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「3人のレンガ職人」の寓話にイチャモンをつける

ビジネス系の言説で有名な寓話のひとつに「3人のレンガ職人」があります。

さまざまなところで登場する話で、細かい点では少しずつ異なるバージョンが存在していそうですが、今日のところはとりあえず検索して当たった一例を引用してみます。(長い引用となりますが、このサイト自体ももともと他の出典から引用されていますし、既に世の中に広く知られた寓話ですから、著作権的な問題は許容されると信じて載せてみます)

世界中をまわっている旅人が、ある町外れの一本道を歩いていると、一人の男が道の脇で難しい顔をしてレンガを積んでいた。旅人はその男のそばに立ち止まって、

「ここでいったい何をしているのですか?」

と尋ねた。

「何って、見ればわかるだろう。レンガ積みに決まっているだろ。朝から晩まで、俺はここでレンガを積まなきゃいけないのさ。あんた達にはわからないだろうけど、暑い日も寒い日も、風の強い日も、日がな一日レンガ積みさ。腰は痛くなるし、手はこのとおり」

男は自らのひび割れた汚れた両手を差し出して見せた。

「なんで、こんなことばかりしなければならないのか、まったくついてないね。もっと気楽にやっている奴らがいっぱいいるというのに・・・」

旅人は、その男に慰めの言葉を残して、歩き続けた。

もう少し歩くと、一生懸命レンガを積んでいる別の男に出会った。先ほどの男のように、辛そうには見えなかった。旅人は尋ねた。

「ここでいったい何をしているのですか?」

「俺はね、ここで大きな壁を作っているんだよ。これが俺の仕事でね。」

「大変ですね」

旅人はいたわりの言葉をかけた。

「なんてことはないよ。この仕事のおかげで俺は家族を養っていけるんだ。ここでは、家族を養っていく仕事を見つけるのが大変なんだ。俺なんて、ここでこうやって仕事があるから家族全員が食べいくことに困らない。大変だなんていっていたら、バチがあたるよ」

旅人は、男に励ましの言葉を残して、歩き続けた。

また、もう少し歩くと、別の男が活き活きと楽しそうにレンガを積んでいるのに出くわした。

「ここでいったい何をしているのですか?」

旅人は興味深く尋ねた。

「ああ、俺達のことかい?俺たちは、歴史に残る偉大な大聖堂を造っているんだ!」

「大変ですね」

旅人はいたわりの言葉をかけた。

「とんでもない。ここで多くの人が祝福を受け、悲しみを払うんだぜ!素晴らしいだろう!」

旅人は、その男にお礼の言葉を残して、また元気いっぱいに歩き続けた。

イソップ寓話「3人のレンガ職人」に学ぶ、モチベーション高く働く従業員を育てるヒント
孫引用元

なかなか示唆深い寓話ですよね。(なお、イソップが原典ではないという説も言われてます)

さて、引用元のまとめをさらに拝借しますと、この話は以下のような構図にまとめられます。

1番目のレンガ職人:「レンガ積みに決まっているだろ」→特に目的なし
2番目のレンガ職人:「この仕事のおかげで俺は家族を養っていける」→生活費を稼ぐのが目的
3番目のレンガ職人:「歴史に残る偉大な大聖堂を造っている」→後世に残る事業に加わり、世の中に貢献することが目的

イソップ寓話「3人のレンガ職人」に学ぶ、モチベーション高く働く従業員を育てるヒント


この寓話をもって、どのような教訓が語られると言いますと、

「同じ仕事だとしていてもその意義や目的を知っていることでモチベーションは変わる。だから、自身でも仕事の目的意識を持つ、あるいは部下や社員に目的意識を持たせることが重要だ」

というのが一般的です。実際、引用元や孫引用もそういう教訓を示すための題材としてこの寓話を用いています。

なるほど、確かに一理ある話かと思います。自分が大聖堂を作っているのにそのことを知らずに、あるいは意識せずに「ただレンガを積んでるだけだ」と思っていたら、モチベーションがあがらない人がほとんどでしょう。

なので、「目的意識が大事だよね」という文脈でこの寓話が人気なのはうなずけます。

ただ、あまのじゃくの江草としては、ちょっとツッコミも入れたくなっちゃうんですよね。いや、正確に言うと寓話そのものは必ずしも悪くはないんですが、この寓話をもってして「目的意識が大事だよね」という結論で「めでたしめでたし」としてしまう風潮は、ちょっとあまりに単純すぎないかとイチャモンをつけたくなってしまうのです。

というわけで、今日はこの寓話(あるいはこの寓話から一般的に語られる教訓)について批判的吟味をしちゃいますよ。(注:長いよ!


