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「失敗が許容できる範囲の小さいコストから始めよ」の罠

時々耳にする「失敗が許容できる範囲の小さいコストから始めよ」的なアドバイス。いきなり大規模にリソースを投入して、失敗したら大惨事なので、そんなリスク高い行為から始めずに、失敗しても大丈夫なような小規模からチャレンジしましょうという理屈ですね。

確かに非常に合理的だし賢明だなあとは感じるのですけど、まあでもこれはこれで死角があるんじゃないかと思うんですよね。

というのも、小さいコストからお試し的にチャレンジするという発想は、「小さく始めてうまくいきそうな手応えがあったら徐々に規模を拡大していこう」という狙いがあると思うんですが、これは「小さく始めてもその手応えをちゃんと認識することができる」という暗黙の前提を置いているんですよね。

小さく始めた場合は、当然ながらプロジェクトとしても小さいので、その反応(手応え)も小さいものになりやすいです。つまり、そうした小さい反応を見逃さない鋭い眼が必要になります。

小さい反応(シグナル)というのは、もとより世界には存在している自然の揺らぎ(ノイズ)にも隠れやすいので、実際には見つけるのは難しいですし、なんならノイズとシグナルを取り違える可能性もあります。別に自分の小さなプロジェクトに対する反応ではないものや、ただの偶然、気まぐれ的な現象を、自身のプロジェクトに対する反応と取り違えるということですね。(普段からS/N比と格闘してる方々にはご理解いただけるかと思います)

で、なにより、小さく始めることの問題は、最初から大きく始めないと効果がでないタイプのプロジェクトでは、「手応えがない」として誤って却下してしまう、言わば「偽陰性」が生じうることでしょう。

小規模に小出しにしていたら何ら成果が上がらないのに、大規模にドカンと与えたら突然大変に成果が上がる。そういうことも世の中にはあるんですよね。

たとえば、医学領域で言うと、薬とか放射線治療とかで知られてます。

もちろん薬の種類にもよるんですけれど、薬によっては1日3回みたいに小分けにして飲むんでなくって、1日1回でまとめて飲む方が効果があるというものがあるんですね。飲んでる薬の成分量は結局は同じでですよ。これは、一気にドカンと飲むことで血中濃度をガン上げ(最大化)しているのですが、この最大血中濃度が効果の分かれ目になるタイプの薬(およびターゲットとなる病気)があるということです。
(あ、これを聞いて今お持ちの薬を勝手にまとめて飲むのはやめてくださいね。当然医療者はそれぞれの薬の性質を知っていて、1日1回の方がいい薬はちゃんとそのように処方されてるはずですから、指示通りの服用でお願いします)

放射線治療もそうですね。ちまちま微量の放射線を当てるんでは全然癌には効かなくて、ある程度まとまった量の放射線をドカンドカンと当てて初めて効きます(それでも1日でやるというよりは、分割して当てるものが多いですが)。

こうした治療の効果を見るときに「ちょびっとだけやってみたら効果がなかったんで無効ですね」としてしまうと、有効になりえる治療オプションを誤って早計に却下してしまってるということになります。すなわち、ある程度まとまった規模感でやってみて初めて効果が見えるタイプのものごとがあるわけです。

どうしてこうなるかというと、世の中、介入と反応の関係が必ずしも線形ではないからなんですね。

「小さく始めて手応えがあったら大きくしよう」という発想は、暗に介入と反応が比例関係にあるように勝手に考えてるところがあります。1の量の介入をしたら1の反応がかえってきて、10倍の介入をしたら10倍の反応がかえってきて、10000の介入をしたら10000の反応がかえってくる、という想定のモデルになっています。

しかし、この想定では、たとえば1の介入でも10の介入でも反応が0なのに、10000の介入をしたら突然1000000000000000000の反応がかえってくるみたいな、全然介入量と反応量が比例関係(線形関係)でないケースを見落としてしまうんですね。「1や10で手応えがないから」とその先に踏み込むことをやめてしまう。

