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ローカルコミットメントとグローバルルール


会社などのローカルな集団において結束力を高めたり内部で高い評価を得るためには、そのローカル集団にどれぐらいコミットするかが重要になります。たとえば、会社の利益を上げるために邁進してる人、自分の負担増に構わず集団内の他のみんなを助ける人(他の人が嫌がるシフトに積極的に入るとか)、集団内の儀式やイベントに積極的に参加する人。そういう人たちが多ければ多いほど集団の結束力は高まるし、そういう人ほど評価されると。

集団が集団として、外の世界と一線を画した固有のまとまりを作るという状態には、何かしらこうした内部活動を伴う必要があります。生物が個体であるためには、皮膚や細胞膜に包まれた内部活動が外界とツーツーでなく、ある程度隔離されてることと同じです。あるいは、各国が国境で人や物の出入りを管理してるのも同様でしょう。

このように、内部活動をすることが集団にとってその存在意義からして不可欠かつ重要ゆえ、構成員(メンバー)にとってもその集団に対するローカルコミットメントが不可欠かつ重要となるのは自然な流れなわけです。

これだけならまあ別に「そうだよね」で済む話ですし、むしろ「絆があるよね」的な感じでいい話にも思えるかもしれません。もちろん、実際、良い面もあるのですが、ご存知の通り、困ったことに何事も良い面だけでなく悪い面も伴っているものです。


ローカル集団がローカルコミットメントを自然に求める体質であることは、まず「やりすぎ(フルコミット)」という問題を生じます。

分かりやすいのは残業ですね。会社で徹夜で残業してる人が「熱心にコミットしている素晴らしい人材」として評価されやすくなりがちなのは皆様ご承知の通りでしょう。サラリーマンのプライベート活動(余暇)はつまるところ会社というローカル集団の外部の活動に過ぎません。プライベート活動(集団外の活動)を控えて、会社の仕事(集団内の活動)に労力も時間も全て費やすこと(フルコミット)、すなわち「滅私奉公」がローカル集団の論理においては「望ましい態度」となってしまうわけです。

こうなるのが分かっているので、人類社会はこれに歯止めをかけようとします。つまり、労働基準法であったり働き方改革であったり、ローカルコミットメントが「やりすぎ」にならないように規制をかけるわけですね。あるいはそうした明文化された制度だけでなく「過労して健康を損なうべきではない」とか「プライベート時間も大事だからワークライフバランスを考えよう」などと明文化されない倫理やマナーとして社会から提示されることもあります。こうした対応は、総じてグローバルルール(マナー)によってローカル集団の論理を抑えようという試みと言えます。


しかし、これで一件落着とはいかないのが世の常です。

先ほど、「ローカル集団は外の世界と一線を画した固有のまとまりである」と表現しました。つまり、完全に外の世界のルール(グローバルルール)に従うことは、そのローカル集団が消滅するに等しい状況なわけです。恒温動物が体外温度が何度であっても、そこが空気中でも水中でも、体内の温度やpHを一定に保つが如く、ローカル集団にとっては、外部環境と関係のない、すなわちグローバルルールに左右されない内部環境を固持することが絶対命題として存在しています。グローバルルールの介入を嫌がるのがローカル集団の宿命的性格です。

ここで、ローカル集団の論理が過剰に強いとどうなるでしょう。「グローバルルールを破ること」がローカルコミットメントの象徴として集団内で褒め称えられることになります。だってローカル集団はグローバルルールが嫌いだから。
こうした「破戒行動」が先ほどの「やり過ぎ」とはまたちょっと違う形での厄介な反応なんですね。

たとえば、以前、回転寿司屋で備品を舐めたり遊んだりした動画をアップして大炎上した若者グループがいましたよね。あれ、内輪のノリで社会のルールをあえて破ることで「カッケー」ってなってたところがあるんだと思うんです。外のルールに従わず自集団の空気を尊重すること、つまりグローバルルールを破ること自体がローカルコミットメントとみなされているわけです。

相次ぐ大企業の不正発覚問題も同様の構造があるだろうと思います。法律上、規定上は許されない行為でも、会社の利益のためにルールをあえて破って泥を被る覚悟があること、それ自体が会社に対する自己犠牲的献身としてみなされてたところがあったんじゃないでしょうか。

ちょっと脱線しますが、こういうグローバルルール破戒型のローカルコミットメントのやり口として定番なのが、まず集団の新規参加者に小さくルールを破らせることらしいんですね。

最初は「車のいない横断歩道を赤信号で渡らせる」みたいなレベルの軽いルール破りからそそのかす。「この方が早いし、みんなやってることだから」みたいに。実際、ばれようもないしたいして危険がないからそれぐらいの違反はついやってしまう。特に新入りは「早く集団に馴染もう」「気に入られたい」と思うので、こういう瑣末な違反は断りにくい心理があります。

そうすると、次は「スピード違反」レベルの行為をさせる。それをやったらまた次、と違反の強度をエスカレートさせていって、最終的には「酒気帯び運転」レベルのことを当たり前のように日常にさせるようになってたりするというわけです。最終的にみんなで一緒にグローバルルール破りという「悪いことをしてる」という絆で集団内の結束が強固になる。

この手法が強力なのは、メンバーも自身がルールを破ったことを知っているので引くに引けなくなることですね。既に自分も手を汚してしまったからには、この集団とともに生きていくしかない。そう思わされてしまって、どんどん泥沼になるという仕掛けです。