本当に大聖堂を作っているのか?

まず、ひとつ大きな疑問点は「で、本当に大聖堂を作ってるの?」です。

さきほども申し上げた通り、この寓話に一理はあるのです。「大聖堂」という素晴らしい仕事の一端を担っているにもかかわらず、それを知らないとか、気付いてないというのは確かにもったいないし、やる気がなくなるのも自然なことだからです。

ただ、だからといっていきなり「この寓話から分かるように、これは素晴らしい仕事なんだというヴィジョンを部下に示せばモチベーションがあがるはずだ」という結論に飛びつくのは考えものです。

なぜなら、あくまでこの話に一理あるのは、それが本当に「大聖堂」を作っていることが前提だからです。

たとえば、

「実際に素晴らしい仕事なのにそれを部下が知らないのはモチベーション低下につながるもったいないことだ。だからそれがいかに素晴らしいことかを伝えよう」

とか

「実際に素晴らしい仕事を担っているのに、それを自分が気付いてないだけかもしれない。それはもったいないことだから、自分の仕事の意義をもっとよく考えてみよう」

なら分かります。

ところが、この寓話が一般化される時、往々にしてこうなってる気がするんです。

「自分の仕事を素晴らしいことだと思わせれば部下のモチベーションはあがる」

とか

「自分の仕事を素晴らしいと思えればやる気がわいてくる」
と。

こうなると全然似て非なるものです。なぜなら、後者はこっそり「実際の仕事の内容」については不問にされているからです。つまり「実際に大聖堂を作っているかどうか」という非常に大事な前提をスルーしてしまっているのです。

このことが問題なのは、これがひいては

「(たとえどんな仕事であっても)自分の仕事を素晴らしいと思うべき(思わせるべき)」

という思想に容易に横すべりするからです。


たとえば、これは書籍『21世紀の道徳』の一節です。(「ブルシットな仕事」とは『ブルシット・ジョブ』で有名となった「意義が感じられないクソどうでもいい仕事」を意味してます)

世の中にはブルシットでない仕事も多数あるし、ブルシットな仕事すらからも、なにかしらの意味や満足感を得られる可能性は残っているのだ。

ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』

あくまでこの書籍は「レンガ職人の寓話」には触れていないものではありますが、文脈的にはこの寓話と同じくまさに「やりがいは労働者の心的内面の問題」を主題としてたどりついてる主張であるので、この寓話から到達しうる結論の例としてもふさわしいと思い引用させていだきました。

ここで注目すべきは、もはや仕事が「大聖堂を作っている仕事」の類いではなく「ブルシットな仕事」であってもOKとなっていることです。つまり、実際に「素晴らしい仕事」をしてるかどうかはどうでもよくなってるんですね。もしくは、完全に無視しないにせよ、少なくとも仕事内容の良し悪しにはさほど力点を置かなくなっています。

仕事の実際の内容よりも「労働者個人がどう感じてるか」が重要。だから「まずは労働者個人の感覚を変えるべきだ」となるわけです。


で、実際、この「レンガ職人の寓話」が引きあいに出される時、ほとんど「実際の具体的な仕事内容の良し悪し」については触れられません。ただ「仕事の意義を感じられた方がいいよね」という形の教訓に簡略化されてしまうのです。

しかし、寓話はあくまで「ほんとに大聖堂を作っている」という前提があるからこそ説得力がある話です。だって、別に大聖堂を作ってるわけでもないのに大聖堂を作ってると思わせよう、あるいは思い込もうというのは、なかなかに背筋が凍るような恐ろしい話ではないでしょうか。

いや、よく見ると確かに寓話では「本当に大聖堂を作っているかどうか」に触れていないので、「大聖堂を作ってる」と第三の男に勘違いさせることに成功したという話として解釈することも可能と言えば可能です。

