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マトリックスが下手すぎる

今日はエイプリルフール。本来なら面白いウソをつきたいところですが、江草はそういうセンスがないので、代わりに「ウソ」をテーマにした論考でもしてみようと思います。




あなたの人生全てがウソだったとしたら?

有名な思考実験に「経験機械」というものがあります。「水槽の中の脳」とも同類の話です。

実際にはあなたは水槽の中に浮いている脳に過ぎず、自身が「体験してる」と思ってる感覚や経験は外部からの電気刺激を通して「そういう体験をしている」と機械に思い込まされてるという設定です。

この設定において「大変に幸せで快楽に満ちた人生体験を与えてもらえるとしたら、その機械に繋がれることを望むか?」という問いが提示されます。


要するに「全く虚構の人生の中だとしても幸せならそれでいいか?」と問われているわけです。

一応想定としては、「そんなの嫌だ」と多くの人は思うでしょう、ということになってます。

皆様ご存知の映画『マトリックス』は、まんまこのテーマとセッティングを扱っていて、「赤い薬と青い薬」という究極の選択としてこのジレンマを描いています。

ここでまさしく主人公のネオはウソの人生(機械に繋がれたマトリックスの中の人生)ではなく真実の人生(機械に繋がれないマトリックスの外の人生)を生きることを選択するわけです。

また、映画『トゥルーマン・ショー』も、同様に自分の人生が壮大なリアリティ番組による虚構であったことを知った主人公の究極の選択(このまま番組内で生き続けるか、外に出るか)が描かれてます。わざわざネタバレしなくとも、主人公の選択が何であったかはご想像がつくかと思います。


ただ、実際にはこの思考実験に対しては様々な反応があり得ると思います。

江草が以前見かけた回答で記憶に残っているのが「この人生全てがウソだということを自分が気づかずにいられるなら全然それでいいでしょ」というものです。

思考実験のセッティングに矛盾しない回答かどうかという点に細かい疑問は残るものの、この回答は「ウソ」というものの面白い性質を浮き彫りにしてると思うんですね。

それは「ウソはウソと気づかれなければOK」という性質です。

ほんというと別に「経験機械」とか「水槽の中の脳」などのややこしい話まで出さずとも日常的にもよく言われる話ではあります。
たとえば、「不倫はしてもいいけど私にバレないようにしてね」と言う人がいます。これは先ほどの「人生がウソであることに気づかなくてすむならOK」と同様に、「実際に本当か嘘か」よりも「自分がそれを嘘と知りえるか否か」を重視している態度ですね。

つまり、ウソは「ウソだ」と正確に認識された時に初めて問題になるのであって、「ウソだ」と認識し得ないのであればそれは問題にならないということになります。裏を返せば「ウソ」は「ウソである」という事実だけでは問題ではない、すなわち「ウソ自体のみでは必ずしも悪ではない」わけです。

「ウソ=悪」の図式が常識的な世の中にあって、これは常識に反する非常に面白い特徴です。


嘘も方便

また、必ずしも「ウソ=悪」ではないという論理として、「嘘も方便」という慣用句も有名ですね。

方便というのは元々は仏教用語なんですね。

1. 仏教において、衆生を教え導く巧みな手段や、真実の教法に誘い入れるために仮に設けた教えを意味する仏教用語。

「方便」 -Wikipedia

仏教はこだわりや煩悩を解脱してる境地から説かれるものですから、本来なら「仏道に入るとこういうメリットがありますよ」とか「人生が幸せになりますよ」みたいなある意味では打算的とも言える勧誘は教義と矛盾してるところがあるのですが、世俗の人々に布教するとっかかりとして「世間一般で受け入れられてる利益」すなわち「ウソ」で釣って興味を抱かせるのは、真の教えに導くために必要な「方便」だと、そういう理屈なんだそうです。

また、社会の中で仏教が爪弾きにならないよう社会のために良い存在ですよとアピールすることで教団の安全地帯を確保してる側面もあるとか(言わば、教えの持続可能性サステナビリティを重視してるわけですね)。


この仏教が想定する「方便」は、そのウソの性質上、仏教の学びを深めていくにつれて、いつかは当然「あ、これウソだったんだ」とバレるものとなるはずです。ただ、それがウソだと気づく頃には「ああ、当初のウソはこの素晴らしい教えを導くための方便だったのだなあ」と納得できる段階に達しているがために、ウソをつかれた側も「ウソも方便」としてウソを肯定的にとらえることができるわけです。

