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次に来るのは「脱労働」時代

社会改善の歴史全体が、これまでどういう一連の変化だったかと言えば、社会の存続にとって最も必要だと考えられていた慣習や制度が、次々と例外なく、不正と専制の烙印を押されるところにまで成り下がっていく、という変化だった。奴隷と自由人、領主貴族と農奴、都市貴族と平民といった区別がそうだった。肌の色や人種や性による上下の区別もそうなっていくだろうし、すでに部分的にはそうなっている。

J・S・ミル 『功利主義』

さすがミル先生!
おれたちに言えない事を平然と言ってのけるッ
そこにシビれる!あこがれるゥ!


……と、ふざけた小ネタで開幕してみましたけれど、実際そうだと思うんですよね。

それまでは当たり前で常識で必要不可欠だと思っていたものが、次の時代で覆ってるというのは歴史上しばしば見受けられる変化なわけです。

諸手を挙げて全ての時代の変化を良いものと捉えるのも、いささか素朴な進歩史観に過ぎますけれど、これだけ「変化が早い時代だ」だとか「不確実性だ」「VUCAだ」だとかみんながみんな言ってるにもかかわらず、「今の常識で最も必要と考えられている慣習や制度」こそが次にあっさり没落するという可能性に思いを馳せないのはそれはそれで妙な話でしょう。

次に時代の変化のターゲットになるのは何か。
次の時代に立場が覆るものは何か。
あるいは、逆に言えば、それこそ今の時代に最も必要だと思われてるものは何か。

これまでの江草のnoteを読んでくださってる方々にはもう予想がついてると思いますが、それはやっぱり「仕事」ではないかと江草は思うわけです。

とはいえ、今日はその根拠や理屈をつらつらと詳述はいたしません。ちゃんと書こうとするとめちゃくちゃながーくなりますし、過去noteでもちょくちょく書いていますから。

その代わり、今回は、実際に他の方々でもそのような「仕事中心主義」に懐疑的な意見を言う人は増えてきているので、その紹介をしようかなと。


たとえば、先日読んだ『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』。

(こんな本を書いておいて言うのもなんですが)私自身は、働くの、めっちゃ好きです。働いていると、自分の興味の幅も広がるし、プライベートでは知り合えないような他人とも出会えるし、なにより自分の仕事が形になることが楽しい。今の日本の平均値からすると、働くの、めっちゃ好きなほうなんだと思います。
 でもだからこそ、「全身全霊で働くことを美化したくない」と心から思っています。
 だって全身全霊で働けているのは、家族のサポートがあったり、たまたま体力が今はあったり、運良く環境が揃っているからです。全身全霊で働くことを美化していると、いつか全身全霊で働けなくなったとき――それは自分が病気をしたりあるいは家族のケアが必要になったりいろんな事情があると思うのですが――なんだか「全身全霊で働けないやつなんて、だめだ」と考えそうじゃないですか。
 そんなの、嫌なんです。働くの、けっこう好きだからこそ、言いたいんです。仕事なんて、所詮仕事だよ!と。自分に言い聞かせたい。

(中略)

…私は真剣に、少子化対策も、日本経済の復活も、「半身で働く」ことからはじまると思っています。
 働き方、変えませんか。変えましょう。半身の働き方が普通になる未来が来ることを、私は心から願っています。そして働きながら本が読める社会になりますように。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

仕事にフルコミットする全身主義を批判して、フルコミットにこだわらない半身主義を提唱しています。


他、ユニークな哲学入門書の著作の数々で有名な飲茶氏も、

 著者の私見を述べさせてもらえば、次の時代の哲学として考えるべきテーマは三つある。ただし、その真に驚くべき三つのテーマを全部書くのには、この本の余白は狭すぎるので、ここではそのうちのひとつにしぼって、さわりだけを紹介してみよう。参考になれば幸いである。
 新しい時代の新しい哲学……。僕たちが考えるべきテーマとは、ズバリ、「働かない社会を作るにはどうすればよいか」である。
 ようするに、「ダルいし面倒くさいから、もう働くの(社会に貢献するの)やめちゃわね?」って話である。

飲茶『14歳からの哲学入門』

次に来る哲学は「働かない社会を作るための哲学」であると言い切ってらっしゃいます。


そして、哲学者、國分功一郎氏のベストセラー『暇と退屈の倫理学』でも。

マルクスは「自由の王国」の根本的条件は労働日の短縮であると言っていた。誰もが暇のある生活を享受する「王国」、暇の「王国」こそが「自由の王国」である。誰もがこの「王国」の根本的条件にあずかることのできる社会が作られねばならない。そして、物を受け取り、楽しむことが贅沢であるのなら、暇の「王国」を作るための第一歩は、贅沢のなかからこそ始まるのだ。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

「労働日の短縮」によってこそ「自由の王国」の道が開かれるというビジョンを提示されています。


総じて言われていることは、いかにして「働くことから脱却するか」「働かないようにするか」「働かない時間を大事にするか」です。

これは、特に勤勉に働いていることを誇りとしている日本人からすると、常識に反する方向性でしょう。心理的に反発を覚える人も少なくないはずです。

「働かないなんてたるんでる」
「仕事しなければ社会はなりたたんぞ」
「そんな甘えたことを言っていてはこの世知辛い世の中を生き残れないぞ」
などと。

実際、極めて真っ当で常識的な反応ではあろうかと思います。

ただ、冒頭のミルが言うように「社会の存続にとって最も必要だと考えられていた慣習や制度」がひっくり返ることで時代が進むことはあるわけです。

その意味で言って、まさに「仕事」こそが次のひっくり返る対象である可能性は十分にありえるのではないでしょうか。

もちろん、上で取り上げた引用書籍は江草の手によるかなり恣意的なチョイスですから、江草の主張に合うようにチェリーピッキングしただけの確証バイアスにまみれた例示に過ぎないと言われればその通りです。

ただ、上記の書籍に限らず、本屋に行けば今や「働き方をどうするか」のテーマを扱ってる書籍が勢力を増しているのは一目瞭然ですし、各所からの批判や抵抗も少なくないにもかかわらず国も「働き方改革」を進めようとしぶとく努力しています。

これは多くの人が、フルコミットを前提とし称揚するこれまでの働き方の考え方は限界を迎えていて、「働き方を変えないといけない」と気づいていることの証左であるでしょう。

仕事を絶対視してきたこれまでの価値観から社会が脱皮しようとしている機運は明らかに高まっているのです。

だから、もしかすると、これまで通り「仕事」が社会の中心にあると信じ続けて、次に来る時代が「脱労働」を主軸に据えてる可能性を無視することの方が、むしろバイアスにまみれてるのかもしれませんよ。



おまけとして、江草の「脱労働」の考え方が分かりやすいと思われる過去記事を参考にのっけときますね。(他にもわんさか書いてますが、とりあえず目についたやつを)


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