ただ、この寓話を、大聖堂を作ってるわけでもないのに「大聖堂を作っている」と信じ込ませて労働者のモチベーションが上がったという話であると解釈した上でみなが美談として語っているような世の中であるとは、江草は信じたくはありません。それって、極論すれば、本当は強制収容所を作っているのに「大聖堂を作っている」と思わせて仕事のモチベーションを上げることであっても美談となってしまいかねませんから。

なんだかんだ江草は人を信じているので、みんな別にそういう悪意ある解釈をしているのではなくって、ただ単純にうっかり「ほんとに大聖堂を作っている」という、この寓話を美談とする上で必須の大前提を失念して語ってしまっているだけだと思っています。

でも、何事もそうですが、こうした重要な暗黙の前提を省略してしまうと、あっさり誤解されやすくなるものです。もとより「仕事の内容に文句言うのではなく自分の心持ちの方を改善せよ」という向きが強い世の中です。「ほんとうに大聖堂を作っている」という前提を不用意に落とすと、簡単にその風潮の助長につながってしまう危険があります。

レンガ積みは仕事の意義の実感が湧きやすい方では

そして、この寓話に関してもうひとつツッコミたいポイントは、「っていうか、レンガ積みってまだ仕事の意義の実感が湧きやすい方じゃない?」というものです。

改めて、この寓話の一般的な解釈を考えてみますと、「一見つまらないように見える仕事でもその仕事の意義を知れば意欲が高まるよ」というところでしょう。だから、提示されてる事例が「つまらなそうな仕事」「意義が感じられなさそうな仕事」であればあるほど説得力が増すと言えます。

そして、この寓話でそうした「つまらなそうな仕事」の代表として挙げられてるのがまさに「レンガ積み」となります。でも「レンガ積み」ってそんなに「つまらなそうな仕事」でしょうか。

いや、もちろん人それぞれ色んな意見があるとは思うのです。「楽しそう」と思う方もいれば「つまらなそう」と思う方もいるでしょう。でもまあ、ともかくもこの寓話が広く受け入れられていることを考えると、世間的には「つまらなそうな仕事」に当てはまってしまうということではあるのでしょう(現実のレンガ職人の皆様には申し訳ないことですが)。

ただ、たとえ「レンガ積み」が世間的に見て「つまらなそうな仕事」の部類に含まれるとしても、世の中にはもっと「つまらなそうな仕事」がわんさかあるので、正直言ってそれらと比べると随分とマシなように思えるのです。


たとえば、ただ紙を延々シュレッダーさせるような仕事。某引っ越し社の追い出し部屋的な仕事として有名でもあります。


あるいは、読まれもしない資料を作成する仕事とか。放射線科医が作成した生命に関わることがある読影レポートでさえも読まれないことが社会問題になってるぐらいですから、世の中では数多くの読まれもしない書類の作成業務が潜んでいるかと思います。


もしくは、身分を騙るなど手段を問わず、病院勤務の医師に不動産投資を持ちかける営業電話を執拗にかけ続ける仕事とか。


もっと別の例を知りたい方には、書籍『ブルシット・ジョブ』に、「誰にも必要とされておらず事実上機能してないのに会社上役の建前上の都合のためだけに導入されたITシステムを管理する仕事」など、山ほどの「つまらなそうな仕事」が提示されています。


こうした「つまらなそうな仕事(ブルシット・ジョブ)」を紹介すると、「これらの仕事にも実は意義があるのだ」という論争が起きやすいのですが、今回の関心事はそこではないので立ち入りません。今、行いたいのは、これらの仕事と「レンガ積み」の比較です。

紙をシュレッダーし続けるとか、誰にも読まれない資料を作成するとか、ノルマのために詐欺まがいの営業電話をかけ続けるとか、不要なシステムを管理する役職として放置されるとか、そういう並み居る「つまらなそうな仕事」に比べると「レンガ積み」は正直マシではないでしょうか。

なにせ、レンガには現実世界での重みや触感がありますし、なにより建築物が目の前で着実に築き上げられてはいきます。分かりやすく「クリエイション」しているわけですから、むしろやりがいや仕事の実感は湧きやすい方でしょう。それに比べると、他の「ブルシット・ジョブ」の面々の方が「自分たちが現実世界に何を貢献しているか」よほど見えにくいと思います。

実際、『ブルシット・ジョブ』で紹介される「つまらなそうな仕事」は知識労働や事務仕事とされるホワイトカラージョブがほとんどで、「レンガ積み」のようなブルーカラージョブよりも、よほどホワイトカラージョブの方が「つまらなそうな仕事問題」は深刻と言えます。