たとえば、瞑想でも、広報的には「瞑想はこういう心身面でのメリットがあるよ」とか「ビジネスの成果向上にも繋がるよ」とかいう誘い文句で耳目をひくわけですが、いざ瞑想を実践する場面では「瞑想中はこれに何の意味があるんだろうとか、これでこういう効果が得られるだろうみたいな期待や計算は一切してはいけない」と指導されます。
実際、瞑想にハマるうちに「世間的なメリットとかどうでも良くなったわ」みたいな境地に至る人もいるとか(江草は全然その境地に至れない凡夫なのでその感覚は分からないのですが)。
これも、世間体と本音をうまいこと使い分けてる例ですね。

つまり、「ウソも方便」というロジックは「たとえウソだとバレてもウソと気づいた側の気分が損なわれないことが保証されてるならOK」と言うことができるでしょう。だから、この場合も必ずしも「ウソ=悪」ではないことになります。


「よいウソ」であるための条件

ここまでの話を踏まえると、必ずしも「ウソ=悪」ではなく、「よいウソ」もあり得るということになってきます。

「よいウソ」であるためには

  • ウソをウソであると見破られないこと

もしくは

  • ウソが見破られても気分が損なわれないこと(何なら感謝されるぐらいだとなお良い)

が重要な要件となってると言えましょう。


社会は「ウソ」でできている

で、こんな風に「ウソ」のことを整理して何の意味があるのと思われるかもしれません。しかし、「ウソ」というのは私たちにとってとても重要なんです。というのも、この社会が「ウソ」によってできているし、それによってうまく回っているからです。

国家だって、会社だって、お金だって、宗教だって、家族だって、みんな「ウソ」と言えば「ウソ」なんです。でも、私たちはそれらの「ウソ」を素直に信じて、日々、人類社会を回しています。

いや別に江草が勝手に突然変なことを言い出してるわけではなく、普通に知られている話です。

たとえば、ベストセラー『サピエンス全史』も、人類は虚構を信じることで「多人数による協力」という強力な武器を手にしたという話が軸になっています。

伝説や神話、神々、宗教は、認知革命に伴って初めて現れた。それまでも、「気をつけろ! ライオンだ!」と言える動物や人類種は多くいた。だがホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、「ライオンはわが部族の守護霊だ」と言う能力を獲得した。虚構、すなわち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている。

だが虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、集団でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代(天地創造の時代)」の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。そのような神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与える。

とはいえこれらのうち、人々が創作して語り合う物語の外に存在しているものは一つとしてない。宇宙に神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。

『サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』
ユヴァル・ノア・ハラリ著

身も蓋もない話ですが、ハラリ氏も語るように、この社会における主要な概念はことごとく「ウソ」(共同幻想)なんですね。その指摘がこのように堂々となされてしまっているわけです。

この点で言えば、これらの「ウソ」は、先ほどの「よいウソ」の一つ目の要件である「ウソをウソであると見破られないこと」を満たしてないことになります。

ただ、ハラリ氏も、これらの「ウソ」によって人類は強大な力を手にしたと認めているように、社会の「ウソ」を「ウソ」と知った上でも「大事なウソだよね」と思えるのであれば、「嘘も方便」的に二つ目の要件で「よいウソ」であると許されうるとは言えるでしょう。

もっとも、多くの人はまだまだこれらを「ウソ」と思わずに、「真に実在するもの」としておそらくとらえてるので、やはり一つ目の条件である「ウソをウソであると見破られないこと」も社会的に大きな効力を持っていると思われます。


人類は真実とウソ暴きが好き

というわけで、みんなで「よいウソ」を信じてみんなハッピー、大団円!

