ブルシット・ジョブ批判について
子どもを連れて出る所用があったので、そのついでに本屋に行ってました。
そうしたら店頭でババンと展示されてたこの本が目に入りました。
『資本主義が人類最高の発明である』
Wow!
明らかに剣呑なタイトルです。
タイトルもさることながら、イーロン・マスクが推薦文を書いていることからも経済右派バリバリの内容なのだろうなと推測できますね。(イーロン・マスクの思想的スタンスについては橘玲『テクノ・リバタリアン』など参照ください)
ちょうどネーモさんのこの資本主義についての記事を読んだところだったので、これは面白そうだと思い、ちょっとパラパラと立ち読みしてみました。
さて、『資本主義が人類最高の発明である』。
立ち読みでまず目次を見ると「ブルシット・ジョブ」について批判している節が目に止まりました。「お、ブルシット・ジョブも射程範囲なのね」と感心して、どんなものが書いてあるのかなと覗き見してみました。
あくまでその節のみざっくり読んだ限りの江草解釈ですが、著者の主張は次のようなものでした。
……いやあ、苦笑せざるを得ない批判ですね。ちゃんと『ブルシット・ジョブ』読んだのでしょうか。
グレーバーは、当人の本音としては暇で意義を感じられない仕事にもかかわらず、対外的には「忙しくて意義ある仕事なんですよ」とアピールしなきゃいけないという欺瞞性について最も問題視していたはずです。
実際、書籍『ブルシット・ジョブ』では、自身の仕事の無意義さと暇さに悩む者がもしも「自分は本当はたいした仕事してなくて暇でつらいんだ」などと告白しようものなら、周りの人から「暇にもかかわらずそんな高給だなんていい仕事じゃん」と逆に羨ましがられてしまうに違いない、という認識がさらに当人の精神を蝕むという論を展開されてたかと思います。下手をすると羨ましがられかねない境遇にもかかわらず、なぜ自分は苦しく感じているのかと認知的不協和に悩むわけです。
つまり、『資本主義が人類最高の発明である』の著者の指摘はまさにそうした「仕事中そんな暇ならめっちゃ良いじゃん」と無邪気に励ましてるコメントと変わらず、「意義のある仕事をしたい」と考えてる労働者にとって救いになるどころか追い詰めるものなんですよね。少なくとも『ブルシット・ジョブ』では当然に認識され議論されていた点であり、それをただ指摘するだけでは何の反論にもなっていないのです。
『ブルシット・ジョブ』の巻頭の辞が「なにか有益なことをしたいと望んでいるすべての人に捧ぐ」であることも象徴的でしょう。「暇ならいいじゃん」とかいう問題ではなく「実は暇でたいしたことしてないのに忙しくて有意義な活動をしてるふりをしないといけない」という欺瞞性こそが、グレーバーも再三強調していたように、ブルシット・ジョブ問題の本質なのです。
なので、『資本主義が人類最高の発明である』のブルシット・ジョブ論批判は申し訳ないですが的外れと感じました。(もっとも、当該箇所しか読めてないので、書籍のほかの部分の論は真っ当な内容である可能性はあります)
しかし、このように世のブルシット・ジョブ論批判が的外れなことは多く、ブルシット・ジョブという概念の分かり難さ、誤解されやすさを反映してると思います。
他書で言えば『21世紀の道徳』がまた別の切り口でブルシット・ジョブ論批判を展開していましたが、これもまた的を外したものでした。(この詳細は下記記事の余談的なところに)
なんなら、『ブルシット・ジョブ』の訳者の一人である酒井隆史氏でさえその著書『ブルシット・ジョブの謎』の中で、ブルシット・ジョブが資本家の陰謀の産物であるかのように語るという困ったことをしでかしています。グレーバーが「これは陰謀論ではない」と明記していた(し、それを酒井氏自身が邦訳していた)のにもかかわらずです。(この詳細は下記記事に)
これは資本主義批判が往々にして的を射てないのとある種似た構造の問題なのでしょう。「ブルシット・ジョブとはなんぞや」が分かりにくいのと同様に「資本主義とはなんぞや」もよくよく考えるとよく分からない。それで、それぞれが批判しやすい像として都合良く描いた相手(ブルシット・ジョブ論であったり資本主義であったり)を論破して悦に入るという不毛な状態です。
まさにネーモさんが先の記事で指摘してた話ですね。
これをブルシット・ジョブ批判に置き換えるならば、ブルシット・ジョブの概念が抽象的で分かりにくいがゆえに、フワフワした的を射てない批判が行われ、そして働き者ぶりたい経済右翼によるマイ仕事論が披露されるファッションショーが開催される運びになるわけです。