ここで、「過酷そう」と「つまらなそう」は別であることにご注意ください。確かにブルーカラーの「レンガ積み」の方が肉体を酷使する分「過酷そう」で、ホワイトカラーの「ブルシット・ジョブ」の方がむしろ暇でしょうがなかったりしうる分「楽そう」ではあるのですが、それと「仕事の意義」を感じられるかどうかは別の話です。「過酷そうかどうか」はさておき「仕事の意義が感じられそうか」については「レンガ積み」はマシと言えるわけです。

ですから、この寓話において提示されてる事例が「レンガ積み」であることは、もっと「仕事の意義」で悩んでいる職種がホワイトカラーを中心に山ほどありそうにある点で、説得力を減じてしまっています。先にも述べたように、事例が「つまらなそうな仕事」であればあるほど寓話から得られる教訓の強い根拠になるわけですから「レンガ積み」という仕事の選択がいくぶん中途半端なレベルに留まっている印象があるのです。なぜ紙をシュレッダーし続ける仕事を題材にしなかったのでしょう。

少なくとも、この「レンガ積み」の寓話をもとに、なおさらもっと仕事の意義が感じられにくいはずの「ブルシット・ジョブ」な人に対して「自ら仕事の意義を感じられるかどうかが大事なんだぞ」と発破をかけるのは、全くもってナンセンスというべきでしょう。軽症の人が病院に行かず自力で治った事例をもとに「お前もやればできるはずだ」と重症の人に説教するようなものです。ほぼ犯罪レベルの所業と言えます。

そして、現にブルーカラージョブよりも、ホワイトカラージョブの方が優勢となっているのが現代の知識社会ですから、間違ってもより重症の人に対して投げつけてしまわないように、この寓話の援用にはぜひとも慎重になるべきところと思われます。

そもそも「大聖堂」は信仰の象徴なので

と、ここまで、寓話にツッコミを入れながら、寓話では省略されている「仕事内容の実際」や「仕事の意義の感じやすさ」の点に注意を払うように促してきました。

しかし、こうしてみるとまさに象徴的で示唆深いなと思うのが、寓話で「意義がある対象」として例示されてる存在が「大聖堂」であることです。

本稿でも便宜上、寓話で出てくる「大聖堂」を「素晴らしいもの」の例としてここまでは扱ってきましたが、よくよく考えるとこの点もツッコミどころなのですよね。

だって、「大聖堂」って要するに宗教施設です。そして、それを本気で素晴らしいと思えるのはその宗教に帰依した信仰に篤い者でしかないでしょう。つまり、あくまで信仰を基盤として初めて意義が実感できる施設なんですよね。

もちろん、無宗教なのが一般的な日本人の私たちが普段している通り、たとえ宗教に帰依していなくても、「大聖堂」に対し、他者の信仰対象として敬意を払ったり、美術的文化的な側面から価値を見出すことはあるでしょう。

ただ、それでもなお、やはり宗教施設である以上、その本質的な意義を実感するには一定の信仰心が必要であることも多くの方は同意されるのではないでしょうか。

それに、寓話としては別種の「意義がありそうな施設」を示すことは容易であったはずです。人々の病気や怪我を治す「病院」でもいいし、土地を潤す灌漑用の「水路」であってもよかった。にもかかわらず、あえて「大聖堂」が登場してくるところに、この寓話から得られる別の教訓の存在を江草は感じてしまうのです。(もっとも、実際にはこの寓話の「大聖堂」ではない別バージョンも存在するのかもしれませんが、そこまではあまり渉猟できていません)

「大聖堂」というのは信仰心が篤い者にしか真の意義を感じられないこととともに、それ自体では実用上の意義がない施設という特徴も伴ってます。すなわち、あえてキツイ言い方をすれば「信じる者だけが救われる施設」と言えます。

このことは、言ってしまえば、その現実的な意義はどうあれ「それに意義がある」と信じられるかどうかが全てという見方にも繋がります。第一、第二の男たちがレンガ積みに意義が見出せないのは、つまるところ「大聖堂」やそれを建立する「宗教」への信仰心が足りないから、あるいはまだ教化されてないからだというわけです。