……と行きたいところですが、ことはそう単純じゃないわけですね。

冒頭の「経験機械」の思考実験にも表れている通り、なんだかんだ言って人々は真実が大好きです。だからこそ、多くの人は「経験機械」のジレンマに悩むし、そしてしばしば(不幸になるかもしれなくても)真実の方を選ぶわけでしょう。結局のところ、みんな真実が好きでウソは嫌いなんです。

もっと言えば、「たとえウソだとしても自分にウソだとバレないようにしてくれたらいいよ」という態度も、一見ウソを許容してるようにみせて、要するに「自分の中では真実のままであってほしい」という態度ですから「真実であること」「真実だと思えること」を重視してると言えます。

また、人類には好奇心や哲学心という特筆すべき性格も伴っています。「ホントかどうか確かめてみよう」「ホントに矛盾がないか考えてみよう」とウソをわざわざ見破りにいく、真実を探しにいくところがあるわけです。

言ってみれば、何も疑わず、変に顔を突っ込まず、おとなしく素直に「ウソ」を信じていれば、ウソをウソと気づかぬままに平穏に暮らせたかもしれないのに、わざわざそれを確認しに行って「ウソだった」と気づいてショックを受ける。そんな面白いところが人類にはあるんですね。

先の不倫の例で言えば、「不倫してもいいけど私にバレないようにしてね」と言っておきながら、わざわざ探偵を雇って常に監視してるような、そんなある意味矛盾した言動を人類はしているわけです。

時に「心地良いウソに包まれてるならそれでいい」と割り切る素振りをしていながら、「真実は何か」を同時に熱心に探求している。人類はそんな面倒な生き物なんですね。ホモ・サピエンスは嘘を信じる能力と嘘を見破る能力とどちらも発達させた大変に面白い種と言えましょう。

これだけ人類が真実が好きでウソが嫌いだとすれば、社会の「ウソ」も「ウソ」だと見破られてしまったら、どうしても人々の気分にネガティブな影響が働くことは避けられません。

だから、「よいウソ」の一つ目の条件「ウソをウソであると見破られないこと」がダメだったとしても二つ目の条件「ウソが見破られても気分が損なわれないこと」がまだあるから大丈夫でしょ、とは簡単にはならないのです。
なぜなら、一つ目の条件を果たせなかったこと自体が、人の気分を損ねる大きな要因であるために、その気分の損失を補償するに余りあるほどの大きな「方便」的意義がその「ウソ」には求められるからです。

一つ目が破られた時点で、二つ目を守り切ることは普通は容易ではない。そういうギリギリの戦いなんです。


社会の「ウソ」はハイレベルでなくてはならない

だから、「よいウソ」はできれば一つ目の条件において達成されたいというところがあります。「ウソなんじゃないか」とそもそも疑われなければ「真実」として皆に受け入れられたままになりますから。

ところが、私たちの社会を回している「ウソ」は、ハラリ氏が堂々と指摘するようにすでに「ウソ」と見破られてしまっています。つまり、「嘘も方便なんだよ」という二つ目の条件において何とか保ってるかどうかという状況なんですね。この意味で、私たちの社会における数々の「ウソ」の「よいウソ」であるための重要な一角がすでに崩れているわけです。

言ってみれば、私たちの社会の「マトリックス」がすでに疑われ始めてるのです。

この状況を、社会の「ウソ」が「よいウソ」でなかったからではなく、わざわざ真理を探求したり常識を疑うような野暮なことをするからだと考える方もいるでしょう。つまり、「ウソ」の方の責任ではなく、「ウソを暴こうとする者」の方の責任であると。なんなら「ウソを暴こうとする者」のせいで、素直に「ウソ」を信じてた人々まで気分を害された、どうしてくれるんだと怒るまで行くかもしれません。

ただ、それは先述した、人がウソを見破ろうとする性格と能力を持っていることを見くびった甘えた考えだと江草は思うんです。人類を相手どる壮大なウソならば、そういう性格や能力を持つ者たちをも騙せるぐらいのハイレベルなウソでないと、それは「よいウソ」の要件を満たせてないでしょう。「ウソと疑うな」なんて下手すぎるマトリックスの都合がいい言い訳に過ぎない。江草はそのように考えます。


「陰謀論」という下手なウソ破りたち

とはいえ、ここで注意を促しておきたいのは巷の「陰謀論」についてです。

「真実に目覚めた」とか言いながら荒唐無稽な理屈しか言ってない「陰謀論者」も山ほどいるので、これに辟易して世の中が「ウソを暴こうとする者」を責めたくなる、何なら排除したくなる気持ちになるのも無理はないんですね。

