「単純作業」に負のイメージを抱いてる社会認識がおかしい件
先日、「単調な繰り返しの作業」についての話題を目にしまして。
編み物みたいな手作業は精神を落ち着かせるのに良いと。
いや、実際そうだと思うんですよね。江草は不器用なので編み物を含め手作業は苦手なタイプなのですが、洗い物してる時とかの家事作業中は確かに落ち着くなと。掃除もやり始めるとけっこう楽しくて黙々とやっちゃう。
特に例に挙がっていた編み物なんかは、ゆっくりとはいえ徐々に形ができあがってくるわけですから、進展が見えることで、達成感もかなりあるだろうと思います。
しかし、この話題で常々思うのは、世の中での「単調な繰り返しの作業」についてる負のイメージの根深さですね。
こうしてわざわざ「単調な繰り返しの手作業って落ち着くよね」と改めて強調する内容が話題になるということは、逆に言えば一般的には「単調な繰り返しの手作業って苦痛でしょう」と広く思われてるということの裏返しです。意外だからこそ話題になる。つまり、「単純作業」という概念に、世の中では強い負のイメージがついてるわけです。
これで思い出すのが、江草が以前書いた「3人のレンガ職人」の寓話についての記事。
ここでは寓話の詳細な内容の紹介は省きますが(気になる方は上の記事をご参照ください)、この「3人のレンガ職人」の寓話は「レンガ積みのような単調な繰り返しの手作業なんて苦痛に違いない」という暗黙の前提が見え隠れするものです。
この点に関して江草は上の記事でみっちりイチャモンを付けさせていただいたわけですが、冒頭で挙げたXまとめもまさにそういう「単純作業は苦痛のはず」というバイアスを解除する話題です。
どうも世間的には、編み物なりレンガ積みなりの単純作業はまるっと「つまらないもの」「苦痛なもの」という扱いを受けがちなんですね。本来そうではないのに(もちろん個別には相性の向き不向きはあるでしょうけれど)。
で、先ほどから強調しているようにそもそも単純作業自体は別に苦痛なものではなく、むしろ精神が落ち着く効果さえありうるものです。しかし、まさに「3人のレンガ職人」の寓話がそうなんですけれど、それが「苦痛で退屈でつまらない仕事」の代表格として扱われてしまう。そして、その上で「ほらこんな(到底楽しそうに見えない酷い)仕事でさえもやりがいや意義はあるんだよ」と仕事一般の大切さを語る論拠として利用されるというおかしなこと(そして大変失礼なこと)が起きてるんですよね。
いや、もっとそもそも論を言うと、編み物とかの手仕事って別に単純作業でもない気もするんですよね。冒頭のまとめで言われてるような「単調な繰り返し作業」という表現でさえおそらく正確ではない。
まず、自ら進めてる編み物って裁量権があります。自分でどういうデザインにしようとしてるか決めれるし、その時その時にどれぐらい進めるかも自分の自由です。なんなら編んでる途中に気が変わったら方針を変更してもいい。作るのを止めたっていい。
そして、編み物のような素材感や色味が豊かな物品と手で取っ組み合う仕事って、素材のちょっとした変化や手作りゆえのブレがあって、同じ物がふたつとしてできるわけではありません。
いつでも自分の意思で変化をつけることができ、結果として唯一無二の物が毎度できあがるならば、それは別に単調でも繰り返しでもないのではないでしょうか。
もし、より単調で繰り返しが強い作業を挙げるならば、いわゆる大量生産品みたいな対象に対してベルトコンベア的に何かをする作業でしょうか。これだと、確かにどの製品も似たり寄ったりですし、独断での変更や中断が許されず裁量権がありません。
ただ、これですら、落ち着くと言う人もいます。
ブレイディみかこ『ザ・シット・ジョブ』という私小説的な作品では、クリーニング工場でベルトコンベア的に作業をやっていた時に不思議と精神の平穏がもたらされたことを語るシーンがあります。
自分の主体性が全くなく、何も考えなくていい、真に単調で繰り返しの作業だと、自意識が消失して落ち着くという感じでしょうか。仏教の自我を捨てる営みのようなものと思えば、意外と荒唐無稽な話でもないかもしれません。