お気づきの通り、この構図は、「実際の仕事内容」について触れないままこの寓話から引き出される「ビジョンを示して部下にモチベーションを与えるべきだ」あるいは「自分の仕事に意義を感じるべきだ」という教訓のそれと瓜二つです。

つまり、部下のモチベーションが上がってないのは自社のビジョンの「布教」や「説教」がまだまだ足りてないからだ、自分のモチベーションが上がってないのは自分の「信仰心」や「修業」がまだまだ足りないからだ、というわけです。「大聖堂」というこの寓話の題材が、ビジネス界の宗教的な側面をちょうど浮き彫りにしているのです。


こうしたビジネス界の宗教的な側面はなにも江草だけが勝手に指摘しているものではありません。哲学者のスヴェンセンも書籍『働くことの哲学』の中で、企業が社員のやる気を鼓舞するトレンドがエスカレートして、もはや宗教化してきている様子を指摘しています。

ここでの信念とは、それに参加している者たちの「共同魂」としての企業スピリットへの全面的な信仰のようなものだ。管理や人的資源、企業文化やブランド化といった領域は、すべて一緒になってひとつの聖なる合一をもたらすものとみなされる。消費者はたいがい「信者」で、従業員は「伝道師」、CEOが「霊的指導者」だ。

ラース・スヴェンセン『働くことの哲学』


仕事にやりがいを持って取り組んでいる労働者の割合は4割程度しかいないとも言われる中で(仕事に前向きな従業員は13%しかいないという調査もあります)、「宗教か」と言われてしまうぐらい、いかにして自社のビジョンに心酔してもらうかに経営者たちは狂騒的に腐心しているのです。

逆に言えば、この状況は、それぐらい企業が行っている事業の意義が労働者にとって(あるいは消費者にも)わかりにくくなっていることを示しています。「病院」や「水路」などのように実用性がわかりやすい事業ではなく、まさに「大聖堂」のように、現実的な意義が本当にあるかについては深追いしないで、あるいはできないので、ともかくも信仰心が試される事業ばかりになっているのだと。(ただし「病院」についても昨今その現実的な意義を疑う議論が盛んになってることは一応注記しておきます)

こうしたビジネスにおける宗教的な側面の存在を気づかせてくれること。これこそがこの寓話の隠された教訓であるように思われるのです。言わば裏面的な教訓です。

誤解していただきたくないのですが、別に江草は宗教的なことを悪いとか価値がないと言っているわけではありません。江草自身、別に門徒というわけではないのですが、ちょくちょく真宗のお寺に拝みに参っています。ひそかに親鸞推しなのです。『歎異抄』も座右の書ですし、宗教的なものに価値を感じる気持ちは全然あります。

ただ、実際にはほぼ「宗教的な活動」であるのに、「現実的な意義が既に立証されてる」かのような顔をして「布教」をしているのには、どうしても引っかかりを感じて、ついついツッコミたくなってしまうんです。それまさに現実的意義の問題をスルーした「大聖堂」ですよね、と。

もっとも、経営者というのは当然自社のビジョンを信じている存在なわけですから、その自らが掲げるビジョンを語ることがある種の宗教的な装いを帯びることは当然といえば当然です。その「布教」の方法もよほど法的、道徳的に問題がなければ自由であり、(ついツッコミたくなるポイントであるとはいえ)特段そのこと自体がたちまちアウトというわけではありません。

3人目の男は特別讃えられるにふさわしい人物か?

しかし、そうなると、気になるのが寓話の2人目の男の存在です。「家族を養う生活費のために仕事をしている」と語った男です。構造的には「大聖堂を作っているんだ」と語った3人目の男よりも劣位な存在として描かれてます。

この寓話の世界観が具体的にどうなっているかは分からないですが、おそらくこの2人目の男の家庭には食料や日用品や、あるいは家屋などが不足しているのでしょう。

さて、これは絶対的な不足なのでしょうか、分配手続き的な不足なのでしょうか。

絶対的な不足というのは、この寓話の世界において食料や日用品や家屋の供給が絶対的に不足しており、それで彼らが困っているという状況です。しかし、そうなると人々は「大聖堂」を作ってる場合ではないんじゃないでしょうか。そこに生活物資不足で困っている者がいるのなら「大聖堂」ではなくって、田畑を耕したり家を建てたりするのが先でしょう。