この恐ろしい蟻地獄的な仕組みを踏まえると、相次ぐ企業不正が、いわゆる「赤信号みんなで渡れば怖くない」的にローカルコミットメントが暴走した結果とするのは、さほど違和感はないでしょう。


このように語ってしまうと、何だかローカルコミットメントが悪でグローバルルールが正義みたいに思われたかもしれません。ただ、それもまた一面的な見方なんですね。

たとえば、映画『シンドラーのリスト』で知られたオスカー・シンドラー。彼が、第二次大戦時、ナチドイツの敷く社会のルールに与さずに、自身の工場のユダヤ人労働者たちを匿おうとしたからこそ、多くの人命が救われたと言えます。
また、「東洋のシンドラー」と言われた杉原千畝も、彼が日本人らしく「空気」を読んでしまっていたならば、ユダヤ人にビザ発給を濫発することはなかったでしょう。
あるいは、映画『ガタカ』のクライマックスで、あの検査官が見せた対応。あれが何故鑑賞者に大変な感動を呼ぶかと言えば、本来は守らねばならないはずのルールにあえてノーを突きつけたからに他なりません。

つまり、人は時に目の前の人々を助けるために「こんなルールなんて知ったことか」とグローバルルールを意識的に破ることがあるし、また、破らないといけないこともあるのです。

これらの例からも分かるように、グローバルルールは圧政として働く場合もあるわけです。ポリティカルコレクトネスであったり、権威主義国家であったり、がんじがらめで複雑怪奇な官僚主義的な法律・制度であったり。自分たちが生身の人間として過ごしてるコミュニティの外からあれやこれやと無機質に口出しをしてくる何者かとしてグローバルルールがやって来る。こういう時、自集団あるいは自分個人を守るために、グローバルルールを拒否する行動が必要な場面があるんですね。

生物も外部環境から内部環境を隔離する構造であるという話を述べました。自然のことわりをそっくりそのまま体内で導入することは、それはすなわち生物にとって死であるわけです。だから、グローバルルールが本当にその名の通りの意味であまねく場所に行き渡ったならば、それは死の世界に他ならないのです。

なんなら、我らが地球でさえ大宇宙からすると特殊なローカル環境でしかないことを忘れてはなりません。地球のように生物が育まれるにふさわしい環境など宇宙ではごくごく僅かであり、99.999999…%の部分は何もない無の空間です。だから、宇宙がその無情なグローバルルールで完全に均一に統一されたならば、それはただの熱的死の状態であるのです。

したがって、グローバルルールがどこにでも浸透するのが必ずしも良いというわけではないことは明らかでしょう。私たちはグローバルルールに侵略されてないローカルな場を必要としてるし、欲しています。それがなくては生きていると言えないからです。

しかし、もちろん、先述の過労慣習、回転寿司迷惑行為や企業不正のように、ローカルコミットメントが暴走して、フルコミット主義に至ったり、ルール無視の傍若無人の振る舞いを見せたりすることもあるわけで、結局のところ本稿は「何事もバランスが重要」という何とも陳腐な結論に至ることになります。これこそ、言うは易し行うは難しではあるのですが。

ともかくも、私たちの社会でのグローバルルールは何で、それがローカル集団たちの息の根を止める圧政と化してしまっていないか。そして、自分の集団のローカルコミットメント仕草はどういうものがあって、それは最低限守るべきグローバルルールにとって許容できないほど暴走してしまっていないか。そういったことに関心を持ってみる。ここから始めるべきなのでしょう。



こっから余談です。(どこかに入れようと思って入れる場所が思いつかなかった話)

ところで、グローバルルール(と一般的に認識されやすいもの)の中でローカルの論理を許容してるかのようなタイプのものがあります。「自由主義」と呼ばれるものです。自由を愛するがゆえにルールをあれやこれや制定するのを嫌うイデオロギーですから、各集団、各個人に対するグローバルルールでの束縛が自然に和らぐことになります。

これなら、グローバルルールとローカル集団の対立が解消されるかと期待してしまいますが、残念ながらそう簡単には問屋が卸しません。

というのも、社会においてグローバルルールを制定しないとしても、その場合はグローバルルールを代わりに「自然」が担うことになるからです。

自由至上主義(リバタリアン)な方々は口癖のように「弱肉強食」とか「適者生存」とか「生き延びるためには努力や能力や進化が必要」みたいなことを言いますでしょ。これは要するに社会でルールを制定しない代わりに、過酷な自然界の掟(と彼らが思ってるもの)をグローバルルールとして援用してるわけです。(逆に自然状態では皆助けあうとする立場もあります)

つまり、社会の外に自然界という厳然たるグローバルルールがそびえたっているがために、社会の中のルールを消滅させただけでは、結局はグローバルルールの支配から逃れられることはないんですね。というより、相手が自然界なのでグローバルルールを完全に消し去ることはどうやっても不可能であると言えます。私たちが重力に文句を言っても重力がなくなってはくれませんから。

なお、この辺の話からもわかるように、本稿で言う「ローカル」と「グローバル」は複雑な入れ子構造をとっています。
人間社会というローカルの外部に自然界というグローバルが居る、企業というローカルの外部に社会というグローバルが居る、といった風に。
だから、先ほどはシンドラーたち視点の便宜上ナチドイツの政策をグローバルルール扱いにしてましたが、ナチドイツの政策だって、世界のヒューマニズムの倫理というグローバルルールからすると暴走したローカルコミットメントに過ぎなかったと言えるでしょう。(ヒューマニズムが真に妥当なグローバルルールと言えるかは人によって異論があるかもしれませんが)

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