確かに人類は「ウソ暴き」が好きではありますけども、その暴き方の道筋が「ウソ」であったら意味がありません。それは「ミイラ取りがミイラになった」の如く「ウソ破りたちがウソを吐いてる」だけなのですから。何でも疑えばいいってもんじゃないというのはそれまた真理ではあるのです。

下手なマトリックスウソも困りますが、下手なマトリックスウソ破りも、マトリックスウソ破り全般の信頼性を貶めるという意味で困った存在ではあるんですね。

だから、ウソを暴こうとする者は、すべからくその手法がウソであってはならない。

社会の「ウソ」がハイレベルでないといけないのと同時に、「ウソ」破りの側もハイレベルであることが求められていると言えましょう。


現在最も問題な社会の「ウソ」

さて、ともかくも、たとえ社会の「ウソ」が「ウソ」と見破られたとしても、その「ウソ」が必要なだけの十分な意義があればOKという「ウソも方便」要件でその立場を保てる可能性は残されています。

たとえば、国家とか会社とか家族とか、その辺はまあ、ある程度存在意義があるから許してやろうという雰囲気があります。(もっとも、これらも批判はありますが)

どの「ウソ」もそうやって十分に意義があるならば、もちろんそれで良かったんですが、江草的には現在最も問題な社会的「ウソ」があるとにらんでるんですね。

それが「労働」です。

正確に言えば、「労働は価値ある行為」とか「長く働くことはエラい」とか「働かざる者食うべからず」とか「報酬は仕事の価値で決まってる」とか、そういう神話ウソですね。これらの神話ウソがすでに「ウソも方便」のレベルを下回って、社会的に害をもたらしはじめてるんじゃないかと江草は考えているんです。つまり、「よいウソ」の二つ目の要件も満たせない「悪いウソ」の域に突入していると。

そういう意味では、映画『マトリックス』の主人公のネオでさえも、虚構世界であるマトリックス内でオフィスに出勤し遅刻を咎められ叱られるという生活を送っていたことがなかなかに皮肉です。マトリックスを作った機械たちは、わざわざ虚構の世界でまで(機械たちにメリットはないにも関わらず)人を働かせているわけです。それだけ人にとって「労働」が必要で重要な「ウソ」であると認識されてると言えましょう。(そして、おそらく映画の鑑賞者のほとんどが、この点に全く違和感を覚えなかったであろうことも、この社会的「ウソ」の強力さを示唆しています。)

とはいえ、あくまで本稿は「ウソ」全般についての論考なので、「労働」という「ウソ」の問題点についての話は追いません。それについては、江草のこれまでのnoteや、あるいは江草のnoter友人のホモ・ネーモ氏の『14歳からのアンチワーク哲学』を読んでいただければと思います。

具体的に何かを名指しで挙げておかないと、「結局社会のウソの何が悪いの」となりそうだったので、例として「労働」を出しておいたというわけです。


下手なマトリックスは上手く暴いて変えていこう

そろそろまとめましょう。

本稿で言いたかったことは、社会の「ウソ」を疑わないまま放置するのは、それこそ「悪いウソ」を放置することに繋がりかねないということです。賛否はあるかと思いますが、江草からはその具体例として「労働」を挙げてみました。「良いウソ」の要件を満たせない粗だらけの下手くそなマトリックス(社会の「ウソ」)は変えていかねばなりません。

また、一方で、その「ウソ」の暴き方も相応の水準が求められることも指摘しました。巷の「陰謀論」のような稚拙なやり方ではダメなわけです。それは「ウソ破り」自身が「ウソ」みたいなもので、本末転倒なんですね。

何なら「陰謀論」というのは、「誰かがウソをついてる」という想定の立て付けです。でも、ハラリ氏が述べてることからも分かるように、現行の主要な社会の「ウソ」は「誰かがついてるウソ」ではなくて「みんなで作ってるウソ」なんですね。このマトリックスの責任者は他でもない私たち全員なわけです。

マトリックスの責任者が私たち自身なのであれば、上手いマトリックスを築くためのマトリックス作りの能力と、うまくいってない下手なマトリックス破りの能力もどちらも高めるべきでしょう。

ハイレベルにウソをついて、ハイレベルにウソを見破る。

これぞ、ウソを信じる能力とウソを見破る能力とどちらも発達させた大変に面白い種「人類」だからこそできる、なかなかやりがいのある営みじゃないでしょうか。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。