となると、分配手続き的な不足でしょうか。つまり、この寓話の世界には十分に食料や日用品や家屋が存在しているけれども、「働いた者にしか与えないよ」という条件付きの供給となっているという状況です。だから2人目の男は「生活のために仕方なく働いている」というわけです。これはまあ、現代社会の状況にも近い感じがありますし、フリーライダーを嫌う人間心理からしても、この状況は理解できなくもありません。

ところが、この「生活費のための第2の男」よりも「大聖堂を作ってることを誇る第3の男」が讃えられてるとしたら話が違ってきます。そんなにも「生活費のために働くこと」が嘆かわしいことで、「実用上は意味はないけれど信仰的には価値がある大聖堂を作ること」が素晴らしいのだとしたら、じゃあ最初から生活費を十分に与えてあげたらいいのではないでしょうか。

ここでは分配手続き的な不足を前提としていますから、その社会には彼に配るために十分な生活物資があるのです。それをさっさと配ってあげて彼を生活不安のない満ち足りた状態にしてあげれば、それでこそ大聖堂を作るといういわば「贅沢な仕事」に彼も信仰心が湧くというものではないでしょうか。

わざわざ「働いた者にしか生活費を渡さないぞ」という設定で彼を追い込んでおきながら「生活費のためでなく崇高なビジョンのために働くのが善人だ」とするのはなかなかに嫌がらせのような所業のように思います。

それに、「大聖堂を作っていることを誇る第3の男」の経済状況は記載されていませんから、うがった見方をすれば、彼はただ十分に裕福で生活費に心配がない立場なだけかもしれません。そんな裕福な彼が宗教的熱意に満ちあふれ、大聖堂を作るというボランティアに乗り出した。それって、そんなに讃えられるべきことでしょうか。だって、その傍らに生活費のためにヒーヒー言いながら働いている者(第2の男)がいるんですから。なぜ、第3の男はまず彼らをこそ助けないのでしょう?

もっとも、別に第3の男が悪人と言っているわけではありません。経済状況について記載もないですから、実は裕福なんじゃないのかというのも、ただの憶測ですし。宗教的熱意に満ちあふれていることも別に責められるべきことではありません。

ただ、生活に困窮している第2の男が存在しているという設定であるがゆえに、それが絶対的不足であるにせよ、分配手続的不足であるにせよ、その第2の男の困窮をスルーしているという点で、第3の男は別に際立って讃えられるほど素晴らしい人物であるとも言えないように思うのです。とはいえ第2の男よりも劣位に置く理由もないので、普通に第2の男と同等程度の讃えられで十分じゃないでしょうか。(さらに言うと第1の男だって別に下位に扱われる筋合いはないでしょう)

結局のところ、第3の男を特別讃えようとするなら、ただ単に彼の信仰心が篤いという点をもってしかありません。しかしそれは当然のことながら宗教の信者から見た限定的視点でしかありません。となると、第3の男を特別に讃えることは、すなわち、讃えた人間にとっての信仰の告白に他なりません。

つまり、何か自身に信仰するものがあるからこそ、あるいは信仰することを渇望しているからこそ、第3の男が美しく思えるのです。その信仰が正真正銘の宗教なのか企業的ビジョンなのかは人それぞれでしょうけれど、この寓話がビジネストークで用いられてることを鑑みれば、おそらく後者がほとんどでしょう。そしてそのことはまたビジネスの宗教的側面を見事に映し出しているわけです。


まとめ

実を言うと、もうちっとツッコミたいところはあるのですが、さすがにそろそろまとめましょうか。

さて、このように、第3の男が働く意義として「大聖堂」という宗教的モチーフを用いているこの寓話は、とことん「信仰心」を問うてる寓話と言えます。それであるがゆえに、世の中のビジネスが今や「現実的な意義」から離れ「信仰心」を扱う活動となっていることをあぶりだしています。この点で、非常に面白く貴重な寓話であると言えるでしょう。

本稿では大変に長いことこの寓話の批判的吟味をしてきました(イチャモンをつけてきました)が、それだけこの寓話が現代社会の仕事の様相を見る上で興味深い題材であったからです。

この寓話は多分、見る人の労働観を映し出す鏡のようなものです。

江草は以上のように大変にまどろっこしいことを考えてるヤベエ労働観の持ち主ということが判明しましたが、みなさんはいかがでしょうか。この寓話どう思われましたか?

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。