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「書き捨て」があるなら「話し捨て」もあるよね

フミコフミオ氏の文章術の本を読んでたのです。

フミコフミオ氏はブロガー界では有名な方で独特の勢いのある文章を書かれるので、氏の書かれる文章術とは興味あるなと思い、ほうほうと言いながら読んでいたのです。(Kindle Unlimited対象ですし)

※氏の記事はたとえばこんな感じ↓

すごい勢いでしょ。最後の恒例の(所要時間)も圧巻。

で、書籍読書の進捗としてはまだ序盤なのですが、出てきた話が「書き捨てせよ」という心構え。「書き残そう」とするから書けなくなるのであって、最初から「書き捨てよう」と思って書いていたら結構書けるもんだよという話です。

たとえば、江草はここnoteで毎日文章を書いているわけですが、これは自然と「書き残って」しまうわけです。そうすると確かにちょっと人の目が気になって心にブレーキがかかる場面はやっぱりあります。このブレーキがかかって勢いがそがれて書けなくなるというのはめちゃ分かる話です。

で、だからこそ「書き捨てる」という作業が重要になると。

今から書くものはすぐに捨てるぞと思って書けば、本音も恥ずかしい話もむちゃくちゃ混乱した話もいくらでも書ける。それは確かに文章としてはカオスであるかもしれないけれど、書くという行為に対して自然と慣れることにもなるし、頭の中が整理されて自身の世界観を確立することにつながり、「書き捨て」に限らず書くことができる人間になってくるという寸法です。

まあ、ぶっちゃけ「フリーライティング」とか「ジャーナリング」とか「ゼロ秒思考」とかで言われてる話に近いもので、ものすごく新奇で珍しいノウハウというわけではないのですが、現に勢いがあって魅力ある文章を書かれてるブロガーさんが言われることだからこそ説得力が増してる感じがあります。


さて、実は今日の本題はこの書籍の話でも、この「書き捨て」でもありません。ここから派生した江草の着想をただ語りたい回だったりします。

というのは、この「書き捨て」の重要性を説いてる氏の書籍を読んでいて、ふと「書き捨てが大事なら話し捨ても大事なのかもね」と思ったのです。

「書いたものが残る」と思ったら書けなくなるし、少なくとも自由な文章が出てきにくいところがある。確かにそう。

となるならば、「話したものが残る」と思ったら話せなくなって、自由な意見が表出しにくくなることもあるだろうなと。

考えてみれば別に際だって変わったことを言ってるわけではありません。

たとえば、「あなたの発言は全て録音させていただきます」とゴトリと録音モードのスマホを目の前に置かれたら、ちょっと身構えてしまいますよね。診察室でこれをやる患者さんが時にいるらしくて(江草は幸い遭遇したことがないですが)、時々SNS上の医師クラスタが激おこしてたりもします。

あるいは、商品やサービスの不具合があってプンスカしながら問い合わせ電話をかけた時。「品質改善のためこの通話は録音させていただきます」という機械音声の前置きから始まることが最近ではほとんどですけれど、これは要するに「録音してるからクレーマー的な発言は控えとけよ」と心理的圧力をかけてるものでしょう。

そんな感じで、「あなたの発言が残るよ」と言われると、「発言に気をつけよう」と脳内の自粛モードが発動するという傾向があることは、誰も否定しないところでしょう。

これ、あくまで「残る」と言ってるだけで、「○○という話はするな」などと直接的に内容に制限がかかってるわけでないのに、発言内容に影響があるという面白い現象なわけです。

で、レコーダーでガッツリ録音されてない場面でも、これはこっそり効いてるんじゃないかと思うんですよね。

たとえば、会議。
あくまで「会議の内容を全て録音してます」という体でなかったとしても「議事録を作ります」となってるならば、それはやっぱり「話し捨て」ではないわけです。それだけで十分「話し残る」というモードで参加者は当然話すことになる。そうなるならば、これまでの本稿の流れを踏まえれば、そこでは何かしら「話されないもの」が発生しうると言えるでしょう。

もっと言うと、「議事録を作る」という前提さえなかったとしてもあり得ます。「○○について会議しましょう」などとうやうやしい公的な設定がなされただけで、「この場での発言はある程度の重要性をもって受け止められるかもしれない」と、どうしてもいくらか「話し残る」モードにはなるはずです。

「書くこと」において、書き捨てることで初めて書かれる何かがあるとするならば、そしてそれが重要なものであるというならば、「話すこと」においても、話し捨てることでしか語られない重要なものがあるかもしれません。


では、「話し捨てる」とはどういう時になされるか。

それはやっぱり偶発的に生じる雑談にあると思うんですよね。

「何時から何時までのミーティングです」みたいな枠組みすらなく、「何時に待ち合わせて話をしましょう」などの約束事で会ったわけでもなく、たまたまバッタリ誰かと会ったときになんとなく始めた雑談が盛り上がって意外な方向のトークに発展した時。まさにここに「話し捨て」の妙味があるのではないでしょうか。

お互いに「この話が残る」とは思っていないからこそ出てくる率直な意見。「○○について話す場です」などのテーマ制約もないからこそ出てくる自由な展開。

しばし歓談した後に、「おっと意外と雑談が盛り上がっちゃったな、じゃあまた」と言って別れた時に、ふと感じる「今の雑談めっちゃ面白かったし、思いのほか深かったな」という充実感。

これが多分「書き捨て」に対応する「話し捨て」に当たるんじゃないかなと。

まあ、つまりは「雑談が起きる場ってやっぱり大事だよなあ」という月並みな結論ではあるのですが、世の中「雑談なんて無駄だ」として締め出そうという人も少なくないですから、改めて「書き捨て」という視点を通して、「雑談」という名の「話し捨て」の意義を示してみたかったというのが本稿の主旨になります。


ところで、書いていて後から思い至ったのですが、「話し捨て」は「独り言」に当てるのが適切という可能性もありますね。

「独り言」は記録に残らないですし、「書き捨て」と同様に独りで行われるという共通点もあります。だから、こっちの方が本当は合ってるのかもしてない気もしないでもありません。

ただ、「独り言」って、「独りで書き捨てる」以上に、ちゃんと有効的に続けるの難しいんじゃないかなあとも思うんですよね。

「書き捨て」は一見カオスのようであって、直前に自分が書いたものは見えるので(後で捨てるとはいえ一時的には「書き残っている」ので)直前の自分(過去の自分)との対話ではあるんですよね。だから、意外と書けるものです。

その点、「独り言」は一時的にすら固定されるものがないので、直前に自分が何を言ったかすら分からなくなってきます。だから、ひたすら自由に独りしゃべり続けるのは、独りで書き続けるのとは全然わけが違って、非常に難しいように思われます。

もちろん、人によって延々と独り言をするのが得意な方もいるかもしれないので、必ずしも万人に難しいとは限らないとは思うのですが、ちょっと「独り言」では「書き捨て」以上のカオス度がありすぎる気がしています。

だから、一般的に現実的で妥当なレベルの営みでありうる「偶発的な雑談」の方が「話し捨て」っぽいんじゃないかなあと思う次第です。

(所要時間40分)

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