こう考えると、いわゆる「単調で繰り返しの作業」というのは、必ずしもただそれだけでつまらなくて退屈で苦痛な仕事とはならないと言えます。
このように、この社会で広く認識されている「単純作業」に対する負のイメージは、そもそも対象として単純作業と言えない仕事が混ざっていたり、単純作業の効用を過小評価してる点で、やっぱりどうもおかしそうなんですね。
では、本当に苦痛と言える仕事はどんなものがありうるか。せっかくなので考えてみましょう。
上の話を踏まえると、「自分の裁量権があって実際には常に変化や成果物も生じるような手芸」でもなく、また、「全く裁量権はないけれど何も考えずに自我を消滅させることができる真の単純作業」でもない仕事というのがあるならば、それこそが最大級にヤバそうです。
つまり、自分の裁量権がなく、全く変化や達成感がなく、それでいて逐一考えさせられる仕事です。
古典的には自分で穴を掘らされて掘り終えたらただそれを埋めさせられる仕事なんかが虚無な仕事として代表です(元ネタは確かドストエフスキーの小説でしたっけ?)。掘ったのをただ埋めるのでその仕事の成果は無ですし、ベルトコンベア的に勝手に流れ作業で進むわけでなく、毎度自分の意思をもって自発的にスコップを地面に突きささないといけないので、「自分は何をしてるんだ」と苦悩することになるわけです。そして、当然怠けてたら鞭を打たれるし脱走も許されません。きついですね。
けれど、現代特有の仕事では、書類仕事なんかもけっこうヤバいと思うんですよね。書類を作れと強制されるから仕方なく作る。全然自分的には意味があるような気がしないけど断る権限がないから、作る。して、苦労して作ってみたものの、特に読まれる気配もなくどこかにしまい込まれるか、それならまだ良い方であっさりシュレッダー行きになったり。裁量権もないし達成感もないけれど、一応は頭を使って作成しないといけないので「何も考えない」というわけにもいかない。こういう仕事は上のヤバい仕事の要件を満たしていると言えましょう。
会議もありそうですね。会議をしなきゃいけないとなぜか決まってるから参加する。参加してみたものの特に建設的な意見は出ないまま時間が過ぎて終了。かといって、会議なので全く準備をしないわけにも話を聞いてないわけにもいかないから頭は使う。「今の会議意味あったん?」という徒労感だけが残る。ままありそうな話ですよね。
もちろん、全ての書類仕事や会議が無意味で非建設的でやりがいがないと言ってるわけではありません。ただ、これに準じた話は多かれ少なかれ各自自身が経験していたり、他人の愚痴を聞いたことがあるはずです。
なら、世の中において、単調で繰り返しの「単純作業」ばかりがなぜか負のイメージを背負わされてるのはおかしいんじゃないでしょうか。負のイメージがある仕事の例としては、上のような意義が感じられない書類や会議みたいな「非単純作業」的な仕事の方が、よほど皆にとって経験的親しみがあるし実態にも合ってる気がするんですよね。
なのに「仕事とは素晴らしい営みなんだよ」と訴えるための寓話では、往々にしてレンガ積みのような「単純作業」が例としてピックアップされます。もっとヤバい仕事の存在をスルーして、むしろマシな仕事(下手をすると良い仕事)と言える「単純作業」を例に出すのはズルでしょう。
たとえるなら、ステージ1のガンばかり治療していてガンの治療成績を誇るようなものです。「ガンなんて簡単に治せるよ」と。そんなのハナから有利な対象なのだから、良い感じの結論が導けるに決まってます。ステージ3とか4みたいなより苦戦するはずのケースをこっそり排除して選り好みしてたらフェアではないのです。
さて、そんなわけで、何となく広く漂ってる「単純作業」=「苦痛でつまらない仕事」という社会認識は実態に合っておらず必ずしも妥当ではないように思われます。むしろ、もっとヤバい仕事は「単純作業」以外にこそ存在しているのではないでしょうか。
妥当な認識でないにもかかわらず、これは仕事を賛美する言説の暗黙の前提として用いられてたりして、議論をおかしくしがちであるので、そろそろ見直されるべきじゃないかなあと思いました。
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