この構造はある種の藁人形論法と言えそうですが、実存する生身の人間を呪うための藁人形と違って、「ブルシット・ジョブ」やら「資本主義」やらといった概念を呪う藁人形は、その本体が確たる実態がない抽象物に過ぎないので、「幽霊を呪うための藁人形」みたいなもので、藁人形だけが現世に増殖して、何がなんだかわからなくなるんですよね。
藁人形しか実在してない世界では、全ての論は藁人形論法になることを避けられないというわけです。
ただ、江草も基本的にはグレーバーの論考に支持的な立場と言えど、実のところ「ブルシット・ジョブ」の概念にも問題や限界があると思ってます。
グレーバーの「ブルシット・ジョブ」の定義は、主観に依存してます。すなわち「本人がどう感じてるか」です。本人がこの仕事は全く意義がないなと感じてたら客観的にはどうあれ「ブルシット・ジョブ」ですが、本人が有意義だと感じてたら客観的にはどうあれ「非ブルシット・ジョブ」です。
これは、グレーバーの慎重さ、議論的誠実さから来てる定義と評価できるのですが(個々の特定の仕事について客観的視点から無価値と断じる事を避けた)、いかんせん主観を軸にすると、世間的には「じゃあ主観を変えればいいじゃない」という発想に流れがちになるんですよね。
つまり、「ブルシット・ジョブが問題だ」と言う時、グレーバーが目指すような「ブルシット・ジョブを誘発する資本主義社会の問題だ」という社会構造を議論する方向性にはならずに、「本人が仕事の意義を感じられないなら意義を感じるようにさせたらいい」と言われてしまう。端的に言えば「仕事を好きになれよ!」みたいな熱血精神論がやってくるのです。
ブルシット・ジョブが定義的にどうしたって主観なので、こうした精神論がなだれ込んでくる流れを止められないのですね。
実際、今や、いかに従業員に楽しく有意義な気持ちで働いてもらうかに企業はこぞって力を入れています。オシャレなオフィスを用意して、イケてるビジョンとミッションを掲げて、労働者の主観的体験(ワーカーズエクスペリエンス)を満足いくものにしようという努力をしている。
哲学者スヴェンセンが『働くことの哲学』でアイロニカルに指摘したように、それはもはや宗教的様相ですらあります。
また、グレーバーがブルシット・ジョブ蔓延の論拠としてる「自分の仕事が人類社会に貢献してると思えないという回答が4割にのぼった」というYouGovのアンケート結果も、時に批判者が指摘するように(なんなら今回の『資本主義が人類最高の発明である』でも噛みつかれてました)、確かに頼りないものですし、追随する続報もあまり聞かれません。
だいいち、仕事内容が何ら変わらなくとも(たとえ本当に意義のないクソ仕事であったままだとしても)、上にあるような企業による「宗教的洗脳儀式」が奏功すれば、主観的感覚しか問うてないアンケート回答結果はそれによりきっちり改善するでしょうから、そればかりを論拠にすることはむしろ洗脳を肯定する方向性にもなりかねません。
「どの仕事に客観的に意義があると言えて、どの仕事に客観的に意義がないと言えるのか」という最大級に厄介な議論をとりあえず回避し、主観に頼る定義にこだわったことで、「ブルシット・ジョブ」という刺激的な問題提起を、スムーズに、しかもグローバルレベルで実現したというのは、さすがのグレーバーの議論の巧みさであったとは思います。
しかし、その定義が主観であるがゆえの限界もやはり迫ってるのではないでしょうか。
もちろん、これはどうしたって難題ではあるのですが、いつまでも客観的な意義評価の問題から逃げ続けることもできないのではないか、あるいは主観的な感覚だけの問題に押し止どめるのは無理筋ではないか、と江草は感じているのです。
あとついでに言うなら「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」という語感も良くないですね。センセーショナルで目を引く言葉ではあるものの、だからこそ品がないし本質的意味も伝わりにくい用語になってしまってるきらいがあります。
社会に対し問題提起を始める初っ端のフェーズ(離陸フェーズ)にはまずは無理矢理にでも注意を引くことが良かったとしても、広く公共的問題として認識され議論されるようにすることが肝要な普及フェーズにおいては、この「ブルシット」という言葉遣いはかえって支障になってる気がします。
だって、たとえばNHKで言えないでしょう、「ブルシット」とか「クソどうでもいい」とか。たとえ頑張ってメディアが扱ってくれたとしても、多くの人(ノンポリ大衆)は眉をひそめてしまうだけかと思われます。
なので、「無意義で不毛な労働」を問題点の軸に据えて社会批判を繰り広げるにしても、そろそろ何か「ブルシット・ジョブ」ではない役者が必要になってきてるんではないかなと、江草的には考えてます。