だから、「小さく始める」系の作戦は、ある程度の規模の介入をして初めて効果が上がる系の非線形な反応を示すタイプのプロジェクトには合いにくいのです。つまり、合理的で賢明でありそうに見えて、その実ハナから相手を選んでる作戦と言えます。

もっとも、公平を期すために述べておきますと、先ほど例に挙げた医学領域も実際には「小さく始めてます」。やっぱりえいやといきなり大量の投薬を患者さんに与えるチャレンジから始めてるわけではなく、細胞レベルだったり、動物実験だったり、と許容可能な損失の範囲のところから段階的に試験を進めていくわけです(動物倫理的なところは議論が山ほどあるところですが、ここではそれはおいといてください)。

ただ、医学領域ではそうした「小さく始める」ためのオプションが一応あるものの、医学領域でない分野ではそもそも「小さく始めること」さえ難しいケースもあるでしょう。

代表的なのは社会政策だと思います。

社会政策のターゲットは人間集団なので、細胞や動物実験みたいな代替対象がないんですよね。人間集団に対して介入しないと意味がない(霊長類で試すのも内容によっては可能かもしれませんがそれを人間集団に当てはめていいとする外的妥当性がやっぱり低すぎるでしょう)。

もちろん、特区を作って期間限定で政策を試してみるみたいなプロジェクトは多々ありますけれど、そうした限定的なエリアかつ限定的な期間の実験で成果が適切に把握できてるかどうかは不透明なわけです。広域に無期限で大規模に実施してこそ意義があり得る(と理論上予測される)政策については、それこそ「小さく始める」の線形モデル的想定ではその効果が見落とされたり過小評価されるおそれがあります。

具体的な話をすると、江草個人的には、子育て支援策がこの愚に陥ってるのではないかと思ってるんですよね。「異次元の少子化対策だ」と息巻いておきながら、出てくる政策がちょびっとずつ。これであまり効果があがらないからといって「子育て支援は少子化対策として意味がない」と断じてしまうのは、それこそ介入と反応の関係について線形モデルを勝手に想定してるだけではないかと思うわけです。本当に線形モデルで妥当なんですかと。薬を微量投与しただけで「この薬効かんわ」と言われてもという話です。

あるいはベーシックインカムもそうですね。地域限定、期間限定でベーシックインカムを施す社会実験はちょいちょい行われていますけれど、ベーシックインカムの理屈からして、やっぱりユニバーサル(普遍的)に無期限に十分量与えてこそ初めてその効果が分かるはずなんですよね。「ちょびっとだけやる」ということにそもそもあまり意味がない(というかそれでは始まらない)ビジョンの政策なわけです。

このように、あまりに「許容可能な損失の範囲で小さく始めましょう」という考え方にこだわりすぎるのも、世の中の様々な可能性を見落とすおそれがあると思われるのです。非常に合理的で賢明ではあれど、実はこの方針を採用する時点で選択肢をかなり狭めてる可能性があるわけです。

もっとも、じゃあといって大規模に始めたらいいのかというと、もちろん、これはこれで大変な覚悟が要るんですね。当然お分かりの通り、大規模な挑戦をすることは多大なリスクを負うことになりますから。

裏を返せば、少子化対策とかベーシックインカムとかが、結局はちまちました規模感から抜け出せないのは、この大きなリスクを許容できる心持ちが社会にないからだとも言えます。

「失敗が許容できる範囲の小さなコスト」と言った時、それはその「許容心の度合い」によってかけられるリソースの規模感が変わるということも含意しています。

いかにこれ自体は賢明な戦略であったとしても、ここでの心持ちがあまりにゼロリスク志向であったならば、ことごとく極小のプロジェクトしかなされないことになって、結局は何もしてないのと同じにもなりえるでしょう。

そもそもこうした「小さく始めましょう」という言説が流行ってること自体、人々が「いかにリスクを回避するか」「いかに無難にチャレンジするか」に腐心してる社会文化を反映していると言えるかもしれません。


……ま、こう言う江草もチキンなので「小さく始める系」しかできない人間なのですが。てへへ。


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