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私たちはひとりひとりがそれぞれの「特殊」を生きている

たとえば、あなたが土日に街のオシャレなカフェの前を通りすがったら、ワイワイと会話をしている若い男女のペアがたくさんいる光景が見えたとします。
場合によっては「なんだなんだみんな幸せそうにしやがって」と思ってしまうかもしれません。「世の中幸せそうなカップルばっかりだ、それに引き換え自分は……」って思ってしまうかもしれません。

でも、あなたが見かけたその「カップル」は、ただの兄妹かもしれないし、長年恋人がいない者同士が初めてお茶をしている初々しい二人なのかもしれないし、チラと見ただけでは表情が把握できてなかっただけで実は別れ話をしている最中なのかもしれません。
「本当に幸せなカップルかどうか」は一瞬垣間見ただけでは分からないものです。

しかも、たとえそこにいたのが「本当に幸せなカップルばかり」だったとしても、「世の中幸せそうなカップルばかりだ」とは言えません。
なぜなら、街なかのオシャレなカフェという場所は、世の中でも幸せなカップルを強く引き寄せやすい特殊な場所だからです。
世の中に「幸せなカップル」がものすごく希少な存在だったとしても、カフェという特殊な場所には集いうるのです。

ダイヤモンドが非常に希少な存在にもかかわらず、宝石店にはたくさんあるのと同じです。宝石店という特殊な場所を見かけただけで「世の中ダイヤモンドばかりだ」とは普通は考えないはずです。


同様に、平日昼間からバーでお酒を飲んでる人をみて「良いご身分だな」と妬ましく思っても、それは激務の当直明けでせめてもの一杯をあおってるクタクタの医師かもしれません。

そして、世の中はバーでできてはいないので、バーを見て「世の中昼間からお酒を飲むようなけしからんやつがいっぱいだ」とも言えません。


同様に、ニュース映像で海外旅行に向かう家族連れをたくさん見たとして。

同様に、SNSで出世や業績を嬉しそうに報告する人たちを見たとして。


実際のところは分からないし、その上、世の中がそういう人たちばかりとは言えません。
特殊な場所を一瞥しただけでは、世の中全体のことまでは分からないのが実情です。

でも、私たちはしばしばこんな風に特殊な事例から世の中全体に共通する一般的な法則を導くことをします。
この思考法は人間の生存や仮説形成に不可欠な脳の重要機能でもありますが、バイアスの源でもあります。
あくまで仮説でしかないはずの理論を自身の中で確信的に信じてしまうために、ときおり人は暴走してしまうのです。



このバイアスの危険性を踏まえ、こういう風に説く人が出てきます。

「ちゃんと統計を見ろ」
「n=1で語るな」
「時代はファクトフルネスだ」
「エビデンスあるの?」

などと。

すなわち、特殊な事例を一般化するなと口を酸っぱくして言うわけです。


たとえば、統計を見れば世の中は着実に進歩し幸福になっているのだから、そうでない特殊な事例をことさらに取りあげて煽るのは、アジテーター(煽動家)であり、(詭弁家的な意味で)ソフィストである、と批判するわけです。


たしかにごもっともなのです。
先ほど見た通り、特殊な事例を見かけただけでいきなり世の中全体に一般化して当てはめるのは妥当とは言えない。
それはほんとに正論なのです。


でも、

「平均的には世の中は幸せなはずなのだから、あなたが幸せでないと感じるのはあなたの努力不足か認知の歪みでしかない」

こういう統計的な観点、平均だけを比較しているような感覚には、どうしてもモヤモヤするところが残ります。


結局の所、私たちは誰もが「平均」ではないし、「普通」にもなりえません。
「平均がこうだ」と言われても、それを確かにそうだと理解したとしても、それはどこまでいっても厳密には「自分ではない何か」でしかない。

私たちはひとりひとりがそれぞれの「特殊」を生きています。

「n=1で語るな」と言われても、自分は自分でしかなく、どうしたって「n=1」でしかないのだから困るのです。


その厳密には絶対に取り除けない「差異」に目をつむって「自分は《平均人間》ということにしよう」「自分は普通であることにしよう」と受け入れることができた者だけが、統計的な話を前提にして進むことができます。

しかし、世の中に疎外感を抱いてる人はそれだけ「自分が普通であることにする」という仮定が受け入れがたいのではないでしょうか。
自分を拒絶している(ように感じる)世の中に対して、自分がその一部である、自分がそれと一体であるとするのは、なかなかにハードルが高いように思います。



たとえば、あなたが土日に街のオシャレなカフェの前を通りすがったら、ワイワイと会話をしている若い男女のペアがたくさんいる光景が見えたとします。
場合によっては「なんだなんだみんな幸せそうにしやがって」と思ってしまうかもしれません。「世の中幸せそうなカップルばっかりだ、それに引き換え自分は……」って思ってしまうかもしれません。

申し訳ないのですが、それは非合理的な考えです。
統計的思考、論理的思考をもってすれば、「ファクト」に基づいてない妥当ではない考えなのだと言えます。

でも、たとえそれがどんなに非合理的な妄想であったとしても、それをあなた自身が感じたという事実、抱いた妬みや悲しみの感情は確かに間違いなくそこにあったわけです。その苦しみだけはあなたにとってどうしようもなく本物です。

これもまた一種の「ファクト」なのだと思うのです。


その「苦しみ」という「個人的ファクト」を、理性や合理性という「錦の御旗」をもって「非合理的な妄想である」とあっさりと棄却すること、あっさりと拒絶することは、かえって理性や合理性の受け入れを妨げる非合理的な言動と言えないでしょうか。

幻の「世の中」であろうが、真の「世の中」であろうが、それに自分の「n=1のファクト」を拒絶されてしまえば、その人は「世の中」と袂を分かつことになるでしょう。「拒絶された《特殊人間》」としての自認をますます強めていくことになるでしょう。

最終的に、そうした人たちが増えた結果、世の中全体を正確に俯瞰して見る「理性界」に敵対するアウトロー集団を築くようになった。
昨今の各所での衝突の背景に、こうした経緯があるような気がするのです。


だから、逆説的ですが、彼らの「苦しみ」という「特殊」を受け入れて始めて、彼らに「理性」「合理性」に基づく「一般論的思考」への道が開けるのではないでしょうか。

いきなり「一般論」を正論としてぶつけることは、一見すると正しそうでも、かえって天ぷら火災に水を注ぐようなもののように思うのです。



注意したいのは、彼らの「苦しみ」を受け入れることは、彼らの「非合理的な妄想」を受け入れることとは異なるということです。

別にその「非合理的な妄想」まで肯定しなくていい。
ただ、その苦しみの存在を肯定する必要があるのです。

それなのに、「非合理的な妄想」を否定しようとする勢いで、苦しみの存在自体まで否定してしまってはいないでしょうか。


そこに今の私たちの大きな課題があるのだと思うのです。




……とはいえ、この「苦しみを受け入れる」というのが実際にはまたかなりの難題でして。
これが「それができたら苦労しないよ」という身も蓋もない話だからこそ、この問題がどうにもならなくなってきてると言えるのですが、これはまた別の話。

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