャーたち~介護経営の陥穽(おとしあな)

第2章 陥穽(おとしあな)に落ちないために➀


教えられずにマネジメントはできない


何も教えられていないという落とし穴

心構えと手法、両方揃ってこそ、事業所を動かすことができる。心構えを知ることが「出直し」になり、手法を知ることが「学び直し」になる。「出直し」の妨げになるのは、これまで述べてきたアガリ意識とノスタルジーである。これについては、そうならないよう指導者が教え込む以外に方法はない。理想をいえば、管理者になる前に言い聞かせ、管理者になってからもそうなっていないかトレースして、よくない方向に傾いてきたら軌道修正していくしかない。

では、これからマネージャーとして一から出直そうと心に決めていて、できるだけケアの仕事から離れようと考えているにもかかわらず、マネジメントできないマネージャーが存在するのはなぜか。それは、どうしていいかわからないからだ。たとえアガリ意識とノスタルジーがなくとも、マネジメントとは具体的に何をどうすることなのか、誰からも教えられなければマネジメントはできない。当たり前の話だが、専門職の多い現場では、実はこれが一番多いのかもしれない。

筆者は、仕事柄マネジメント研修の講師を依頼されることが多い。社内・社外を問わず、管理職や管理職候補に介護事業所マネジメントの考え方や手法を教えているのだが、正直なところ、「出直し」の心構えを伝えるだけで精一杯だといつも感じている。単なる講義だけでなく、グループワークやロールプレイングを取り入れるなど工夫はしているものの、どうしても限界があるように思う。


就けて教えるか、付けて教えるか

研修は研修に過ぎない。やる意味がないとは思わない。一定の効果はあると思う。だが、所詮、知識は知識、疑似体験は疑似体験であって、実践ではない。知識や疑似体験をいくら積み重ねたところで、実践にはかなわない。マネジメントというものは、最終的には実際の仕事の中で学んでいくしかないのだ。

新任管理者へのマネジメント教育は、➀いきなり管理者に就けて教えるか、➁管理者候補の段階で現役管理者の横に付けて教えるか、現実的にはこのどちらかになると思う。いや、それですら、初期段階のOJTに過ぎず、学びの大半は、管理者になってから実体験の中で身につけていくことになる。いずれにしても、手間と時間はかかる。にもかかわらず、最低限の引継ぎのみで、OJTすらないのでは、マネジメントできないマネージャーが増えるのも当然だろう。

就けて教えるにしても、付けて教えるにしても、それはコスト増になる。就けて教える場合は教える人材が、付けて教える場合は教わる人材が、それぞれフリーになる必要があるからだ。もちろん、教える手間も増える。

そんな余裕はない、というのが経営層のホンネかもしれない。だが、たとえ短期間であってもこのコストと手間をかけなければ、いつまで経ってもマネジメントできるマネージャーは育たない。




後継者指名の価値

就けて教えるにしても、付けて教えるにしても、「これからあなたを管理者として育てるから」と本人に伝えることを是非お勧めしたい。組織全体に正式に周知できればなおよい。

後継者指名については、反対意見もあると思う。育成中に辞められたら管理者の顔がつぶれる、権限委譲することが明らかになると現管理者がレームダック化して職員がいうことを聞かなくなるのが怖い、等の声を耳にする。中でも多いのは「指名せず黙って成長ぶりを見きわめて、譲れるレベルになったら譲りたい」だろう。正論だ。だが、この考え方にはマイナス面もある。

まず、管理者になる覚悟がないとマネージャーというのは育ちにくい、ということだ。現管理者が黙って成長ぶりを見きわめているあいだ本人は、「いずれ管理者になるのかな」とは思いつつ「ならないかもしれないな」とも思っている。このような宙ぶらりんの状態では、望むような成長はなかなか難しい。覚悟などという言葉を持ち出すと精神論だと思われるかもしれないが、覚悟の決まった人間が大きく変わるのも事実だ。それは、現管理者こそわかっているはずである。

もうひとつは、指名せず成長を見きわめているうちに後継が遅れてしまうことだ。現管理者の「譲れるレベル」というものは、例外なくハードルが高い。未熟さが残っていない後継者などほぼ存在しないのに、「自分のようになるまでは」と考えているうちに、譲るタイミングを逸してしまう。


表も裏も教える

就けるか、付けるかした上で、指名して、教える。教える内容については、これから本連載で項目を分けて詳しく解説していくことになるが、常に意識しておきたいのは、「表」も「裏」もどちらも教えるということだ。

マネジメントの表だけなぞるような教え方は、業務手順だけ伝える「引継ぎ」と同じである。それでは意味がない。表を教えたら、必ずその裏も教えなければいけない。

たとえば、職員に対して、あるいは営業先である居宅介護支援事業所や病院に対して、付き合い方にそれなりの濃淡や優先順位があるはずだ。それを伝えるのが「表」なら、なぜそうしているのか、自分なりの理由を伝えることが「裏」である。

職員の採用面接時に、なぜその人材を合格にしたのか、不合格にしたのか。カンファレンスの時になぜその職員に意見を求めたのか。ある職員を主任候補として考えているのは、普段のどういった仕事ぶりを見てのことなのか。すべての判断には必ず理由があるはずだ。それを、管理者が何らかの行為や発言をした後に、伝えるのである。そのためには、管理者と管理者候補は常に一緒にいる必要がある。だから、就けるか、付けるか、するのだ。弟子は師匠の傍にいて、師匠の行為を見たり発言を聞いたりするだけでなく、その理由まで知ることができて、本当の意味で学べる。


不文律を文律に

師弟関係、あるいは教育の理想をいえば、ほんとうは理由を教えるべきではない。行為と発言を見せ、その真似をさせ、理由については本人が気づくまで待つのが、本来の教育のあり方である。だが、現代のビジネスには、あるいは介護事業には、残念ながらその余裕はない。邪道であることは承知の上で、初期段階のマネジメント教育に限っては、理由まで教えるのが現実的だろう。

もちろん、ありとあらゆることについて、行為や発言の直後に理由を伝えろといっているのではない。「さっきあのように言ったのはなぜだかわかる?」と一旦質問を挟んで考えさせたり、簡単なレポートを書かせたりしたあと、解答として理由を伝えても構わない。

教える側は、何らかの「裏」の理由があって「表」の行為や発言をしているのだが、当たり前の日常なので、ついつい理由の説明を端折ってしまいがちだ。その理由が、管理者の中で他人に伝えられるほど明確に言語化されていないこともままある。仕事上の微妙な駆け引きや、複雑な人間関係が絡む場合などは特にそうだろう。

しかしながら、教えられる側には「表」しか見えない。その裏側にある意図や戦術はわからない。勘だとか、経験を積めばわかるよ、などといわず、教える側は、その不文律を文律にして伝える努力を惜しんではならない。暗黙知を形式知にして教える工夫が、OJTを変え、人を変える。


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